ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

はじめての『独学自修』

2017-12-08 22:06:11 | あの頃
 前回、校長として勤務した小学校で、
開校100周年記念式典が行われたことを記した。

 この学校の校歌は、なんと北原白秋・作詞、山田耕筰・作曲なのだ。
昭和11年に作られ、歌い継がれている。

 1番の歌い出しは、「煙(けぶり)煙(けぶり)空になびく」である。
当時は、近くに工場群があり、煙がモクモクあがっていたのだろう。
 きっと、それが賞賛された時代だったのだと思う。

 また2番の「勇まし我等 日本児童 日本児童」の1節に、
戦争への道を感じるのは、私だけではなかっただろう。

 そんな時代観の違いもあり、戦後になってすぐ、
それまでの校歌を見直し、新しい校歌にした学校も少なくない。
 しかし、この校歌は生き残った。

 それは、3番の「励めよ我等 独学自修 独学自修」にあると、
私は思う。
 『独学自修』は、今日の教育課題に通じている。
「自ら考え、自ら課題を解決する力」、そのものなのである。
 この言葉は、長年にわたり校訓として、
子ども達の心に刻まれてきた。

 100周年祝賀会で、挨拶に立った卒業生の中年男性は、
胸を張って言った。
 「高校、大学へ進んだ時の私にとって、
独学自修の言葉は、大きな力になりました。」
 校訓が生きていることに、私は一人胸を熱くした。

 さて、私の「はじめての『独学自修』」に移る。
この体験は、恥ずかしさが先行し、
全校朝会での話題にできなかった

 かなり曖昧な記憶である。
小学校4年生になり、A先生が担任になった。
 綺麗でやさしい先生だった。

 私は調子にのっていた。
毎日、学校に行くのが楽しかった。
 年令も手伝っていたのだろうが、
すごく快活で、わんぱく盛りな時だった。
 それでも、大好きなA先生の困った顔がいやで、
叱られると素直に、それを受け入れた。

 ところが、母や兄の勧めで通い始めたそろばん塾では、
騒ぎまくった。
 なかよしだった同級生と一緒になり、
そろばん塾の先生を困らせた。

 週3回だったが、最初の読み上げ算が始まるとすぐに、
『好き勝手』をやりはじめた。
 くり返されるごとに増す読み上げの速さについていけない。
なら、周りの子と同じように、
指を止め、静かに次を待てばいい。
 それが、そろばん塾のルールだった。

 ところが、私はそうしなかった。
「早くて、できないよ。」
  決まってそろばんを振り回し、大声で叫んだ。
「ぼくも、できない!」。「ぼくも・・」。
  次々と声を張り上げ、数字を読み上げる先生の邪魔をした。

 「できなかったら、静かに待ってなさい。うるさい!」
「はーい。」
 声をそろえて返事をしながら、
しばらくするとまた同じことを、毎回毎回くり返した。

 そんな悪態が、親や兄弟に伝わらない訳がない。
ついに、母と兄の逆鱗に触れた。
 「そろばん塾の迷惑。もう行かなくていい。」
私の反省の弁など入る余地などなかった。

 当時、そろばん塾のお宅は、
小さな魚屋だった我が家のお得意さんだった。
 店を手伝っていた兄が、店の品を持って、
弟の悪態を詫びに行った。
 
 私がそろばん塾を辞めてすぐ、
一緒に騒いでいた同級生も、同じように辞めさせられた。

 私は、しばらく小さくなって毎日を過ごした。
心を入れ替えようと思った。

 数日して、10歳違いの兄に謝った。
「これからは、そろばんくらいできないと困るぞ。」
 兄は、真顔だった。
塾での悪態の数々を思い出し、泣きそうになった。

 「絶対に迷惑をかけないから、もう一度行かせて。」
思っていても、口にできなかった。

 ある日、学校からの帰り道、
そろばん塾を辞めさせられた4人がそろった。
 「これからはそろばんができないと困るって・・・」。
みんなして、うなだれた。
 「取り返しがつかないことをした。」
同じ思いで、秋の夕暮れ時をとぼとぼ歩いた。
 「でも、そろばんができるようになりたい。」
4人とも同じ思いだった。

