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むっちゃんさんからこんなコメントを頂きました
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(何故、ヒトを殺してはいけないのですか?)
『絶対』からは逃げ腰の私ですし、直接関わりがあるか心許ないのですが。
ちょっと前に、大人達にこんな質問をして絶句させた……という若者の話を聞きかじったことがあります。
この若者が、どういうつもりで質問したのかはわかりません。でも、芯から何故ヒトを殺してはいけないのかわからなかった訳ではない、のではないかと。この質問に大人がどう対応するのか、そちらを見たかった……のではないかな?とは思いました。
でも……こんな質問を若者にさせるという事態が、ナニか歪んでいる、感触もしました。
この若者は……自分が『殺す立場』であるのを自明に、質問している印象があります。自分が『殺される』立場である想定をしていないのじゃないか、と。通りかかりのむしゃくしゃした人に殺されても『あ~、そんなこともあるよね』と冷静に死んでいける、そんな精神状態なのでしょうか?
そんなことないでしょうし、仮にそんな精神状態なら、悟り切ってるか狂っているかでしょう。
自分が貴いように、他人も貴い。自分が死にたくないように、他人も死にたくなかろう。
仮に自分が今死にたくても、他人も死にたいとは限らない、だろう。
自明、ではないでしょうか?そう考えるのが。
ここは、戦場ではないのです。殺さなければ殺される、戦場ではないのですから。
それとも……戦場なのでしょうか?
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最近、猟奇的な犯罪が増えていますね。社会が規範を失いつつあるのではという不安を覚えます。
私の不安は、
なぜ人を殺してはけないのかというあからさまな質問に対して、答えられない社会です。
私が答えるとしても、
「自分が貴いように、他人も貴い。自分が死にたくないように、他人も死にたくなかろう。
仮に自分が今死にたくても、他人も死にたいとは限らない、だろう。
自明、ではないでしょうか?」
という以上に答えを知りません。
私たちはどうやって、人を殺してはいけないと学んだのでしょうか。
振り返って考えてみれば、殺された人の悲惨さ、家族の悲しみ、人との関わり、学校、社会、そして犯罪意識。そんな中で育ってきた自我。
その中で。「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問を発することはなかった。
自明の問題という理解と同時に、互いにその質問を避けてきた智慧があったのではないかと思えます。
今の社会は、何かが欠落してきたのかもしれません。
そのために自明で片付けて来れた問題が、若者の心の中に浮き上がってきた。まるでパンドラの箱を開けたかのようです。
この問題は、四次元思考では解決できないのではないかと危惧しています。
時間に追われ、己を見失う社会。全てがゲーム感覚で理解され、殺し殺されてもリセットされる。子供たちにうえつけられた無意識の感性。
どこにも、己を顧みる思想がない。
そんな中で起こっている問題。個人の心の中にある無知と混乱ですね。
その混乱を治める支柱がないのではないかと思うのです。
度重なるこの猟奇現象は四次元思考の終焉を思わせます。
人は己に立ち返る社会を築かなければならない。
五次元思考が必要なのだと思うのです。
今を生きる。今生きている己のいのちの運動に意識を向けさせる。
外に向かう意識を、己の呼吸に向けさせる。息が止まった苦しさを体験し、命を学習する。
なぜ人を殺してはいけないのか。
その質問に答えられるのは
己の中にしかないことを、教える社会が必要なのではないでしょうか。
コメントありがとうございました。
ご意見に対して、まったく書き入れていませんが、次の記事を返信とさせていただきます。
人間の一番大きなブラックホールですね。
画伯の記事を読み直し、もう少し考えてみました。
『自分』すら、実感していない。
そういう事なのでしょうか?
リストカットをする人は、自分の手首から血が出ているのを確認して『生きている』という実感をする……みたいな話をもれ聞きました。なにせ、『死にたい』と思ったことのない人間ですのでよくわかりませんが、死を実感する刹那、ようやく生きていることを実感する……そういう事なのでしょうか?
そこまで極端にならないと、『生きている』実感すら感じることのない、という状況で暮らしてきた、のでしょうか?
破壊衝動が自分に向くか他人に向くか、それだけの差……なのでしょうか?
わかりません。
『とりあえず生きている』など、そういう人にとっては、ねむたい理屈、なのかもしれません。
誰もがわかっている「人を殺してはいけない」だけど、権力、立場の違いで、人を殺すことが「英雄」になる、これが最大の矛盾で謎!
昔若い頃に聞いた言葉、とてもえらい学者様が地球上に住める人間の数は限られている、人間が増えすぎる事を止めるために戦争をする事で地球上の人間の数を・・・この言葉を聞いたとき、とてもショックでした。
宗教に関わりがある気がどうしてもしましたので。
宗教は本来、ヒトを救う為の、誤解を恐れず言うのなら装置、でしょう。でも……一歩間違うとあやうい、そういう装置、なのかもしれません。
『この教えを信じなさい』はすぐに『この教え以外、信じてはいけません』になり、やがて『この教えを信じない者は人間ではない』に尖鋭化しがちなのでは……と、一個人として感じていました。自分と自分が信じているもの以外認めない、外に対して拒絶している頑なな態度が、怖い。宗教と距離を置こうとする人の多くに、こんな疑問や怖さを漠然と感じている人がいるのではないか、と。
宗教がヒトを救う装置としてきちんと機能しなくなりつつある、のもそうでしょうが。
元々宗教にはそういう要素があるんじゃないか、とも思います。『この教えを信じなさい』と言わなければ教えを乞う方は混乱しますし、『信じた後考えなさい』と突き放すと、生じっかかじっただけの者が勝手に妄想をふくらまして混乱するばかりでしょうし。
入った入り口から自分の頭と身体、心で考えることを、宗教はやんわり戒める。混乱を防ぐ意味からも。
そもそも、とりあえず実感のある『自分』以外、認めない。認められない。問題はそういうメンタリティーが人間の根本にある…ことではないのでしょうか?今昔に関わらず。現在は今までより、その意識が顕在化しやすい環境かもしれませんが。
実感のある『自分』以外、すべて幻。ゲームのキャラクター。……異教徒。悪魔の手下。
そう考えてしまう、その方が簡単だから。
自分に実感あるように、他人も一個人として実感のある存在だろう、という予測。想像力。
そうむつかしい、ことではない、気はしますが。
そういうことを社会から教わらない、のでしょうか?とりあえず、明日急に殺されることなどないであろう、この社会で。
親や身の周りの大人達から、一切、教わらないのでしょうか?とりあえず世話され、気にかけてもらえたからこそ、成長出来た筈でしょうから、私を含め。
私も人の親ですが……当たり前に人に育まれた当たり前の人の子に、『自明』がわからない、のなら。
私はどうしたらいいか、それこそわかりません。