常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

脚力尽くる時、山更に好し

2020年07月27日 | 登山
最近、妻の脚が弱ってきている。歩行は長い距離は無理だし、立ち上がりや座るのも一苦労している。家事は我慢しながら、こなしているが、脚に負担のかかることは、できるだけ代わってしようとするが、自分でしたことに責任を感じているようで、なかなかさせたがらない。老人の二人住まいは、どこか不自由が出てきたときはじめて、本当の生きかたが試される。

脚力尽くる時、山更に好し
限り有るをもって窮まりなきを趁う莫れ

蘇軾は1073年、杭州の副知事であったとき、近郊を旅して臨安の西の玲瓏山に登った。名の示す通りの美しい山である。双耳をなす二つの峰は、青龍が向かいあっているようであり、九折巌は痩せた背骨のようにどこまでも曲がりくねっている。なかほどに三休亭があって、ここからは山の風に吹かれ、月を眺めるのにもいい場所である。詩句の意味は、歩き疲れて足やももに痛みを覚えるとき、高山の景色はひときわうつくしく、我身に迫ってくる。限りある身であれば、なにも無窮を求めてしゃにむに歩くことはない。ここからの景色を堪能しようというほどの意味だ。

自分の山登りは、今では脚力に合せた山選びから始まっている。蘇軾のように、登り切れない山には登ろうとはしない。日々、ウォーキングをし、少しでも脚力の維持に努めている。妻の足を考えると、山を人生に置き換えてみるのもよい。いつまでも健康であった時だけを思うのではなく、人生のこの地点で立ち止まって、じっくりと辺りに目をむけると、そこにもまた素晴らしい景観が広がっている。そんなことを教えてくれる蘇軾の詩である。
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到来もの

2020年07月26日 | 日記
この季節、親せきからの到来物がうれしい。いずれもその地方の名産品。尾花沢の小玉スイカ。北海道からは暑寒別メロン。どちらも昼夜の寒暖の差が、果肉の甘みを決定する。夕張メロンは、閉山となった夕張炭鉱のあと、地域おこしの期待を担って登場した。一つの株から二本の蔓、4個を限度に成熟させる。赤肉の美味しいメロンは人気を呼んで特産品となった。ブランド管理は厳格で、同じ種を使っても、決められた地域以外では夕張メロンの名称を使うことは禁じられている。この人気にあやかろうと、北海道の各地でメロン栽培が盛んだ。暑寒別山の麓の地区のメロンも、ブランド力では劣るが味は決して見劣りすることはない。食べごろは26日ごろと記載されているので、楽しみだ。

白樺を日のもる卓にメロン割る 伊丹丈蘭

尾花沢スイカも評価が高い。東京をはじめ、関東でも広く流通している。県内でも各地でスイカの栽培は行われているが、気象条件、土壌の環境が好適なのか、ここのスイカを越える品質のスイカが収穫された例はない。その収量も熊本、千葉に続いて全国3位の位置にある。しかも、収穫時期が、南から北へと進んでいくので、出荷時期が重ならない。盛夏の尾花沢スイカが、賞味されるのは、梅雨が明けた時期である。

これの世や西瓜を割れば色烈し 篠田悌二郎

山路の旅で、スイカはうれいしい限りだ。一昨年、燕岳に登ったときのことである。日本三大急登といわれる合戦尾根。中房温泉から第一から四ベンチ、そして合戦小屋まで、急登の連続である。仲間の一人が熱中症の症状で、喘ぎながら着いた合戦小屋、ここで売られているのは、冷やしたスイカである。皿に切り分けられたスイカが載っている。このスイカを一口、口にしただけで、あの苦しさは不思議と消え去った。そこから燕山荘までややしばらくの道のりだが、夕食時に飲む一杯の生ビールに励まされてこの道を登り切った。またこんな思い出の山行ができるか、危ぶまれる年齢にさしかかっている。
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リアトリス

2020年07月25日 | 日記
計画していた月山縦走は、長雨のため、2週続けて延期となった。加えて、18歳を迎えた藤井棋聖が、竜王戦でベテラン丸山9段に、黒星をつけられた。コロナの感染拡大は、ますます日本中へ広がりを見せ、終息の気配が見えない。すっかり気分が暗くなってしまう。こんなことで、いいのだろうか。こんな心を慰めてくれるのは、先人の残した言葉の数々。

