先日の記事に、むっちゃんさんと雨音さんから、コメントを頂きました。
この問題の大きさは、人間存在の根幹にある無限とつながっているのではないかと、私には思えるのです。
人間としてのたがが外れると、人はどんなことでも思考でつくり出す。
自明で過ごしていた私たちに対して、その中身を暴き立てる。そんな時代が来ているのかもしれません。
雨音さんの、
「誰もがわかっている「人を殺してはいけない」だけど、権力、立場の違いで、人を殺すことが「英雄」になる、これが最大の矛盾で謎!」
むっちゃんさんの、
「私も人の親ですが……当たり前に人に育まれた当たり前の人の子に、『自明』がわからない、のなら。
私はどうしたらいいか、それこそわかりません。」
という思いも、それを問い詰めていけば、
人のエゴから始まって、理性を通り過ぎ、たがが外れていく恐ろしさです。
私が感じるのは、真理というものは、人間の理性をはるかに超えた存在だということです。
人はその真理に気付きはじめた。
すると、自明とはいわば人間の正常な理性のことですが、それでは説明できない領域で、人の心は暴走するのです。
このままにしておいていいはずはありません。
五次元はそのために必要なのです。
真理を知り、いのちとは何なのかという思想を深め、命の大切さを知る。
自明の領域を増やさなければ、
真実に気付いた悪魔を黙らせることは出来ない。
吾は空なり。
そこに最大の価値を見出すことが必要なのではないでしょうか。
人間は次の一歩を踏み出す時なのかもしれません。
生命体の総意、とも言える『龍神』と対峙したひとりの若者が、村を救いたいから『龍神』の水を分けて欲しい、と頼んだ。が、『龍神』はにべもない。『私にお前達を救わねばならない理由はない。お前達の先祖はそもそも、芦原を開いて今の村を作り、住み着いた。その時、芦原と芦原にすむ者たちを、それと意識せずに殺した。今度はお前達が死ぬとしても、順送りというものだ』と。若者は絶句し、しかし食い下がる。水をめぐって人間同士争って死ぬのと、それと気付かず他の生き物を殺してしまったのとは訳が違う、と。だが『龍神』は言い捨てる。『生きとし生けるモノに、そんなに差はない』。
長々と失礼しました。
今回の話と直接的に関係は薄いかもしれませんが、『龍神』の認識が『真実』サイド、若者の認識が『人間の理性・自明』サイド、かな?と思いましたので。
人間として社会を築き、その中で安心して暮らしていくのには、『理性・自明』……ある種のお約束、がいるでしょう。あまりにもそれが強固だと、息苦しい抑圧された社会になるでしょうが。そんな社会はイヤです。でも、『真実』サイドの部分と本能だけが暴走する社会は……すでに社会ではないでしょう。信じられるのは自分だけ、いや自分さえも信じられない。
沸き上がる衝動にだけ忠実、となると……滅びは目の前でしょう。
滅んで、何がいけない?『龍神』はけんもほろろに言い捨てる。が……その絶句する『真実』に対峙し、若者(人間)は言うべきだろう。『我々(私)は我々(私)として生きる為に、生まれてきた』。背筋を伸ばし、きっぱりと。
滅ぶ目的で生まれたのではない。そしてナニかを滅ぼす目的で生まれたのでもない。……そういうことではないでしょうか?
『我々(私)は我々(私)として生きる為に、生まれてきた』
これです^ね^。^
こちらのタイトルが気になってリンククリックで辿りつきました。
前ページより読んだ感想です。
死刑執行を続ける日本、
「子供達に人を殺してはいけない」
と本当に教えているのでしょうか?
死刑になりたいがために、自分で死ねない輩が殺人を犯す事件も実際に起きています。
「自分が貴いように、他人も貴い」
精神的にそこまで辿りつくには人間の一生の時間だけでは足りないぐらい難しいのでしょう。
むっちゃんさんのコメントの龍神の言葉、「生きとし生けるモノに、そんなに差はない」
だからこそ全て貴いのだ、と理解できるまで感情のある人間は特に難しいものなのでしょう。
また、権力を身につけると真理もくもるものなのかもしれません。
日本社会を支配する官僚の方々からして、
まだまだ真理に辿りつくには程遠いようです。
読者登録もあわせ、御礼申し上げます。
人を殺してはいけない。
その前に、私はいのちの大切さ、尊さを子供たちに教えられているのかと思いますね。
難しいけれど、何とかしなければという思いもあります。
少なくとも、自分の中でその尊さを理解しなくてはと、いつも絵を描きながら考えております。
いろいろ勉強し合えればいいです^ね^
よろしくお願いいたします。