雪虫が飛んでいると気づいたばかりだったが、
つい先日の朝、カーテンを開けると、
一面真っ白になっていた。
私の嫌いな冬がやって来てしまった。
同時に、コロナの猛威である。
「寒くなると、ウイルスの感染力が強くなります。」
半年前から聞いていたことだ。
「そのために十分な備えが必要です。」
それも、よく言われていた。
どれだけのことができていたのか。
北海道では、医師会会長が、
「感染者数がこのままの状態で後1週間も続いたら、
医療崩壊がありうる」と言いだした。
「これだけ、冬への警告が言われていたのに・・、
どうして?」。
そう思ってしまうのは私だけなのだろうか。
そんな不満より、来るものが来たのだ。
一市民ができることは、3密を避け、手洗いとマスクの徹底。
そして、免疫力を高めること。
そんなことに限られるが、何とか乗り越えたいと強く思う。
さて、北の町は、落葉が進んだ。
周りの山々は、稜線が透けて見えるようになってきた。
豊かな葉に被われ『太っていた山』が、
すっかり痩せていく。
だからか、一昨年も昨年もこの時期に、
ブログに「もう一度行きたい」と題して、
若い頃に出掛けた思い出を記した。
そんなことで、何かを紛らわし、
小さな高揚感を求めているのかも・・・。
今年も、綴ることにする。
<8>
▼ 教職2年目、6年生担任だった秋の初め、
社会科見学で、鎌倉を訪ねた。
学校からバスで2時間半余り。
最初の見学先は、鎌倉八幡宮だった。
広くて長い参道を、子ども達を先導して歩いた。
急に、高校の修学旅行で、
列に埋もれて、同じ道を進んだことを思い出した。
それから6年が過ぎ、
こうして子供らと一緒にいることを誇らしく思っていた。
その後、鎌倉の大仏に寄った。
ここでは、高校の時と同じ場所に立ち、
集合写真を撮った。
子供を引率していることを忘れ、
あの時と同じ場所から、大仏を見上げた。
背景の山も空の大きさも変わらなかった。
私の変容などとは無縁な歴史の不動を感じた。
ボーッと立っていた私に、近寄ってきた子が訊いてきた。
「先生、何見てるの?」。
「凄いなって、思わない。この大仏!」
しばらく見上げてから、その子は答えた。
「よく、わからない」。
「そうか」。
「いつかこの子も、私と同じような想いで、
この大仏を見る時が来る」。
そう信じた。
江ノ島が見える海岸で、昼食にした。
思い思い、砂浜に陣取り、
海と空を見ながらお弁当を食べた。
「足だけ海に入りたい。」
そんな声に押された。
足だけのはずが、
ズボンやスカートを濡らす子が続出した。
楽しげな子供の顔が、今も思い浮かぶ。
▼ それから、たびたび鎌倉へ行った。
連休にマイカーを走らせ、渋滞に巻き込まれた。
初詣に鎌倉を選び、満員の電車に、
家族4人で、押しつぶされそうになった。
そんなことにも懲りず、電車で2時間余り、
北鎌倉駅や鎌倉駅に降りた。
高速道路の整備が進むと、
自宅から1時間半で鎌倉市内に着いた。
行くたびに、貴重な歴史に出会い、心躍った。
さだまさしが歌った「縁切寺」にも「源氏山」にも行った。
どこでも、静かな風が流れていた。
竹のお寺『報国寺」では、
竹林を射る陽光を受けながら、少し浮かれて散策した。
銭洗い弁天では、半信半疑のまま千円札と小銭を
ザルに入れて清めてみた。
夏の盛りに江ノ電で「極楽寺」まで足を伸ばした。
満開のサルスベリに迎えられた。
その美しさに、漢字で『百日紅』と書くことに納得した。
大きな木立に囲まれた円覚寺。
境内にある茶店に座り、抹茶をいただく。
誰一人として声を張り上げたりしない。
いや、それを許さないものが漂っていた。
▼ そんな鎌倉に、ある日、突然出向いた。
校長になって2年目のことだった。
私と先生方が大きく対立していた。
その年、都教委は教職員への人事考課制度の導入を進めた。
当然、私はその実施を進める立場にあった。
性急な導入に、私の学校の先生方は抵抗した。
職員室の雰囲気が一変した。
私はくり返し趣旨を説明し、先生方から同意を得ようと努めた。
しかし、堂々巡りの日々が続いた。
まだ、校長経験の浅い私には、打開策が見つからなかった。
疲れた。眠れない日が続いた。
いつもの私ではなくなっていった。
