ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

69歳の向暑&野分(後)

2017-10-06 22:08:05 | ジョギング
 (2) 野分の1日

 ① 前半の走り
 9月24日(日)、旭川ハーフマラソンがあった。
この大会も3年連続3回目の参加になる。

 快晴の花咲陸上競技場は、
ハーフに2000人、10キロに1000人など、
4000人以上のランナーでにぎわった。

 ゼッケン1748を胸に、
私はハーフランナーの最後尾付近から、走り始めた。

 「昨年の失敗をくり返さない。
そのためには、前半も後半も同じ走りをする。」
 それが、今回のテーマだ。

 1年前、体調の良さを過信し、スタートから軽快に走り出した。
ところが、暑さも加わった後半、足が重くなった。
 失速に失速を重ね、ようやくゴールした。

 「今年は同じ失敗を絶対にしない。」
何度も自分に言い聞かせながら、陸上競技場を後にした。
 「計画した1キロごとのラップを守りながら走る。」
それだけを胸に、足を進めた。
 夏が過ぎ、秋を思わせる気配が、旭川の街路樹の木の葉色にあった。

 実は、9月に入り、私は明らかに練習不足になった。
夏の疲れからか、朝のジョギングに二の足を踏む日が増えた。
 だから、スタートしてすぐ、息が荒くなった。
「このまま21キロを、ラップ通り走り続けることできるか。」
 不安が大きくなっていった。

 どんなことでも言えるが、不安は、心にゆとりを失わせる。
この大会は、3キロ付近から約6キロまで、
陸上自衛隊駐屯地内がコースだった。
 その敷地内沿道には、10メートル程の間隔で、
3,4名の自衛隊員が立ち、ランナーに声援を送ってくれた。
 昨年はそれが、すごく励みになった。嬉しかった。

 ところが、今年は、屈強な体をした隊員の、
太い『頑張って下さい』の連呼が、やけに不快に感じた。
 何故か、耳障りで、励ましには聞こえなかった。

 明らかに、相手の好意を、
素直に受け入れられない私になっていた。

 それは、約8キロ付近にある旭川西高校前でも同じだった。
ここでは、毎年、西高校のブラスバンド部が、
力強い演奏で、ランナーを励ましてくれた。

 昨年も一昨年も、私は両手を振り、
「ありがとう」と叫びながら、演奏の前を通過した。

 今年も、数十人のメンバーで演奏していた。
演奏に合わせ、フラッグを振る10数人の女子高生もいた。
 そこには、華やかな空気が流れていた。

 私たちランナーへの激励である。
嬉しいと思っていい。
 なのに、そこを通過する私は、
『負けないで!』の曲を耳にしながら、
「わかってるよ!」と言い返したい心境になっていた。

 明らかに、ゆとりや素直さ、
そんな気持ちを失ったままの走りだった。
 練習不足の不安感が、そうさせていたと思う。

 でも、私は計画通りのラップを刻み、足を進めた。
その私の後ろを、
私よりも荒い息で、付いてくるランナーがいた。
 そのランナーの息と足音に気づいたのは、
西高校より1キロ程前からだった。
 私につかず離れず、10キロの給水所近くまで、
「ハアハア! ハアハア!」と付いてきた。

 1度振り向いた。20歳代の女性の顔だった。
必死に私を追っているのか、
その足音と息遣い、一瞬の表情から伝わってきた。

 若い女性だからではない。
私の走りを目印にしている人がいる。
 そのことが、嬉しかった。力が湧いた。
走りながら、新しいエネルギーを得た。
 練習不足の不安感が少しずつ消えていった。


 ② 後半の走り

 ハーフ中間点の折り返しは、石狩川の土手道にあった。
もう後ろから「ハアハア! ハアハア」の荒い息は、
付いてこなくなっていた。
 きっとペースダウンをしたのだろう。

 私は、不安感を忘れ、
土手道から、若干水かさの増した川面を見下ろし、
いいリズムで走った。

 間もなく旭橋、そして一般道に出るところに、
旭川在住の家内の姉と義妹がいた。
 半畳程の大きなノボリには、『ファイト 一発』の文字と、
私や5キロを走った家内、
初めてハーフに挑戦した甥の名が大きく記されていた。

