そ の 1
高校1年の正月だ。
私は、生徒会の役員をしていた。
そのつながりで、1学年先輩の女子から年賀状をもらった。
そこに、『私の好きな詩です。』と記されていた。
己の意思をもって
己の身をぶっつけ
己がために前進しよう
何事にも左右されず
何者にも迷わされず
己を知りながら
己を表しながら
己らしく生きていこう
この詩のことは、何故か気恥ずかしくて、多くを語ってこなかった。
当時の私は、高1なのに奥手で、
他人のまねごとをするのが精一杯だった。
だから、自分自身を見つめるまでには至っていなかった。
そんな私には、『己』と言う語は、新鮮で衝撃的だった。
私に歩み方・生き方を問いかける、大きな糸口になった。
なのに、この詩をどこにも書き留めていなかった。
それなのに、いつも、記憶の奥底にあった。
今日までに何十回と、数えきれないほど、
くり返し思い返し、反すうしてきた。
2連目にはもう1行言葉があったように思う。
長い年月の間に、知らず知らず勝手に、
言い直した部分もあるようにも思う。
年令や、その時々の環境で、心に響く箇所は違っていた。
強い言葉の連なりに、赤面していた時代もあった。
でも、確かに、長年私を励ましてくれた言葉である。
そ の 2
私に限ったことではないだろう。
日々の暮らしには、時として、想像もしないような
喜びや幸せ感が訪れる。
また、それとは裏腹に、
ただただじっと耐えることを強いられたり、
踏み出すべき道さえ分からないまま佇んだりする時がある。
社会と言う大きな波間での営み、
人と人との関わりが織りなす一日一日、
そこで人は、必ずや理不尽と思う場面に遭遇する。
不条理さを強くする瞬間がある。
そんな日々の狭間で、誰もが惑う。
名言は、そんな私たちのために生まれ、人生の羅針盤として、
それぞれの心に生き残り、生き続けていると思う。
40年の教職生活であった。
不勉強と経験の甘さ、未熟な人間性が、様々な壁になった。
その壁を越え、前へ進むのに、沢山の言葉から力を頂いた。
『日々是好日』、『行雲流水』、『喫茶去』、『一行三昧』など、
いわゆる禅語に魅せられた時もあった。
しかし、いまも深く心に刻まれている言葉が2つある。
『漂えど沈まず』
稀代な小説家・開高健がよく使った言葉である。
しかし、この言葉は彼のオリジナルではなく、
フランス・パリが「ルテチア」と呼ばれていた中世の頃、
町の標語だったものらしい。
セーヌ川が氾濫しても、嵐が来ても、俺たちは沈まないと言う
当時の水上商人組合の心意気を示したものとのことだ。
この言葉について、開高健さんは、
『男の人生をわたっていくときの
本質を鋭くついた言葉ではあるまいか。」
と、書き残している。
男だからではないが、人としての重責を決して投げ出さない。
そんな底知れない強さが、心を捉え、生きる指標になっている。
『タフでなければ 生きてられない
優しくなければ 生きている資格がない』
アメリカのレイモンド・チャンドラー氏が書いた
ハードボイルド小説「プレイバック」で、主人公が言った名台詞である。
敵の少ない経営者と称された、第7代経団連会長の平岩外四氏が、
昭和51年東京電力の社長就任記者会見の席で、
「座右の銘とか、好きな言葉は?」と問われた。
その時、「座右の銘ではないが。」
と、前置きして取り上げた言葉でもある。
そして、昭和53年、角川映画『野生の証明』でキャッチコピーに使われ、
一気に広まった。
私が、この言葉を知ったのは、40歳代になってからである。
特に、管理職になって数年が過ぎたある日から、
机上の目に止まる所に書き置き、常に心に刻んできた。
『実るほど頭をたれる稲穂かな』
大先輩の校長先生から、「人の前に立つ者としての心得だ。」
と、贈って頂いた先人の一句である。
しかし、学校の管理職が置かれた現実は、
この言葉通りには行かなかった。
時として、前面に強さを求められることがしばしばだった。
私は、そんなタフな日々に慣れることができなかった。
精神的にかなり追い込まれた。
その時だった。この言葉を突然思い起こした。
まさに救世主の言葉だった。
本物のたくましさの答えを得た想いだった。
