ネコのミモロのJAPAN TRAVEL (Mimoro the cat:JAPAN TRAVEL)

「京都観光おもてなし大使」のライターとネコのミモロが、京都の情報や暮らし、グルメなどをご紹介。心和む雑誌のようなブログ

夏の嵯峨野と嵐山、向井去来とゆかりが深い「落柿舎」。庭には青い実がたわわについた柿の木

2015-08-25 | 歴史・史跡

東京から訪れたお友達といっしょに、ミモロは、久しぶりに嵐山へ出かけました。
夏の陽射しが注ぐ中「なんか風は、ずいぶん涼しくなったのよね~」と、確実に秋が忍び寄っていることを感じます。

嵐電の終点「嵐山駅」から、トコトコとのどかな景色が広がる中を歩きます。
「あそこに見えるのが、『落柿舎』だね~。行ってみる?」とお友達を案内するミモロです。

 
広い畑に面した茂みの中にある『落柿舎』は、松尾芭蕉の弟子の俳人、向井去来が、貞享2年(1685)、35歳の時に嵯峨野に構えた別荘です。元禄2年(1687)には、松尾芭蕉が、この庵を初めて訪れ、その後、2回、ここへ来たそう。ちなみに、住まいは、聖護院のそばにありました。

茅葺屋根の庵。「あ、キッチンが見える…」とミモロは、かまどや水場がある炊事場をのぞきます。
  

「こんにちは~」玄関から中へ声を…

玄関脇には、四畳半の部屋と奥に三畳の座敷が続きます。

「なんかコンパクトなお住まい…でも、開放感があって過ごしやすそう…」
天井も高く、部屋の前には、縁側があるので、狭い部屋は、広く感じられます。
「なんか気持ちいい~」と縁側でひと休み…。

この庵は、実は、向井去来が、宝永元年(1704)に没したのち、廃れ、現在の場所に、明和7年(1770)に俳人、井上重厚という人が、再建したものと言われ、向井去来が過ごした庵とは、場所も違います。
「え~つまり、この中のものって、去来とは関係ないんだ~」とミモロ。

そうなんです。この土地は、天龍寺塔頭の弘源寺の地所であり、重厚が建てたものは、その後「捨庵」と呼ばれる僧侶の隠居所となったそう。その後、明治時代に売却されたのを、地元の方が購入し、「落柿舎」として再興。現在は、保存会が維持管理しています。

「ということは、これ明治時代の建物なんだ~」とミモロ。そう…向井去来の「落柿舎」のイメージを再現したものと言えるかもしれません。


でも、向井去来が暮らした時代…ここに主人がいることを示すために壁に蓑と笠をかけたのだそう。今掛けられた蓑と笠に、当時の風情が漂います。


広いお庭には、夏の花々が涼やかな姿を見せています。

「あ~柿が青い実をつけてる~」敷地内には、柿の木があり、玄関そばには、樹齢数百年といわれる大木が聳えています。
 

去来が結んだ庵に「落柿舎」という名をつけたのは、当時、庭には、多くの柿の木があり、それが強風で、一夜のうちに、つけていた実を落としたことからといわれています。

秋になると、庭の柿は、色づき。それは見事なのだそう。


「落柿舎」の前には、大きなサルスベリの木が、夏の陽射しを受けて、たくさんの花を咲かせています。
ミモロ気を付けて~
「うん、ネコも滑りそう…」

敷地内には、俳人の庵にふさわしく、芭蕉、虚子をはじめ、多くの俳人の句碑が点在しています。

嵯峨野の景色にふさわしい情緒あふれる建物には、この日も多くの観光客の姿が…


ミモロは、見学を終えると、またトコトコとお友達と歩き始めました。


次は、どこに行くの…

*「落柿舎」京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町20 075-881-1953 拝観料:200円 9:00~17:00(1月、2月16時まで)

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コメント (2)
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