日々の暮らしの中で、彼を思い浮かべることは、さほどない。
しかし、毎年、お盆の頃になると彼を思う。
わずか20年の人生だった。
体調不良を訴えてから、10日余り。
急変を知らされたご両親が、北海道から東京に駆けつけたのは、
亡くなる3日前、残暑が厳しい8月末のことだった。
医師は、面談するとすぐに、会わせたい人がいるなら、急ぐようにと告げた。
ご両親は、呼吸さえままならない我が子に、会いたい人はいるかと訊いた。
彼は、とぎれとぎれの荒い息で、私の名前を言った。
北海道にいる私を呼び寄せることに、ご両親はしばらくためらった。
飛行機利用が、まだ頻繁ではない時代だった。
それでも、容態が悪化する息子を見て、
2日後、私の実家に電話をした。
何の前触れなく、急を知らされた私の父母と兄は、
言葉を失った。
当時、大学3年だった私は、夏休みにもかかわらず、
実家に戻らず、自由気ままな毎日を過ごしていた。
友だち数人と、ゆるい計画のままリュック片手に、
『放浪の旅』と称して出かけた。
下宿先には、「2泊3日の旅行。」とだけ言い、行き先は伝えなかった。
丁度出発した午後、兄から下宿に電話があった。
下宿の女将さんは、行き先を確かめなかったことを何度も詫びた。
3日後、下宿に戻ると、待っていたかのように、
実家から電話があったことと、
内容は分からないが、兄の声が尋常ではなかったことを知らされた。
それまでに経験のない胸騒ぎがした。
下宿の電話を借りた。電話はすぐにつながり、兄が出た。
いつも穏やかな兄が、「どこ遊び歩いてたんだ。」と声を荒げた。
そして、彼が死んだ。東京で葬式は済んだ。
「お前に会いたいって、最期まで言っていたと。」
と、声を詰まらせた。
電話の向こうの兄が信じられなかった。
呆然と受話器を置いた。小さくチリーンと置いた電話が悲しい音をたてた。
うなだれる私の背中に、下宿の女将さんが、
「だいじょうぶ。」と声をかけてくれた。
一段一段、下宿の狭い階段を上がった。
2階にある4畳半の自室に戻った。
窓を開けた。東京がどっちか分からなかったが、
夏の青空を見上げ、彼の名前をつぶやいてみた。
遠くで、蝉の声が重なっていた。
中学3年のときだった。
担任が替わり、学級の雰囲気が一変した。
それまで、さほど交流のなかったクラスメイトが打ち解け合った。
自然、気の合った者同士がさらに交流を深め、友情が芽生えた。
私は、彼を含め4人の友を得た。5人グループで楽しい毎日を過ごした。
その中で彼が一番優秀だった。
だから、担任の勧めもあって、
当時新設されたばかりの旭川工業高等専門学校にチャレンジした。
私たちが地元の高校に進学する中、
彼は親元を離れ、一人、高専へ旅立ち、寮生活を始めた。
私が高校を卒業し、大学生活を始めたとき、
彼は、それまでの寮生活を離れ、学校近くで間借り暮らしを始めた。
2月の大寒波の日だった。
彼の暮らす部屋を初めて訪ねた。
氷点下30度にでもなろうかという日だった。
経験のない寒さの中、二人で鍋料理の買い物をした。
鱈ちりのゆげに包まれても、部屋は中々温まらなかった。
飲み慣れないビールを口にした。
次第に酒の勢いで体が温もった。
彼は、高専で学んだ知識と技術を語った。
時間を忘れたように、彼が話す内容は、
すべて科学的で、確かさにあふれていた。
エンジニアのしっかりとした考え方を、
彼から教えられた気がした。
危うさだらけの自分が恥ずかしかった。
しかし、酔いと一緒に一組きりのふとんに二人でくるまり、
シンシンと冷え込む寒さを感じながらも、
私は、彼の友人であることに誇らしさを感じていた。
亡くなる4ヶ月前のことだ。
彼は、5年間の学業を終え、
東京にある電機メーカーの工場に就職することになった。
私は、エンジニアとして一人立ちする彼に、エールを送りたかった。
3月末、彼も私も実家に戻っていた。
仲間5人の他に、同級生や後輩も集め、壮行会を開いた。
感情を表に出さないタイプの彼であったが、
その日は珍しく、大きな声で笑い、一人で拍手を送ったりと賑やかだった。
東京での仕事に、ファイトいっぱいの彼を見て、私は嬉しかった。
帰り際、この会を企画した私に、彼は感謝を口にした。
私は、用意していた犬の置物と、
思いつきだけの自作の詩を1つ、就職祝いにと手渡した。
それが、彼との永遠の別れとなった。