目の前に明かりが灯った。
私の道しるべだと思った。心地よささえ覚えた。
管理職としての、いや、人としての生き方を決めてくれた。
そして今、伊達の地で、
大自然と共に生きるタフと優しさを目の当たりにしている。
改めてこの言葉の深さに教えられている。
そ の 3
校長職を退き、第二の人生がスタートしてから、
私は、重責からの開放感とは別に、次の歩みへの心許なさを感じていた。
伊達へ移住することに対する期待感は大きいものの、
その道の先がどこにつながっているのか、見当もつかなかった。
「塚ちゃん、伊達に行って何するの?」
友人たちからは、代わる代わる訊かれた。
「行ってから決める。それが一番いいと思っている。」と、応じた。
それで正解なのだが、
しかし、私のその答えにはどことなく『芯』がなかった。
そんな時だった。
NHKのテレビ番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』の
『プロフェッショナルを導いた言葉』を観た。
その道のプロ中のプロが、その歩みから導き出した言葉を、
「ことばの力」として紹介していた。
9名のプロフェッショナルが言う、9つの珠玉の言葉であった。
第二の人生を、ヨチヨチ歩きしていた私に、
次の4つの言葉が、
心許なさに『芯』をもたらしてくれた。
『まだ、山は降りていない。登っている。』
<訪問看護師のパイオニア・秋山正子さん>
46歳で余命3ヶ月と診断されたガン患者さんがいた。
無口で我慢強い性格。
心のうちはもとより世間話もしない。
秋山さんは、
「そろそろ山を降りているんだから、
荷物をおろしたらどうかしら?」
と、声をかけた。
その時、返ってきた言葉がこれだった。
強い気持ちで癌と闘っている。
人という存在の強さを知ったと彼女は言う。
私のこれからの歩みも、これだと決めた。
『決まった道はない。ただ行き先があるのみだ。』
<野生動物専門の獣医師・齊藤慶輔さん>
絶滅危惧種オオワシの調査のために
行ったサハリンでのこと。
トラックが泥道で何度も動かなくなった。
「ロシアは大変だね。予定通りにはいかないね。」
と、運転手に声をかけた。
すると、ロシア人の運転手が、
片言の英語で応えた言葉がこれだった。
その言葉に齊藤さんははっとさせられたと言う。
野生動物のおかれた現実は厳しい。
しかし、だからこそ奔走する。
進むべき道は、自分が作ればいいと言う。
どんな道を歩むかではないのだと気づいた。
どこに向かうかが問われるのだと。
これからの道は自らの手で作り出すんだ。
深い霧が晴れていった。力が湧いた。
『人は変られないが、自分は変えられる。』
<絵画修復家・岩井季久子さん>
岩井さんが絵画修復の仕事を始めた頃は、
まだまだ女性の少ない時代だった。
様々な軋轢に苦しみながらつかんだ言葉がこれだった。
試練や壁は、自らを鍛え強くしてくれる。
人生を良くするのも悪くするのも、
自分の考え方次第だと、岩井さんは語る。
現職時代に巡り会っていたかった言葉である。
今からでも、遅くはない。
肝に銘じて生きていこうと思った。
『得(う)るは、捨つるにあり。』
<靴職人・山口千尋さん>
25歳の時、大手靴メーカーに勤務していた山口さんは、
退職して、本場イギリスへの留学を考えていた。
会社は、1年の休職を提案してくれた。
彼は迷い、尊敬する先輩に相談した。
「辞めればいいじゃないか。」
先輩は即答した。
その時、浮かんだ言葉がこれだった。
何かを捨てなければ、大事な物を得ることなどできない。
彼は、職を辞し、イギリスに渡った。
そして、この言葉は苦しい修行生活の拠り所になったと言う。
この言葉には、絶対的な真理があると思った。
現職時代を振り返り、感じるところがあった。
同時に、黒板五郎さんがリュックに
いっぱいのカボチャを背負い、
上京するシーンが目に浮かぶ、
あのテレビドラマ『北の国から』(脚本・倉本聰)の
「東京を卒業」のセリフを借りて、
「東京を卒業して、伊達に行きます。」
そんな想いが間違ではないと、意を強くした。
80歳の農家さんが作るお花畑 ガーベラが満開
高校1年の正月だ。
私は、生徒会の役員をしていた。