 思い切って兄に相談した。
「そろばん塾に行かなくても、4人でやればいい。」
兄は、簡単に言ってのけた。
 
 再び、下校の道々、4人になった。
「4人でそろばん塾をやろう。」
 言い出しっぺは私だった。

 『月水金、週3回。5時から6時まで』。
それは、そろばん塾と同じだった。
 場所は、週ごとに1軒1軒を持ち回りにすることにし、
親の許しをもらうことになった。

 どこの家も簡単には同意してくれなかった。
くりかえしお願いした。
 しばらくして、半信半疑のまま許しがでた。
我が家でも、兄が両親に言ってくれた。
 「いつまで続くか、やらせてみれば・・・。」
 
 第1回は、M君宅の居間だった。
そろばん塾で使っていた練習帳を持っていった。
 4人とも同じ腕前だった。
読み上げ算の先生は、私。
見取り算は、M君。
かけ算は、S君。
割り算は、T君。
 役割分担の後は、
10分の休み時間を入れて時間配分も決めた。
 全ては、そろばん塾のまねだった。

 だが、休み時間以外はふざけたりせず、
それぞれの先生の言う通りにした。
 時間も守った。
分からなくなると、その先生に訊いた。
 先生も分からない時は、みんなで頭を寄せ合った。

 いつ頃からか、休み時間になると、
どこの家でもおやつの差し入れがあった。
 
 どんな経緯があったのか、記憶が曖昧だが、
3か月が過ぎたころ、
4人そろって5級の珠算検定試験を受けに行った。
 見事、4人とも合格した。

 僕らは、やる気になった。
4人が検定試験3級合格まで頑張ろうと約束した。

 級が上がると練習帳もそれ用が必要になった。
お小遣いを持って、本屋へ行った。
 同じ練習帳を買って、4人でそろばんに向かった。

 再び3ヶ月が過ぎた。
確か4年生も終わり頃だったと思う。
 今度は、4級の検定試験に挑戦した。
4人とも、自信がなかった。
 塾にも行かず、子ども4人だけのそろばん塾だ。
もう無理だと思った。

 試験会場の傍らにかたまり、結果発表を待った。
張り出された大きな紙面に、4人の番号を見つけた。
 ビックリした。4人で飛び上がった。
ワイワイガヤガヤ言いあいながら、家に帰った。
 益々やる気になった。

 僕らは、3ヶ月後の3級検定試験を目指した。
目標にした4人そろっての合格を思い描いた。
 おそろいの3級用練習帳を買った。

 休み時間のおやつがだんだん良くなった。
それも嬉しかったが、4人が悪ふざけもせず、
真剣に頑張っているのが、不思議と心地よかった。

 5年生になって間もなく、
4人そろって、今度は3級の検定試験を受けに行った。
 3級合格は高い壁だと聞いていた。

 会場は、今までとは違う張り詰めた雰囲気だった。
4人とも、オドオドしていた。
 誰かから、励ましがほしかった。
4人だけなことが、心細かった。
 いつものように指が動かないまま、試験が終わった。

 私だけでなく、4人とも不合格だった。
オドオドしていた自分が情けなくて、涙がこみ上げた。
 4人とも、目を真っ赤にしたまま家に帰った。

 「3級は簡単じゃないの。また頑張ればいいのよ。」
居間の隅で、ふさぎ込む私を、母はくり返し励ました。
 「そろばん塾へ行きたいなら、頼んでやるぞ。」
あまりにも落胆している私を見て、
兄はそうまで言ってくれた。

 しかし、翌日4人はいつもの時間に、
そろばんと練習帳をもって集まった。
 「もう1回だけ頑張ろう。」
そんな気持ちだった。
 
 私は、読み上げ算が得意だった。
私なりのコツを惜しみなく教えた。
 そして、一番不得手な見取り算の目の動きを、
くり返し教えてもらった。
 それぞれが、それまでに会得した技を教え合った。
次は、4人そろって絶対に3級合格しよう。
 そう意気込み熱中した。
4人とも、立派な先生だった。
 その先生の教えを信じ、くり返しそろばんを弾いた。
時には、終わりの時間を忘れた。

 再び3ヶ月後、4人そろって試験会場にいった。
なぜか、オドオドしていなかった。
 誰の励ましもいらなかった。
不思議なことに自信があった
 4人がそろって、リズムよくそろばんを弾いた。
見事、そろって合格した。

 翌日、地元の朝刊にこんな記事が載った。
『4人でそろばん塾 みごと3級合格!』





 氷点下の朝 有珠山の麓 ビートの収穫
 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 69歳の 向寒 | トップ | 幸運に恵まれて »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

あの頃」カテゴリの最新記事