彼が亡くなって10日後、
ご両親は遺骨になった彼と一緒に帰路についた。
その連絡を待ち、早速、彼の実家を訪ねた。
彼の最期を見届けなかったことを、深々と詫びた。
「まずは顔を見せてあげてください。」
両親の言葉に促され、遺骨と遺影の前に座った。
遺影には、見慣れた彼の微笑みがあった。
こみ上げてくるものを感じた。
遺影の横に、あの日別れ際に渡した置物の犬と、
私が書いた詩が小さな額縁に納まり、置かれていた。
目を疑った。
整頓が行き届いた彼の部屋の一角に、
犬と額縁の詩があったのだと言う。
「大切にしていたんだと思うのよ。」
彼のお母さんは、消えそうな声で言い、顔をタオルで覆った。
大きな声で、彼の名前を叫びたかった。
「また、お邪魔します。」と約束した。
両親は、「いつでも、待ってるからね。」と、見送ってくれた。
秋を思わせるような風が、山から吹き下ろしてきた。
命の非情さが憎かった。
それから2年が過ぎた春、
私は東京の小学校へ赴任が決まった。
彼の急死は原因が分からないままだった。
「水が合わなかった。」という声をいくつも聞いた。
「俺は、彼の想いの分も生きる。」
何をどう生きるのか、釈然とはしなかったが、
私は、勤務先が決まったとき、そう意気込んだ。
東京へ出発する前日、
就職祝いを包み、彼のお母さんが実家を訪ねてきた。
私の手を両手で強く包み、「負けないでね。」と言った。
そして、「縁を切らないでね。」と何度もくり返した。
それから、40年、東京圏で暮らした。二人の子どもに恵まれた。
東京は、私の全てを大きく育ててくれた。
出会った多くの方々から、沢山の力を頂いた。私の成長の糧だった。
流れる時間の全てが刺激的だった。
毎日をワクワクしながら過ごした。
東京からいっぱいエネルギーをもらった。
彼は、わずか4ヶ月しか知らなかった東京の力。
速すぎた一人の男の生涯だった。
生きていたら、凄いエンジニアだったと思う。
私は彼の分も生きることができただろうか。
今、その答えを出すことはできない。
でも、いつか、それを彼に訊いてみたいと思う。
「北海道らしいかな!」 腰折れ屋根の牛舎
しかし、毎年、お盆の頃になると彼を思う。
わずか20年の人生だった。
体調不良を訴えてから、10日余り。
急変を知らされたご両親が、北海道から東京に駆けつけたのは、
亡くなる3日前、残暑が厳しい8月末のことだった。
医師は、面談するとすぐに、会わせたい人がいるなら、急ぐようにと告げた。
ご両親は、呼吸さえままならない我が子に、会いたい人はいるかと訊いた。
彼は、とぎれとぎれの荒い息で、私の名前を言った。
北海道にいる私を呼び寄せることに、ご両親はしばらくためらった。
飛行機利用が、まだ頻繁ではない時代だった。
それでも、容態が悪化する息子を見て、
2日後、私の実家に電話をした。
何の前触れなく、急を知らされた私の父母と兄は、
言葉を失った。
当時、大学3年だった私は、夏休みにもかかわらず、
実家に戻らず、自由気ままな毎日を過ごしていた。
友だち数人と、ゆるい計画のままリュック片手に、
『放浪の旅』と称して出かけた。
下宿先には、「2泊3日の旅行。」とだけ言い、行き先は伝えなかった。
丁度出発した午後、兄から下宿に電話があった。
下宿の女将さんは、行き先を確かめなかったことを何度も詫びた。
3日後、下宿に戻ると、待っていたかのように、
実家から電話があったことと、
内容は分からないが、兄の声が尋常ではなかったことを知らされた。
それまでに経験のない胸騒ぎがした。
下宿の電話を借りた。電話はすぐにつながり、兄が出た。
いつも穏やかな兄が、「どこ遊び歩いてたんだ。」と声を荒げた。
そして、彼が死んだ。東京で葬式は済んだ。
「お前に会いたいって、最期まで言っていたと。」
と、声を詰まらせた。
電話の向こうの兄が信じられなかった。
呆然と受話器を置いた。小さくチリーンと置いた電話が悲しい音をたてた。
うなだれる私の背中に、下宿の女将さんが、
「だいじょうぶ。」と声をかけてくれた。
一段一段、下宿の狭い階段を上がった。
2階にある4畳半の自室に戻った。
窓を開けた。東京がどっちか分からなかったが、
夏の青空を見上げ、彼の名前をつぶやいてみた。
遠くで、蝉の声が重なっていた。
中学3年のときだった。
担任が替わり、学級の雰囲気が一変した。