そのつながりで、1学年先輩の女子から年賀状をもらった。
そこに、『私の好きな詩です。』と記されていた。
己の意思をもって
己の身をぶっつけ
己がために前進しよう
何事にも左右されず
何者にも迷わされず
己を知りながら
己を表しながら
己らしく生きていこう
この詩のことは、何故か気恥ずかしくて、多くを語ってこなかった。
当時の私は、高1なのに奥手で、
他人のまねごとをするのが精一杯だった。
だから、自分自身を見つめるまでには至っていなかった。
そんな私には、『己』と言う語は、新鮮で衝撃的だった。
私に歩み方・生き方を問いかける、大きな糸口になった。
なのに、この詩をどこにも書き留めていなかった。
それなのに、いつも、記憶の奥底にあった。
今日までに何十回と、数えきれないほど、
くり返し思い返し、反すうしてきた。
2連目にはもう1行言葉があったように思う。
長い年月の間に、知らず知らず勝手に、
言い直した部分もあるようにも思う。
年令や、その時々の環境で、心に響く箇所は違っていた。
強い言葉の連なりに、赤面していた時代もあった。
でも、確かに、長年私を励ましてくれた言葉である。
そ の 2
私に限ったことではないだろう。
日々の暮らしには、時として、想像もしないような
喜びや幸せ感が訪れる。
また、それとは裏腹に、
ただただじっと耐えることを強いられたり、
踏み出すべき道さえ分からないまま佇んだりする時がある。
社会と言う大きな波間での営み、
人と人との関わりが織りなす一日一日、
そこで人は、必ずや理不尽と思う場面に遭遇する。
不条理さを強くする瞬間がある。
そんな日々の狭間で、誰もが惑う。
名言は、そんな私たちのために生まれ、人生の羅針盤として、
それぞれの心に生き残り、生き続けていると思う。
40年の教職生活であった。
不勉強と経験の甘さ、未熟な人間性が、様々な壁になった。
その壁を越え、前へ進むのに、沢山の言葉から力を頂いた。
『日々是好日』、『行雲流水』、『喫茶去』、『一行三昧』など、
いわゆる禅語に魅せられた時もあった。
しかし、いまも深く心に刻まれている言葉が2つある。
『漂えど沈まず』
稀代な小説家・開高健がよく使った言葉である。
しかし、この言葉は彼のオリジナルではなく、
フランス・パリが「ルテチア」と呼ばれていた中世の頃、
町の標語だったものらしい。
セーヌ川が氾濫しても、嵐が来ても、俺たちは沈まないと言う
当時の水上商人組合の心意気を示したものとのことだ。
この言葉について、開高健さんは、
『男の人生をわたっていくときの
本質を鋭くついた言葉ではあるまいか。」
と、書き残している。
男だからではないが、人としての重責を決して投げ出さない。
そんな底知れない強さが、心を捉え、生きる指標になっている。
『タフでなければ 生きてられない
優しくなければ 生きている資格がない』
アメリカのレイモンド・チャンドラー氏が書いた
ハードボイルド小説「プレイバック」で、主人公が言った名台詞である。
敵の少ない経営者と称された、第7代経団連会長の平岩外四氏が、
昭和51年東京電力の社長就任記者会見の席で、
「座右の銘とか、好きな言葉は?」と問われた。
その時、「座右の銘ではないが。」
と、前置きして取り上げた言葉でもある。
そして、昭和53年、角川映画『野生の証明』でキャッチコピーに使われ、
一気に広まった。
私が、この言葉を知ったのは、40歳代になってからである。
特に、管理職になって数年が過ぎたある日から、
机上の目に止まる所に書き置き、常に心に刻んできた。
『実るほど頭をたれる稲穂かな』
大先輩の校長先生から、「人の前に立つ者としての心得だ。」
と、贈って頂いた先人の一句である。
しかし、学校の管理職が置かれた現実は、
この言葉通りには行かなかった。
時として、前面に強さを求められることがしばしばだった。
私は、そんなタフな日々に慣れることができなかった。
精神的にかなり追い込まれた。
その時だった。この言葉を突然思い起こした。
まさに救世主の言葉だった。
本物のたくましさの答えを得た想いだった。
目の前に明かりが灯った。
私の道しるべだと思った。心地よささえ覚えた。