まあ、茶でも一口すすろうではないか。明るい午後の日は
竹林にはえ、泉水はうれしげな音を立て、松籟はわが茶釜
に聞こえている。はかないことを夢に見て、美しいとりとめ
のないことをあれやこれやと考えようではないか。
(岡倉天心『茶の本』)

気を取り直して散歩に出る。いつも歩く親水公園の辺にリアトリスの花が咲きはじめていた。初めて知る花だ。原産地は北米、日本には大正の頃に渡来した。和名は
キリンギク、ユリアザミ。知らないのは自分だけで、遠い昔から日本で親しまれてきた花であるらしい。

もう一つの慰めは、畑で採れる夏野菜だ。雨は夏の野菜を美味しくしてくれる効用がある。鼠にやられて植え直したキュウリが採れ始めた。成長過程のまだ小さめのキュウリが味噌をつけても、ぬか味噌も絶品だ。トマトが色づきはじめた。自分で作ったからかもしれないが、朝どりの野菜たちが元気をくれる。モロヘイヤが、やっと収穫できるようになった。これも、茹でたものをとトロロ状に叩いて食べたが、これも病みつきになる。今年はオクラに、ピーマン、万願寺ナンバンが豊作。市役所で始めて健康づくりアプリ「すくすく」に野菜を食べるという項目があり、これを報告すると
ポイントがもらえる。暗い気分を吹き飛ばして、明るい日々を楽しもう。
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時の過ぎ方

2020年07月24日 | 日記
ダリアが咲くと、ああ今年もこの季節になったか。それにしても、一年の巡りは早いと思うのは、自分ばかりではないらしい。年を重ねると、時は怒涛のように流れて、大暑になる前にすでに秋を感じている。よく言えば、季節の先取りとも言える。岩波文庫の名句365という冊子がある。パラパラとページを繰って拾い読みしていると、ツルゲーネフのこんな言葉が目に入った。

「時の過ぎるのが早いか遅いか、それに気づくこともないような時期に、人はとりわけて幸福なのである。」

この言葉を信じれば、それは自分にとっては、何かに打ち込んでいた時期にあたる。すでにその時期は遠い過去になっている。しかし、時はそれほど単純なものでもない。死と隣り合わせのような暑い夏をやり過ごすには、時の流れは速い方がいい。極寒のなかに閉じ込められて人が求めるのは、早く春が来てほしいということだ。夏が過ぎていくことに、淋しさを感じることもまた事実だ。

さらば、あまりに短かかりしわれらの夏の烈しき光よ!

これはボードレールの詩の一句。押しとどめることのできないのが時の流れであり、そこに生きる限りある命は、時の流れがその形を変えて行く。
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百日紅

2020年07月23日 | 日記
近所の公園に一本の百日紅の木がある。蝉の鳴くころ、花が咲くので、そろそろ咲かないかと思って見たのが一週間ほど前だ。その時は、花芽がふくらんでいたので、数日のうちにはと思って、つい失念してしまった。今朝、その木の前を通ると、花をたくさんつけている。やはり、この花も季節を知らせる花、と思いながら撮影していると、犬を連れた若い女性が声をかけてきた。「百日紅ですか?」と聞かれて、「そうです」と答えた。この花に何か思い入れがあるらしく、言葉を継ぎそうにして、思いなおすように無言で去って行った。

この花は、お寺の庭に植えてあることが多い。義母の墓のある寺にも大きな百日紅があって、お盆の墓参りでは、この花を見ながら墓参りをする。先刻の娘さんも、あるいはこの花から、実家の寺や墓を思い出していたのかもしれない。百日紅と書くのは、梅雨明けの頃に咲き始めて、炎天下に百日も咲き続けるからだ。

百日紅この叔父死せば来ぬ家か 大野林火

ウォーキングに買ったばかりのサングラスを着用している。真夏の太陽が裸眼に与えているストレスがかくも強いものか、サングラスを使用して初めて分かる。とにかく、日光の刺激を和らげて、気持ちが楽なのだ。辺りの景色も、やわらかに見える。畑仕事にも手放すことができない。山行の時は、もっといいだろうと想像しながら、いい買い物をしたと満足している。
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