ワンダースター★航星記

写真を撮るとは、決して止まらない時間を止めること。旅や日常生活のインプレッシブな出来事を綴ったフォトエッセイ集です。

「平野すてんしょ」 ~平野5エリアの紹介

2014-09-13 | 平野すてんしょ
 「平野すてんしょ」 ~平野5エリアの紹介

              

 “すてんしょ”とは、平野ことばで「ステーション=STATION」のこと。
 1980年に廃線となった、南海電鉄平野線の今はなき平野駅のことを指す。

 平野区は大きく5っのエリアに分かれる。
 各地への出発点が「平野すてんしょ」である。

              

 平野エリアの中核を成す「平野郷」は、その昔、自衛や灌漑、洪水等の調整池としての役割を持たせるために町の周囲を環濠によって取り囲んだいわゆる環濠都市として堺と並ぶ、自治と商いを誇った町でもあった。
 集落の周囲13箇所に木戸口と地蔵堂を設けて各地への街道が通じ、また、環濠が平野川に通じ、陸路と水運の交通の要地としての地位を得ていた。
 平安時代の初期、征夷大将軍・坂上田村麻呂の次男で平野の開発領主となった坂上広野麿にちなみ、広野の邸宅があったことから広野と呼ばれ、それが転訛して平野荘となったとも伝えられている。
平野エリアには江戸時代の商家を偲ばせる伝統的な町屋が軒を連ね、タイムスリップしたような錯覚と懐かしい雰囲気に溢れている。
 その平野で「町ぐるみ博物館」運動が実施されている。
 これは、民家・店舗を無料開放して、貴重な文化財を見てもらうことによって、自分たちの町を再認識、再発見して、自分たちが楽しむことによって、“町づくり”をしようとする運動である。
 この運動は「平野を観光地化して、人を呼ぶこと」=経済効果を目的としていない。
 「観光」に対峙するという意味で、「感風」・・・“風を感じる”というメッセージを発信している。

               

加美の歴史は古く弥生時代(紀元前10世紀から3世紀中頃)に遡り、「加美遺跡」が見つかっている。
大化の改新(645年)により、渋川郡「賀美郷」(かみのさと)と名づけられた。
古代、物部氏の所領であったが、物部氏が滅びて、飛鳥時代、渡来した鞍作氏が住み着いた。
鞍作氏は馬の鞍、武具を作っており、加美には鞍作(くらつくり)という地名が今に残っている。
日本初の仏教寺院、飛鳥寺の飛鳥大仏や法隆寺・金堂の釈迦三尊像を刻んだ飛鳥時代の仏師、鞍作止利(くらつくりのとり)は鞍作氏の一族。(父が仏師で村主の鞍作多須奈、祖父が初代村主、司馬達等)
かつては綿作や菜種油の生産が盛んで平野郷とともに繁栄した農村であったが、現在は工場が多くなり、モノづくりの町として、脚光を浴びるようになってきた。
 旭神社は古来から治水雨乞いの神として信仰を集め、祈雨祈願所として知られた。
境内には樹齢600年以上のくす、イチョウ、むくの木など天然記念物に指定された古樹がある。
祭神は素盞鳴尊で、創建は天平年間と云われている。





喜連(きれ)は、伎人郷(くれひとのさと)と呼ばれている。
 古き時代、呉(くれ)の国から、やってきた渡来人が機織(はたおり)の技術者、呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)等の呉人(くれひと)が、この地に住みついたので「くれ郷」となり、それが訛って「きれ」になったという説がある。
また、高句麗から伎(くれ)、そして、喜連(きれ)へと転化していったという説もある。

喜連の中心部を、南北に中高野街道が走る。 摂津と河内を繋ぐ交通の要地だ。
 戦乱の絶えない中世には周囲に環濠を巡らせた喜連城が出現した。
かつて環濠には6っの出入り口があり、地蔵堂が設けられた。
環濠が埋め立てられても、地蔵堂は残り、今もなお、お地蔵様がこの町を守る。




 大化年間(645~649年)道昭法師が当地の庵で祈念の最中、天から光明のさしたご神体が降ってきたので、瓜を割(破)ってお供えしたことから瓜破と呼ぶようになったという説がある。
当地の出身と伝えられる道昭は、遣唐使に従って入唐し、玄弉三蔵の教えを受け、帰国後諸国を遍歴して庶民に慕われたことが、続日本紀にみられる。
また、弘法大師が高野山へ登る途中、この地を通り、水を所望したところ、住民が瓜を割(破)ってさしだしたことからこの名がついたという説もあるが、定かではない。
 いずれにせよ、昔から瓜(西瓜)の産地であったことが、地名に由来しているといわれている。
江戸時代、平野の代表的産業が繰綿と綿作で、綿の集散地としても栄え、明治時代には綿業の町へと発展した歴史がある。
美しい花が咲き、実を結び、白い柔らかな綿が生まれる「わたの花」には、平野区の繁栄の願いが込められている。
瓜破の“区民わた畑”では9月になれば、小学生の教育体験として、綿の収穫が行われる。



4世紀後半から6世紀中頃に築かれたと推定される長原古墳群から、多数の埴輪、土器、副葬品が出土している。
それらの中に朝鮮半島で出土するものと、よく似た土器が、しばしば発見されている。
特筆すべきは、全国的にも珍しい、四つの船型埴輪が出土していることである。
当時、大阪平野の大半は瀬戸内海と繋がる河内湖という湖であった。
日本と半島を結ぶ交通手段は船以外になく、当然、渡来人は船で河内湖に乗り入れ、湖岸近くの長原にやってきたに違いない。
その船形埴輪をもとに復元されたのが、古代船「なみはや号」である。
1989年(平成元年)に大阪市が市制100週年を記念して実物大の古代船(全長12.0m、幅1.93m、重量約5トン)を復元し、倭の五王時代の航海を再現して、大阪から韓国の釜山までの700Kmを35日かけて航海し、古代からの日韓交流を新たにした。
 古代の長原は国際交流都市だったようだ。



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