ナウイズム(実在主義)旗揚げ展・はるひ美術館のための制作
五次元宇宙(1枚/16枚)
とても重い主題ですが、とりあえず生きている。
この呼吸のリズムを落ち着かせて、とりあえず前を向いて行きましょう。
むっちゃんさんから、次なるメッセージを頂きましたので、ありがたく共有して考えてみましょう。
ちなみにむっちゃんさんは作家さんで、当ブログの新セリナの物語で、私の作品の二次創作を試みていただいた方です。(かわかみれい)そのおかげで、セリナの物語が倍にグレードアップしました。
ともあれ、以下むっちゃんさんの文です。
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少し前に、へっぽこ物書き『かわかみれい』が書いたお話のひとつの中に、こんな記述をしたことを思い出しました。
生命体の総意、とも言える『龍神』と対峙したひとりの若者が、村を救いたいから『龍神』の水を分けて欲しい、と頼んだ。が、『龍神』はにべもない。『私にお前達を救わねばならない理由はない。お前達の先祖はそもそも、芦原を開いて今の村を作り、住み着いた。その時、芦原と芦原にすむ者たちを、それと意識せずに殺した。今度はお前達が死ぬとしても、順送りというものだ』と。若者は絶句し、しかし食い下がる。水をめぐって人間同士争って死ぬのと、それと気付かず他の生き物を殺してしまったのとは訳が違う、と。だが『龍神』は言い捨てる。『生きとし生けるモノに、そんなに差はない』。
長々と失礼しました。
今回の話と直接的に関係は薄いかもしれませんが、『龍神』の認識が『真実』サイド、若者の認識が『人間の理性・自明』サイド、かな?と思いましたので。
人間として社会を築き、その中で安心して暮らしていくのには、『理性・自明』……ある種のお約束、がいるでしょう。あまりにもそれが強固だと、息苦しい抑圧された社会になるでしょうが。そんな社会はイヤです。でも、『真実』サイドの部分と本能だけが暴走する社会は……すでに社会ではないでしょう。信じられるのは自分だけ、いや自分さえも信じられない。
沸き上がる衝動にだけ忠実、となると……滅びは目の前でしょう。
滅んで、何がいけない?『龍神』はけんもほろろに言い捨てる。が……その絶句する『真実』に対峙し、若者(人間)は言うべきだろう。『我々(私)は我々(私)として生きる為に、生まれてきた』。背筋を伸ばし、きっぱりと。
滅ぶ目的で生まれたのではない。そしてナニかを滅ぼす目的で生まれたのでもない。……そういうことではないでしょうか?
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むっちゃんさんの結論。
私もその通りだと思います。結果人はそう考えるしかないのだと思います。
龍神と若者の話しは、人間の今の姿をとてもよく表していると思います。
私のいいたいことを、この図式を借りて言えば、若者と竜神は実はひとつなのだということです。
竜神サイドと若者サイドというのは、なんとなくわかるのですが、そこにある考えの中には、竜神を自分の意識の中に納めてしまう。自明から見た姿が浮かんでいるのです。
創作するためのには当然必要なことですから、作品に問題があると言っているのではありません。
くれぐれも思い違いしないでください^よ^。
そうではなく、
私たちは、真実の竜神を見るとき、それは微塵の一粒ですらない部分に、光をあてているにすぎないということです。
竜神はもの言わぬ存在という意識が必要なのです。
真実の竜神にはセリフはないのです。そこにセリフをつけて龍神を考えてしまうと、私たちは自分の頭の中で堂々巡りをするばかりか、竜神に対して反逆するものまで出てくる。
「何故ヒトを殺してはいけないのですか?」という問いは、若者に向けられた問いではないというのはわかりますよね。
もし若者に向けられた問いなら簡単です。私たちの自明を優しく繰り返したらいいのですから。
しかしこれは明らかに、竜神に向けられた問いなのです。
しかし竜神は語らないでしょう。
何万年待っても、答えは返ってこない。
ではどうします?
若者の方から、竜神に分け入っていくしかないのです。
私がナウイズムを提唱する論理、五次元思考にはその方法がある。
若者=竜神
という図式が理解できる認識方法、スケールの概念です。
人は長い歴史の中で、時間の概念を身に付けましたが、今や、スケールの概念を必要としているということです。
『龍神』=『若者』。『龍神』は、『若者』がとらえられる絶対……真実の、形、であろう、と。
それが冷酷であれ、慈愛に満ちた存在であれ。
しかし本当の『龍神』に、本来台詞はない。
すごくわかります。
『若者』はそれでも、『龍神』に問いたくなる。しかし『龍神』は何も答えない。
答えてくれない。
『龍神』に答える必要も意志も、何もない。
それが絶対、というものでしょうから。
なら『若者』は、どうするべき?
己れは生まれ、生きている。
そのことを静かに認め……今を生きる。
絶対の前で絶句しつつも。
画伯のナウイズムに通ずる、認識……そう理解しました。
最後の文「スケールの概念を必要としている」にハッとさせられました。
そして、いつの間にか、竜神と人、どっちが正しいのか…
そんな敵対や二極化に対し、”若者と竜神は実はひとつなのだ”と言う考え。
”どっちかではない答え”への納得を感じ、改めて
「人間は生物で、1と0で全て決まるものではない」…私なりに「新たなスケールの概念」の大切さを感じました。
興味深い考えとの出会いに感謝しています。ありがとうございます!
お礼申し上げます。
人は、何があっても、今を生きるしかないのでしょうね。
どんなにみじめに見えても、それは龍神様の意味が付与されている。
そう信じるのは大切なことですし、それが私のいう信仰なのです。
またいろいろ、議論していきましょう。
スケールの概念は、私が作り上げたものではなく、昔から人の心にあるものなのです。
昔よく言われたのは、米粒ひとつひとつの上に神様がいる。だから粗末にするな。でした。
人は心の奥底に、生まれたときから持っている真実なのですね。
新しい風景が見えてきたらいいです^ね^。