のしてんてん「伏し龍」(部分)
アート(表現)とは、自分のトータルな現れという考え方をしていまして、絵を描くということと生活になるべく垣根をつくらないようにしています。
つまりこのブログも同じことで、そのすべてが私のアートと心得ております。
ところが今回、このブログ発信はけっして一方通行ではないという事実にあらためて気付かされました。
こんなに深く教えを頂くことになるとは思ってもみないことでしたが、そのことで私は新たな気付きを頂きました。
それは私のアートという考え方がいかにも小さかったということです。
自分一人でやっているアートなんて存在しない。自分一人で成長することなどないということですね。
私はその思いと共に、私の体験した感動をお伝えしたいと思います。
それは前回の記事
邂逅展に向けて(龍の創造)
で寄せられたUnknownさんのコメントによるご教示です。
この絵から端を発したUnknownさんのご指導をここに掲載して心より御礼申し上げます。
私はこの絵が狩野信政の真似に過ぎないと少々弱気になって記事を書いたのですが、それに対してコメントを頂いた、次のやりとりです。
Unknownさん--------------
『作られたものは、作るものを作るべく作られたのであり、作られたものということそのことが、否定せられるべきであることを含んでいるのである。
しかし、作られたものなくして作るものというものがあるのではなく、作るものは、また作られたものとして作るものを作って行く。』
のしてんてん--------------
かつて具体と呼ばれる吉原治良率いる美術集団がありまして、その会の合言葉が「ヒトの真似をするな」ということでした。
それは結果、己を最大限に引き出せということだったのですね。
作られたものは作者を離れて公のものになる。Unknownさんのおっしゃるように、創造は人間の財産として積み上げられて行きますね。それが人の歴史というものかもしれません。
すると作る側に立っているものは、樹の生長点のようなもので、常にないところに身をひろげて行かねばならない。そこに具体の理念の素晴らしさがあると私などは思っております。
成長点が、すでにあるものの真似をするだけでは樹は細いままで成長しないですよね。
私が密かに思っているのは、真似を己の養分として新しい芽を育てるということ。
そしてそれが、Unknownさんのいわれてることだと理解しました。
龍を描きだした以上、最大限私の中で生まれる龍を見てみたい。そんな人生の楽しみ方、ワクワク感です^ね^
Unknownさん-------------
龍は、のしてんてんさんの「発心」です
のしてんてん------------
発心から諦観に向かう
それが実現するかどうかは分かりませんが
発心にはその志向性が含まれていますね。
いわば指向性の旅ということでしょうか。
Unknownさん----------
作られたものが、作るものとして、この
塞き止めようのない成り行く勢いの中で
作られたものとして、作っていく。
成り行く勢いの中で、そうならざるを得ないこととしての「発心」ではないでしょうか。
のしてんてん------------
成り行く勢いの中で、そうならざるを得ないこと。
そして他方、そうなることを願うこと。
作家はこの二心で揺れ動きます。
願うことはいわば能動態であり、思いが強くなればなるだけ「作るもの」としての比重が大きくなる。
しかし一方、そうならざるを得ないことは、中動態の土壌ですよね。
そう考えると、「発心」とは中動態への入り口ということでしょうか。
生まれてくるものを無条件に受け入れ、心をもって判断する。
心が喜ぶか、喜ばないか。
それだけです。
Unknownさん----------
「真似をするな」は課せられたこととしての強制であるわけですから、これは受動態として解釈できます。
内発としてではなく、外から与えられたものです。
発心は中動態です。
喜びに変わる一つ前です。
のしてんてん----------なるほど!!
発心とは内発であり、
内発に従うことが中動態。
そして一番重要なことは、その先で出会う喜びだけが本物の心の喜び。
すなわち菩提ということですね。
真の内発には真似も何もない。たとえ同じ絵を描いても内発から出たものは己。
逆に真似をしないという意識で描いたものは、いかに独創的でも己とは遠い。
理屈はいらない。ただ発心に従えばいい。
そういうことなのですね。
一枚、眼から鱗が取れた気がいたします。
ご教示に心より感謝申し上げます。
具体を越えねばならないのですね。
Unknownさん----------
菩提の手前には修行があります。
修行の中においても発心があります。
のしてんてん----------
中動態で自分を見ると世界は一変します。
それは菩提に続く道なのですね。
けれど、気付く気付かないにかかわらず、その思考は簡単に能動態にとって代わる。
それだけ体にしみこんだ思考方法なのだということを実感しています。
修行とは、己の中にあるこの思考方法に気付き続けることではないでしょうか。
そうすることで発心を促し続ける。
ありがとうございます。
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Unknownさんとのやりとりはここまでですが、素晴らしい教訓でした。
真似をするしないの問題ではない。
内発するものをいかにそのままの姿で出し切るのか、その後の私の創作に大きな力となりました。その第一号の作品を、感謝をこめて掲載いたします。
まだまだ課題はありますが、記念すべき第一歩です。
Unknown様、あらためて御礼申し上げます。
”真似”…難しい課題かと。そして全ては心次第、それも”作り手””受け手”両方の。
私事ですが「みんなが竜と思うものを書こうとすれば必ず似た要素が出てくる」と思っていたりします。すなわち真似ている要素。
…「究極に真似ないものは究極に竜からほど遠いものなってしまう」。
…本人が名前(バハムート)を付けて他人に見せたら「…カエル?ガンダム?あ、ニワトリ!?」と返されただけの話ですが笑
だからこそ”のしてんてん様”と”Unknown様”のお互いの対話の末の”練り上げられた想い”はとっても大きく鋭いものだと想います。
Unknown様もおっしゃっていましたが、
「本心の赴くままに」
その心の先にある”のしてんてん竜”を勝手ながら楽しみにさせていただきます!!
この龍を、のしてんてん龍と呼ぶ限り、円相はまだ先のことになります。
残念ながらまだこので絵では、閉じた円相を観ることは出来ません。
しかしありがたいことに、Unknownさんやまかこさんの詩に触れながら、私は自分の考えが共振するのを感じますし、そこから、作るものではない、作られたものの姿を予感しているのです。
その予感に従えばやがてすでにある作られたものが姿を表すという確信を与えていただいたと思っております。
邂逅展まで2か月を切りましたが、行ける所まで行ってみます。
次なるステップは、宇宙との融合と考えているのですが、先は闇です。
折師さんのお考えのとおりだと私も思います。
いつ頃から龍の姿が生まれたのか、そんなことを想うのも龍に意識を向けてからのことでしたが、龍とドラゴンの違いもまた面白いですよね。
折師さんの夜騎竜も同じことで、すでに刻み込まれている形を掘り出そうとされていますよね。
私たちの中を、受け継いだ竜が通り向けるとき、私たちの思いが自然にくっついて次につながって行くのでしょうね。
心の赴くままに想像の龍は人間の歴史を渡って成長しているのかもしれませんね。