ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

若くして逝った友

2015-08-21 22:07:01 | 思い
 日々の暮らしの中で、彼を思い浮かべることは、さほどない。
しかし、毎年、お盆の頃になると彼を思う。

 わずか20年の人生だった。
 体調不良を訴えてから、10日余り。
 急変を知らされたご両親が、北海道から東京に駆けつけたのは、
亡くなる3日前、残暑が厳しい8月末のことだった。

 医師は、面談するとすぐに、会わせたい人がいるなら、急ぐようにと告げた。
ご両親は、呼吸さえままならない我が子に、会いたい人はいるかと訊いた。
 彼は、とぎれとぎれの荒い息で、私の名前を言った。
北海道にいる私を呼び寄せることに、ご両親はしばらくためらった。
飛行機利用が、まだ頻繁ではない時代だった。
 それでも、容態が悪化する息子を見て、
2日後、私の実家に電話をした。

 何の前触れなく、急を知らされた私の父母と兄は、
言葉を失った。

 当時、大学3年だった私は、夏休みにもかかわらず、
実家に戻らず、自由気ままな毎日を過ごしていた。
 友だち数人と、ゆるい計画のままリュック片手に、
『放浪の旅』と称して出かけた。
 下宿先には、「2泊3日の旅行。」とだけ言い、行き先は伝えなかった。

 丁度出発した午後、兄から下宿に電話があった。
下宿の女将さんは、行き先を確かめなかったことを何度も詫びた。

 3日後、下宿に戻ると、待っていたかのように、
実家から電話があったことと、
内容は分からないが、兄の声が尋常ではなかったことを知らされた。
 それまでに経験のない胸騒ぎがした。

 下宿の電話を借りた。電話はすぐにつながり、兄が出た。
いつも穏やかな兄が、「どこ遊び歩いてたんだ。」と声を荒げた。

 そして、彼が死んだ。東京で葬式は済んだ。
「お前に会いたいって、最期まで言っていたと。」
と、声を詰まらせた。

 電話の向こうの兄が信じられなかった。
呆然と受話器を置いた。小さくチリーンと置いた電話が悲しい音をたてた。
うなだれる私の背中に、下宿の女将さんが、
「だいじょうぶ。」と声をかけてくれた。

 一段一段、下宿の狭い階段を上がった。
2階にある4畳半の自室に戻った。
 窓を開けた。東京がどっちか分からなかったが、
夏の青空を見上げ、彼の名前をつぶやいてみた。
 遠くで、蝉の声が重なっていた。


 中学3年のときだった。
担任が替わり、学級の雰囲気が一変した。
それまで、さほど交流のなかったクラスメイトが打ち解け合った。
 自然、気の合った者同士がさらに交流を深め、友情が芽生えた。

 私は、彼を含め4人の友を得た。5人グループで楽しい毎日を過ごした。
その中で彼が一番優秀だった。
 だから、担任の勧めもあって、
当時新設されたばかりの旭川工業高等専門学校にチャレンジした。

 私たちが地元の高校に進学する中、
彼は親元を離れ、一人、高専へ旅立ち、寮生活を始めた。

 私が高校を卒業し、大学生活を始めたとき、
彼は、それまでの寮生活を離れ、学校近くで間借り暮らしを始めた。

 2月の大寒波の日だった。
彼の暮らす部屋を初めて訪ねた。
 氷点下30度にでもなろうかという日だった。
経験のない寒さの中、二人で鍋料理の買い物をした。
鱈ちりのゆげに包まれても、部屋は中々温まらなかった。
 飲み慣れないビールを口にした。
次第に酒の勢いで体が温もった。

 彼は、高専で学んだ知識と技術を語った。
時間を忘れたように、彼が話す内容は、
すべて科学的で、確かさにあふれていた。
 エンジニアのしっかりとした考え方を、
彼から教えられた気がした。
 危うさだらけの自分が恥ずかしかった。

 しかし、酔いと一緒に一組きりのふとんに二人でくるまり、
シンシンと冷え込む寒さを感じながらも、
私は、彼の友人であることに誇らしさを感じていた。

 亡くなる4ヶ月前のことだ。
 彼は、5年間の学業を終え、
東京にある電機メーカーの工場に就職することになった。
 私は、エンジニアとして一人立ちする彼に、エールを送りたかった。

 3月末、彼も私も実家に戻っていた。
仲間5人の他に、同級生や後輩も集め、壮行会を開いた。

 感情を表に出さないタイプの彼であったが、
その日は珍しく、大きな声で笑い、一人で拍手を送ったりと賑やかだった。
東京での仕事に、ファイトいっぱいの彼を見て、私は嬉しかった。

 帰り際、この会を企画した私に、彼は感謝を口にした。
私は、用意していた犬の置物と、
思いつきだけの自作の詩を1つ、就職祝いにと手渡した。
 それが、彼との永遠の別れとなった。

 彼が亡くなって10日後、
ご両親は遺骨になった彼と一緒に帰路についた。
 その連絡を待ち、早速、彼の実家を訪ねた。

 彼の最期を見届けなかったことを、深々と詫びた。
 「まずは顔を見せてあげてください。」
両親の言葉に促され、遺骨と遺影の前に座った。

 遺影には、見慣れた彼の微笑みがあった。
こみ上げてくるものを感じた。
 遺影の横に、あの日別れ際に渡した置物の犬と、
私が書いた詩が小さな額縁に納まり、置かれていた。
目を疑った。

 整頓が行き届いた彼の部屋の一角に、
犬と額縁の詩があったのだと言う。
 「大切にしていたんだと思うのよ。」
彼のお母さんは、消えそうな声で言い、顔をタオルで覆った。
 大きな声で、彼の名前を叫びたかった。

 「また、お邪魔します。」と約束した。
両親は、「いつでも、待ってるからね。」と、見送ってくれた。
 秋を思わせるような風が、山から吹き下ろしてきた。
 命の非情さが憎かった。

 それから2年が過ぎた春、
私は東京の小学校へ赴任が決まった。
 彼の急死は原因が分からないままだった。
「水が合わなかった。」という声をいくつも聞いた。

 「俺は、彼の想いの分も生きる。」
何をどう生きるのか、釈然とはしなかったが、
私は、勤務先が決まったとき、そう意気込んだ。

 東京へ出発する前日、
就職祝いを包み、彼のお母さんが実家を訪ねてきた。
 私の手を両手で強く包み、「負けないでね。」と言った。
そして、「縁を切らないでね。」と何度もくり返した。

 それから、40年、東京圏で暮らした。二人の子どもに恵まれた。
東京は、私の全てを大きく育ててくれた。
出会った多くの方々から、沢山の力を頂いた。私の成長の糧だった。
流れる時間の全てが刺激的だった。
毎日をワクワクしながら過ごした。
東京からいっぱいエネルギーをもらった。

 彼は、わずか4ヶ月しか知らなかった東京の力。
速すぎた一人の男の生涯だった。
生きていたら、凄いエンジニアだったと思う。

 私は彼の分も生きることができただろうか。
今、その答えを出すことはできない。
 でも、いつか、それを彼に訊いてみたいと思う。




「北海道らしいかな!」   腰折れ屋根の牛舎

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