友人らにも相談した。
そして、ついに精神科の医師を訪ねることにした。
今、その時を振り返ると、
人生で最大のピンチだったと思う。
医師は、長いこと話を聞いてくれた。
そして、家内を同席させ、「うつ病傾向にある」と診断し、
「1週間、学校を休むように」と言った。
そして、「1週間たって、行く気持ちになったら、
出勤してみるといいですね。」とも・・・。
その場で1週間の休暇を私は決め、
病院を出た。
少し肩の荷が軽くなっていた。
10時過ぎ、都心の空を見上げた。
快晴だった。
突然、思いついた。
家内に言った。
「鎌倉に行きたい!」。
その足で、鎌倉へ向かう電車に乗った。
私には、行きたいところがあった。
「建長寺仏殿の地蔵菩薩のところ!」。
それまでに何度かその仏像を見た。
うす暗い舎内に鎮座し、
ジッと私を見る半眼開きにいつも惹かれた。
時には叱られ、励まされ、褒められた。
そして、いつも見守られているような気持ちが芽生え、
勇気を得た。
その日、なにも期待などしていなかった。
その仏像の前に行きたい。
そう思いついただけだった。
家内はなにも訊かずに、ついてきてくれた。
そして、建長寺の山門を通り、
仏殿の前に立った。
地蔵菩薩は、変わらず半眼開きのまま私を見た。
私は、その姿を見上げた。
ザラザラした心が変わっていくようだった。
乾いたままの私ではなくなっていくような気がした。
わずかだが、しかし大切な時間だったように思えた。
その後、駅前通りの鄕土料理店に入った。
確かランチコースをオーダーした。
そこで『なすの田楽』が出た。
一口食べてすぐ、向き合う家内に、
目を丸くして言った。
「こんな美味しいもの、久しぶりだ。」
1週間後、私は再出発し、ピンチを脱した。
その後、鎌倉はいつでも行けると思い、
そのままだ。
もう一度、鎌倉八幡宮の参道を歩いてみたい。
そして、なによりも、あの地蔵菩薩の前に立ってみたい。
今なら、「何をしている!」と、
『喝』を入れられるかも・・・。
か ら 松 林 の 晩 秋
つい先日の朝、カーテンを開けると、
一面真っ白になっていた。
私の嫌いな冬がやって来てしまった。
同時に、コロナの猛威である。
「寒くなると、ウイルスの感染力が強くなります。」
半年前から聞いていたことだ。
「そのために十分な備えが必要です。」
それも、よく言われていた。
どれだけのことができていたのか。
北海道では、医師会会長が、
「感染者数がこのままの状態で後1週間も続いたら、
医療崩壊がありうる」と言いだした。
「これだけ、冬への警告が言われていたのに・・、
どうして?」。
そう思ってしまうのは私だけなのだろうか。
そんな不満より、来るものが来たのだ。
一市民ができることは、3密を避け、手洗いとマスクの徹底。
そして、免疫力を高めること。
そんなことに限られるが、何とか乗り越えたいと強く思う。
さて、北の町は、落葉が進んだ。
周りの山々は、稜線が透けて見えるようになってきた。
豊かな葉に被われ『太っていた山』が、
すっかり痩せていく。
だからか、一昨年も昨年もこの時期に、
ブログに「もう一度行きたい」と題して、
若い頃に出掛けた思い出を記した。
そんなことで、何かを紛らわし、
小さな高揚感を求めているのかも・・・。
今年も、綴ることにする。
<8>
▼ 教職2年目、6年生担任だった秋の初め、
社会科見学で、鎌倉を訪ねた。
学校からバスで2時間半余り。
最初の見学先は、鎌倉八幡宮だった。
広くて長い参道を、子ども達を先導して歩いた。
急に、高校の修学旅行で、
列に埋もれて、同じ道を進んだことを思い出した。
それから6年が過ぎ、
こうして子供らと一緒にいることを誇らしく思っていた。
その後、鎌倉の大仏に寄った。
ここでは、高校の時と同じ場所に立ち、
集合写真を撮った。
子供を引率していることを忘れ、
あの時と同じ場所から、大仏を見上げた。
背景の山も空の大きさも変わらなかった。
私の変容などとは無縁な歴史の不動を感じた。
ボーッと立っていた私に、近寄ってきた子が訊いてきた。
「先生、何見てるの?」。
「凄いなって、思わない。この大仏!」
しばらく見上げてから、その子は答えた。