 素直にその激励を受け止めることができる私がいた。
前半の私でなくて、よかった。
 少しテレながら、そのノボリの前を通過した。
最大の笑顔になっていた。
 軽い走りだった。

 14キロを走り、美しいアーチ型の旭橋を渡った。
その辺りからだ。
 私の前方右斜めに、
少し癖のある走り方をする男性がいた。

 薄い空色の帽子をかぶっていた。
その男性を、『青帽子』と勝手に名付けた。
 なぜが気になり目にはいった。

 しばらく走って、ふと気づくと、
前方に『青帽子』がなくなっていた。
 すると、私の横を抜け、右斜め前に現れた。

 再び、ずっと『青帽子』を気に止め、走った。
そして、やがてその姿をまた見失った。
 すると、私の横を抜けて、すっと現れるのだ。

 周りには、『青帽子』のほかに沢山のランナーがいた。
それでも、ついつい彼に目がいった。
 
 残り5キロを切ると、
周りのランナーの走力は、だいたい同じになる。
 私と同じようなペースで走る人ばかり。
抜いていく人も少なく、私が誰かを抜くことも少なくなる。

 私は、ついに『青帽子』を抜けないまま、
彼を前にして走るようになった。
 彼との等間隔が、スタミナが切れかけた私には、
絶好のペースメーカーだった。
 『青帽子』を見ながら、後3キロ、後2キロと自分を励ました。

 20キロに、給水所があった。
残り1キロのため、立ち止まってスポーツドリンクを1口飲んだ。
 再び走り出しだが、『青帽子』がいない。
少し急いで走り、数人を抜いても、見つからない。

 そのままゴールの競技場に入った。
すると、トラックを走っている『青帽子』がいた。
 ゴールまで約300メートルだ。

 何を思ったか、私は『青帽子』を追いかけていた。
ラストスパートの力が残っていた。
 何人ものランナーを、抜いた。
『青帽子』に追いつきたかった。

 ところが、残り150メートル。
『青帽子』がスピードをあげた。
 縮んだ距離が、離れていった。

 ゼッケン番号から、『青帽子』が50歳代だと分かっていた。
最後は、年令の差と納得しながら、ゴールした。

 21キロの長い道である。
そのゴールを目指した旅には、
志を同じくした者同士のちょとした支えがある。
 見えないネットワークである。
それを実感した。
 

 ③ ゴールの後

 ゴールするとすぐに、家内と家内の姉、義妹が駆け寄ってくれた。
競技場の日陰を探し、腰をおろした。

 手にした記録証には、昨年より若干早いタイムが刻まれていた。
同時に中間点のタイムも記されていた。
 前半と後半の走りに差がなかった。
計画通りのラップにも満足した。
 そんな喜びが、私を饒舌にした。

 「スタートしてから、ここまで、ずっと走り続けさ。
1回も休まない。歩かない。
 ずっと辛い。
途中で、なんでこんな苦しいことをしているんだ?と自分に訊く。
 馬鹿みたいだと思うこともある。
でもね、ゴールして、
もう走らなくていいと思う。その瞬間がいいんだ。
 次に、よく走り続けたと感心する。それがいい。
そして、記録証をもらいに行く。
 高校生の女の子が、
『完走、おめでとうございます。』って明るい顔して、
両手で渡してくれるんだ。
 もう涙が出そうになるよ。
こんな感動、5年前まで、知らなかった。
 いい経験していると思うんだ。
すると、また走りたくなるんだよ。」

 3人を前に、一気に語った。

 私たちの後ろで、それを聞いていた方が声をかけてきた。
年令や住まいを訊かれた。
 そして
「私は60歳になったばかり、まだひよこです。
でも、走り続けます。がんばります。
来春は伊達に行きますね。」
「ぜひお越し下さい。お待ちしてます。」

 9月、野分の候。
旭川の空には、秋雲が浮かんでいた。

 今年、この大会にエントリーした70歳以上の男性は41人だった。
来年、私はその仲間入りをする。
 「よぉし!」と腰を上げた。




    『蝦夷野紺菊』が 目に止まる

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