それまで、さほど交流のなかったクラスメイトが打ち解け合った。
自然、気の合った者同士がさらに交流を深め、友情が芽生えた。
私は、彼を含め4人の友を得た。5人グループで楽しい毎日を過ごした。
その中で彼が一番優秀だった。
だから、担任の勧めもあって、
当時新設されたばかりの旭川工業高等専門学校にチャレンジした。
私たちが地元の高校に進学する中、
彼は親元を離れ、一人、高専へ旅立ち、寮生活を始めた。
私が高校を卒業し、大学生活を始めたとき、
彼は、それまでの寮生活を離れ、学校近くで間借り暮らしを始めた。
2月の大寒波の日だった。
彼の暮らす部屋を初めて訪ねた。
氷点下30度にでもなろうかという日だった。
経験のない寒さの中、二人で鍋料理の買い物をした。
鱈ちりのゆげに包まれても、部屋は中々温まらなかった。
飲み慣れないビールを口にした。
次第に酒の勢いで体が温もった。
彼は、高専で学んだ知識と技術を語った。
時間を忘れたように、彼が話す内容は、
すべて科学的で、確かさにあふれていた。
エンジニアのしっかりとした考え方を、
彼から教えられた気がした。
危うさだらけの自分が恥ずかしかった。
しかし、酔いと一緒に一組きりのふとんに二人でくるまり、
シンシンと冷え込む寒さを感じながらも、
私は、彼の友人であることに誇らしさを感じていた。
亡くなる4ヶ月前のことだ。
彼は、5年間の学業を終え、
東京にある電機メーカーの工場に就職することになった。
私は、エンジニアとして一人立ちする彼に、エールを送りたかった。
3月末、彼も私も実家に戻っていた。
仲間5人の他に、同級生や後輩も集め、壮行会を開いた。
感情を表に出さないタイプの彼であったが、
その日は珍しく、大きな声で笑い、一人で拍手を送ったりと賑やかだった。
東京での仕事に、ファイトいっぱいの彼を見て、私は嬉しかった。
帰り際、この会を企画した私に、彼は感謝を口にした。
私は、用意していた犬の置物と、
思いつきだけの自作の詩を1つ、就職祝いにと手渡した。
それが、彼との永遠の別れとなった。
彼が亡くなって10日後、
ご両親は遺骨になった彼と一緒に帰路についた。
その連絡を待ち、早速、彼の実家を訪ねた。
彼の最期を見届けなかったことを、深々と詫びた。
「まずは顔を見せてあげてください。」
両親の言葉に促され、遺骨と遺影の前に座った。
遺影には、見慣れた彼の微笑みがあった。
こみ上げてくるものを感じた。
遺影の横に、あの日別れ際に渡した置物の犬と、
私が書いた詩が小さな額縁に納まり、置かれていた。
目を疑った。
整頓が行き届いた彼の部屋の一角に、
犬と額縁の詩があったのだと言う。
「大切にしていたんだと思うのよ。」
彼のお母さんは、消えそうな声で言い、顔をタオルで覆った。
大きな声で、彼の名前を叫びたかった。
「また、お邪魔します。」と約束した。
両親は、「いつでも、待ってるからね。」と、見送ってくれた。
秋を思わせるような風が、山から吹き下ろしてきた。
命の非情さが憎かった。
それから2年が過ぎた春、
私は東京の小学校へ赴任が決まった。
彼の急死は原因が分からないままだった。
「水が合わなかった。」という声をいくつも聞いた。
「俺は、彼の想いの分も生きる。」
何をどう生きるのか、釈然とはしなかったが、
私は、勤務先が決まったとき、そう意気込んだ。
東京へ出発する前日、
就職祝いを包み、彼のお母さんが実家を訪ねてきた。
私の手を両手で強く包み、「負けないでね。」と言った。
そして、「縁を切らないでね。」と何度もくり返した。
それから、40年、東京圏で暮らした。二人の子どもに恵まれた。
東京は、私の全てを大きく育ててくれた。
出会った多くの方々から、沢山の力を頂いた。私の成長の糧だった。
流れる時間の全てが刺激的だった。
毎日をワクワクしながら過ごした。
東京からいっぱいエネルギーをもらった。
彼は、わずか4ヶ月しか知らなかった東京の力。
速すぎた一人の男の生涯だった。
生きていたら、凄いエンジニアだったと思う。
私は彼の分も生きることができただろうか。
今、その答えを出すことはできない。
でも、いつか、それを彼に訊いてみたいと思う。
「北海道らしいかな!」 腰折れ屋根の牛舎
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