「よく、わからない」。
「そうか」。
「いつかこの子も、私と同じような想いで、
この大仏を見る時が来る」。
そう信じた。
江ノ島が見える海岸で、昼食にした。
思い思い、砂浜に陣取り、
海と空を見ながらお弁当を食べた。
「足だけ海に入りたい。」
そんな声に押された。
足だけのはずが、
ズボンやスカートを濡らす子が続出した。
楽しげな子供の顔が、今も思い浮かぶ。
▼ それから、たびたび鎌倉へ行った。
連休にマイカーを走らせ、渋滞に巻き込まれた。
初詣に鎌倉を選び、満員の電車に、
家族4人で、押しつぶされそうになった。
そんなことにも懲りず、電車で2時間余り、
北鎌倉駅や鎌倉駅に降りた。
高速道路の整備が進むと、
自宅から1時間半で鎌倉市内に着いた。
行くたびに、貴重な歴史に出会い、心躍った。
さだまさしが歌った「縁切寺」にも「源氏山」にも行った。
どこでも、静かな風が流れていた。
竹のお寺『報国寺」では、
竹林を射る陽光を受けながら、少し浮かれて散策した。
銭洗い弁天では、半信半疑のまま千円札と小銭を
ザルに入れて清めてみた。
夏の盛りに江ノ電で「極楽寺」まで足を伸ばした。
満開のサルスベリに迎えられた。
その美しさに、漢字で『百日紅』と書くことに納得した。
大きな木立に囲まれた円覚寺。
境内にある茶店に座り、抹茶をいただく。
誰一人として声を張り上げたりしない。
いや、それを許さないものが漂っていた。
▼ そんな鎌倉に、ある日、突然出向いた。
校長になって2年目のことだった。
私と先生方が大きく対立していた。
その年、都教委は教職員への人事考課制度の導入を進めた。
当然、私はその実施を進める立場にあった。
性急な導入に、私の学校の先生方は抵抗した。
職員室の雰囲気が一変した。
私はくり返し趣旨を説明し、先生方から同意を得ようと努めた。
しかし、堂々巡りの日々が続いた。
まだ、校長経験の浅い私には、打開策が見つからなかった。
疲れた。眠れない日が続いた。
いつもの私ではなくなっていった。
友人らにも相談した。
そして、ついに精神科の医師を訪ねることにした。
今、その時を振り返ると、
人生で最大のピンチだったと思う。
医師は、長いこと話を聞いてくれた。
そして、家内を同席させ、「うつ病傾向にある」と診断し、
「1週間、学校を休むように」と言った。
そして、「1週間たって、行く気持ちになったら、
出勤してみるといいですね。」とも・・・。
その場で1週間の休暇を私は決め、
病院を出た。
少し肩の荷が軽くなっていた。
10時過ぎ、都心の空を見上げた。
快晴だった。
突然、思いついた。
家内に言った。
「鎌倉に行きたい!」。
その足で、鎌倉へ向かう電車に乗った。
私には、行きたいところがあった。
「建長寺仏殿の地蔵菩薩のところ!」。
それまでに何度かその仏像を見た。
うす暗い舎内に鎮座し、
ジッと私を見る半眼開きにいつも惹かれた。
時には叱られ、励まされ、褒められた。
そして、いつも見守られているような気持ちが芽生え、
勇気を得た。
その日、なにも期待などしていなかった。
その仏像の前に行きたい。
そう思いついただけだった。
家内はなにも訊かずに、ついてきてくれた。
そして、建長寺の山門を通り、
仏殿の前に立った。
地蔵菩薩は、変わらず半眼開きのまま私を見た。
私は、その姿を見上げた。
ザラザラした心が変わっていくようだった。
乾いたままの私ではなくなっていくような気がした。
わずかだが、しかし大切な時間だったように思えた。
その後、駅前通りの鄕土料理店に入った。
確かランチコースをオーダーした。
そこで『なすの田楽』が出た。
一口食べてすぐ、向き合う家内に、
目を丸くして言った。
「こんな美味しいもの、久しぶりだ。」
1週間後、私は再出発し、ピンチを脱した。
その後、鎌倉はいつでも行けると思い、
そのままだ。
もう一度、鎌倉八幡宮の参道を歩いてみたい。
そして、なによりも、あの地蔵菩薩の前に立ってみたい。
今なら、「何をしている!」と、
『喝』を入れられるかも・・・。
か ら 松 林 の 晩 秋
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