管理職としての、いや、人としての生き方を決めてくれた。
そして今、伊達の地で、
大自然と共に生きるタフと優しさを目の当たりにしている。
改めてこの言葉の深さに教えられている。
そ の 3
校長職を退き、第二の人生がスタートしてから、
私は、重責からの開放感とは別に、次の歩みへの心許なさを感じていた。
伊達へ移住することに対する期待感は大きいものの、
その道の先がどこにつながっているのか、見当もつかなかった。
「塚ちゃん、伊達に行って何するの?」
友人たちからは、代わる代わる訊かれた。
「行ってから決める。それが一番いいと思っている。」と、応じた。
それで正解なのだが、
しかし、私のその答えにはどことなく『芯』がなかった。
そんな時だった。
NHKのテレビ番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』の
『プロフェッショナルを導いた言葉』を観た。
その道のプロ中のプロが、その歩みから導き出した言葉を、
「ことばの力」として紹介していた。
9名のプロフェッショナルが言う、9つの珠玉の言葉であった。
第二の人生を、ヨチヨチ歩きしていた私に、
次の4つの言葉が、
心許なさに『芯』をもたらしてくれた。
『まだ、山は降りていない。登っている。』
<訪問看護師のパイオニア・秋山正子さん>
46歳で余命3ヶ月と診断されたガン患者さんがいた。
無口で我慢強い性格。
心のうちはもとより世間話もしない。
秋山さんは、
「そろそろ山を降りているんだから、
荷物をおろしたらどうかしら?」
と、声をかけた。
その時、返ってきた言葉がこれだった。
強い気持ちで癌と闘っている。
人という存在の強さを知ったと彼女は言う。
私のこれからの歩みも、これだと決めた。
『決まった道はない。ただ行き先があるのみだ。』
<野生動物専門の獣医師・齊藤慶輔さん>
絶滅危惧種オオワシの調査のために
行ったサハリンでのこと。
トラックが泥道で何度も動かなくなった。
「ロシアは大変だね。予定通りにはいかないね。」
と、運転手に声をかけた。
すると、ロシア人の運転手が、
片言の英語で応えた言葉がこれだった。
その言葉に齊藤さんははっとさせられたと言う。
野生動物のおかれた現実は厳しい。
しかし、だからこそ奔走する。
進むべき道は、自分が作ればいいと言う。
どんな道を歩むかではないのだと気づいた。
どこに向かうかが問われるのだと。
これからの道は自らの手で作り出すんだ。
深い霧が晴れていった。力が湧いた。
『人は変られないが、自分は変えられる。』
<絵画修復家・岩井季久子さん>
岩井さんが絵画修復の仕事を始めた頃は、
まだまだ女性の少ない時代だった。
様々な軋轢に苦しみながらつかんだ言葉がこれだった。
試練や壁は、自らを鍛え強くしてくれる。
人生を良くするのも悪くするのも、
自分の考え方次第だと、岩井さんは語る。
現職時代に巡り会っていたかった言葉である。
今からでも、遅くはない。
肝に銘じて生きていこうと思った。
『得(う)るは、捨つるにあり。』
<靴職人・山口千尋さん>
25歳の時、大手靴メーカーに勤務していた山口さんは、
退職して、本場イギリスへの留学を考えていた。
会社は、1年の休職を提案してくれた。
彼は迷い、尊敬する先輩に相談した。
「辞めればいいじゃないか。」
先輩は即答した。
その時、浮かんだ言葉がこれだった。
何かを捨てなければ、大事な物を得ることなどできない。
彼は、職を辞し、イギリスに渡った。
そして、この言葉は苦しい修行生活の拠り所になったと言う。
この言葉には、絶対的な真理があると思った。
現職時代を振り返り、感じるところがあった。
同時に、黒板五郎さんがリュックに
いっぱいのカボチャを背負い、
上京するシーンが目に浮かぶ、
あのテレビドラマ『北の国から』(脚本・倉本聰)の
「東京を卒業」のセリフを借りて、
「東京を卒業して、伊達に行きます。」
そんな想いが間違ではないと、意を強くした。
80歳の農家さんが作るお花畑 ガーベラが満開
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