京都の北東に位置する上高野は、大原に通じる途中にある、今は、多くの住宅が立ち並ぶエリアです。
ミモロは、ある日、「三宅八幡宮」に参拝に出かけました。

叡山電鉄が通るこのエリアは、近年、住宅地として人気が高く、市街地では叶えられない広いお庭の住宅などが、次々に建てられています。
広々とした地域には、畑や水田も残るのどかな雰囲気も…。

「あ、水田に稲の苗が育ってる…」

ミモロは、この辺りを少し散策することに。そこで、三宅八幡宮の参道から少し外れ、細い道へと進みます。
その道が続いく先には、こんもりとした森が…
「ここなんだろ?神社かな?」

小高い丘になっているところで、そばには、「おかいらの森」と「小野瓦窯跡」の石碑と木の看板がありました。

ここは、そばの「崇道神社」の御旅所でもあります。
その丘の周りは、畑が広がり、そのあぜ道を進むミモロです。

ちょうど、畑で作業をなさっている方が…「あの~ここら辺は、昔から畑なんですか?」と声をかけました。
「はい、そうですよ。今は、住宅がたくさん立っていますが、その昔は、広々と畑などが広がり、ここから、宝ヶ池が見えたんです」と。
なんでも、この地域は、とても歴史あるエリアで、その方のご先祖様は、平家の落人だったとか。源氏に敗れた平家の武将たちは、北陸をめざし、都から落ち延びますが、体力がないものたちは、北陸までの長旅ができず、この地に暮らしはじめたのだそう。
「ですから、ここら一帯の古くからある家は、みんな親戚なんですよ」と。
「あの~ところであの丘はなんですか?なにかの遺跡?」とミモロ。
「はい、そうです。あれは平安時代に御所や公家の家、お寺などの瓦を焼いた場所なんです。かつては、とても大きな登り窯があったそうです」と。「小野瓦窯跡」は、平安京建設を担った場所で、この窯は、官営のもの。今も、土の中から、平安時代の瓦が出土する場所です。
「あ、この平たい石みたいなのも瓦かなぁ~」と、畑のあぜの土から見えるかけらを手にとるミモロです。「そうですね~。よく瓦がでるんです」と。もちろん遺跡ですから、そこの瓦を勝手に持ち帰ってはいけません。
窯跡のある「おかいらの森」の「おかいら」は、瓦屋がなまったものとも言われます。
このエリアは、下鴨神社の南で合流する賀茂川と高野川で、高野川の上流にあたります。高野川は、かつて「埴川」(はにかわ)と呼ばれ、埴輪の「埴」の文字から、焼き物に関係した川であったことが推察されます。
「埴川(高野川)って、やっぱり焼き物をする場所があったんだ~」とミモロ。
この「小野瓦窯跡」の小野というのは、遣隋使の小野妹子と深いかかわりがある土地であることを物語ります。ここは、かつて小野郷と呼ばれ、小野一族が治める土地で、隋から帰国した小野妹子も住んだとか…。
「すごく長い歴史ある土地なんだ~。知らなかった~」とミモロ。
かつては、一面、見渡す限り畑があったというこの地域。次々に住宅が建てられ、ほかの土地から人々が移り住んでいます。

「今は、自分の家で食べる分くらいの量の野菜しか作ってませんけど…」と。そうはいっても、かなり広い畑で、いろいろな種類の野菜がのびのびと育っています。
「あ、かぼちゃ、ナスもなってる…」


「これなんだろ?」とミモロは、見たことがない野菜のそばへ。

「それ、ズッキニーです」「へぇ~ズッキニーって、こうやってなるんだ~。キュウリみたいにできるのかと思ってた~」
「キュウリね…これよかったら、食べてください…」と、ミモロの目の前で、大きなキュウリをもいでくれました。

塩があったら、そのままかじりたいようなキュウリです。
思わず頂いたキュウリを袋に入れて、「後で食べよう…ありがとうございました」と農家の方にお礼をいって、再び「三宅八幡宮」の参道へと戻りました。

ブログを見たら、金魚をクリックしてね。ミモロより