しなしなの記録

 しなしなの趣味の記録です。洋楽カラオケ、郵便局訪問、川、猫など

猫との出会い その114 雨上がりには猫ちゃん達はいっせいに外に出てきます。狩をする習性からでしょうか

2016-11-09 22:24:10 | Weblog

 昨年の9月1日、私は、雨の中、川崎市多摩区から東京都調布市に入りました。世田谷区との堺を歩いていると、ちょうど雨が上がりました。下の写真の世田谷給田郵便局から調布緑ヶ丘郵便局までの間に2匹の猫ちゃんに出会いました。

 

 

 一匹は、サビ柄の猫ちゃんです。道を歩いていました。

 

 突然、立ち止まって、毛づくろいを始めました。

 

 もう一匹の猫ちゃんは、雨上がりの道路に箱すわりしていました。

 

 

 いったいどうして、あんな所に座っていたのでしょうか。

 雨が上がると、いっせいに猫ちゃんたちは外へ出てくるようです。狩にでかける習性が残っているからでしょうか?それとも縄張りの見張りでしょうか?飼い猫には、必要ないのでしょうが。
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鹿との出会い その1 稚内公園に向かう坂で、距離1mくらいまでエゾシカに接近してしまいました

2016-11-06 04:35:04 | Weblog

 9月30日(金)のことです。北海道稚内市の稚内公園への坂を登っていた私は、道路沿いで草を食べているエゾシカを発見しました。

 

 「間知石の擁壁の上だから、大丈夫だろう。」とその横を通り過ぎて行きました。

 

 稚内公園からの帰り道に幼稚園か保育園と思われる施設の庭に、今度は2頭のエゾシカを見つけました。

 

 

 親子でしょうか。

 そして、稚内駅に戻るため、私は、坂を下りて行きました。北門神社へ向かう道へ入るため、階段を降りた所で、視線にエゾシカの頭が入りました。トップの写真の状態です。最初に見たエゾシカがここまで移動してきたようです。思わず、「こんな所にいたの!」と、エゾシカに声をかけてしまいました。
 何事もなかったようにエゾシカを通り過ぎ、かなり離れてから写真を撮りました。

 

 トップの写真は、上の写真と同じ場所からズームして撮影したものです。エゾシカに1mくらいまで、接近したのは初めてでした。
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稚内市では、北防波堤を見たあと、稚内公園に行ってみました。様々な慰霊碑などがありました

2016-11-05 06:47:27 | Weblog

 稚内市には、何度も来ていますが、稚内公園に行ったのは初めてです。下の北門神社のところから坂を登り、稚内公園に向かいました。

 

 途中からの眺めは素敵です。

 

 公園に着くと、「氷雪の門」が有りました。

 

 

 「氷雪の門」は、樺太で亡くなった方の慰霊碑です。戦争で亡くなった方も含みます。

 そして、「九人の乙女の碑」が有りました。

 

 ソ連軍の参戦により、樺太の真岡郵便電信局の殉職した九人の交換手の慰霊碑です。青酸カリ等で自決したのだそうです。碑には、トップの写真のように、「みなさんこれが最後です。さようなら、さようなら。」と刻まれています。

 

 昭和43年9月5日、稚内市を訪れた昭和天皇皇后陛下が、先の九人の乙女の話を稚内市長からお聞きになり、詠んだ歌が行啓記念碑になっています。

 

 「樺太師範学校教学の碑」も有ります。

 

 遠くには、開基百年記念塔が見えます。

 

 上は展望室になっており、稚内市内、利尻・礼文まで一望できるそうです。そこまでは、時間が無かったので行きませんでした。私の目的は、観光でなく、郵便局訪問です。
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稚内には、世界でも珍しい半円形のアーチの防波堤が有ります。強風や荒波、吹雪を防ぐためです

2016-11-03 15:42:02 | Weblog

 9月30日(金)、私は、深夜バスで朝焼けの稚内港に着きました。

 

 日が昇るのを待ち、稚内港の北防波堤に向かって歩きました。
 北防波堤は、全長427mの半円形アーチの防波堤です。このような防波堤は世界的にも珍しいそうです。1931年(昭和6年)から5年の歳月をかけ、造られました。

 

 70本の柱は、ゴシック建築を模したものだそうです。

 

 

 

 

 鉄筋コンクリートの構造物ですが、私は、美しいと思います。でも、型枠の製作がたいへんだったろうなと想像しています。局面は、板を曲げて造ったとすると高い技術が必要だったなとも思います。

 この防波堤からは、樺太への連絡船が出ていました。稚泊連絡船です。その記念碑が有りました。

 

 鉄道線路は、このドーム防波堤の手前まで来ており、桟橋駅が設置されていたそうです。

 この北防波堤は、土木学会の土木遺産、2001年の北海道遺産に認定されています。
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由利本荘市の本荘城址に行って、驚きました。本荘城は石垣の無い「土塁の城」でした

2016-11-01 21:35:21 | Weblog

 8月21日(日)、由利本荘市の羽後本荘駅に着いたのは、16時過ぎでした。ホテルに入るには、少し早いし、夏の太陽はまだまだ空に浮かんでいることから、本荘城址に行ってみることにしました。20分程歩いて、入口に到着です。

 

 入口には、鶴舞城址と書かれています。本荘城址の別名だと思いました。後で知ったのですが、尾崎城という呼び方もされています。城跡は本荘公園になっています。

 本丸に向かう坂を歩いていて気が付きました。トップの写真のように、全く石垣が有りません。「石垣は取り壊されたのかな?」と考えていました。案内図と解説が有り、解りました。

 

 本荘城は土塁と堀で固めた「土塁の城」で、石垣は築かれなかったのだそうです。こうした築城様式で有名な城なのだそうです。珍しいのではないかと思います。

 もともと最上義光の臣、本城満茂の城が有ったところだそうです。そこに最上氏が5万5千石の本拠として、1613年(慶長3年)ここに本荘城を築いたそうです。1622年(元和8年)、跡目相続のお家騒動から最上氏が改易となり、本城満茂もこの地を去りました。その後、由利領はいったん宇都宮城主本多正純の領地となります。そして、1623年(元和9年)、六郷政乗がこの地に入ります。しかし、領地が分割され、2万石となったため、六郷政乗は、城の規模を縮小したそうです。

 その後、本荘城は六郷藩の居城として栄えたが、1868年(明治元年)の戊申戦争で焼失してしまったそうです。

 修身館なる建物が有りました。

 

 本荘城の三の丸にあった、藩校「修身館」に由来する建物です。2005年(平成17年)にオープンした施設です。由利本荘市の歴史・文化を学習するための施設です。

 本丸の館なる建物も有りました。

 

 そこからの眺めは下の写真です。

 

 それほど高い場所でも無いので、このような眺めです。本荘城には天守閣は無かったそうです。なので、城が有った当時もこのような眺めだったのでしょう。
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