(25)-1
カキーン、カキーン、カキーン
剣の打ち合う音がくすんで汚された迎賓の間に響いています。
一人は頭巾を肩に垂らした黒ずくめの男で、もう一人は衛兵の軍服を着た男でした。
黒ずくめの男は流れるように剣を使い、あたかも鳥が舞うように見えました。
一方軍服の男はまっすぐ敵の急所を突いていく剣なのです。
柔と剛、二人を眺めれば虎と燕が戯れているようにも見えるのです。
エルとダニール、二人はともに親衛隊の同期で、良きライバルでした。
共に山野を駆け巡り腕を磨きました。
戦い方は対照的でした。
ダニールは、風と地を知り、機を見て剣の動きに逆らわない剣法を編み出し、エルは目前の敵を一気に断ち切る気力を鍛えました。
二人はすべての面で拮抗した力を持っていたのです。
二人の間でたった一つ違ったものがありました。
それはエルが親衛隊長の息子だということでした。
そこにダニールがいつも二番手に甘んじている原因があったのです。
エルが父を病で亡くしたとき、ダニールは最後の一撃で手を抜いて勝を譲ってしまいました。
それ以来、エルに集まる人望も若頭という地位にも、ダニールは無意識のうちに己を押さえて受け入れる癖が付いたのかもしれません。
しかしその無意識のところには、最後まで打ち合えば必ず勝つというふつふつとした思いもあったのです。
一方フェルミンは幼馴染のエルに連れられて親衛隊に出入りするようになりました。
そこに不思議な事が起こったのです。
フェルミンがいるだけで、男たちは普段の何倍も働くようになったのです。
エルとダニールの剣の修行も実はそこに原動力があったのかもしれません。
その力がストレンジ王宮の秘密通路と隠れ城をつくり上げたのでしょう。
それはエルを頭にした若い親衛隊のシンボルとなったのでした。
ところがある時ダニールは自分の気持に気づいてしまったのでした。
それはフェルミンとエルが交わす何気ない言葉としぐさを見たときです。
その二人の「近さ」を意識した時、ダニールは、自分ではどうにもならない気持ちが勝手に渦巻いていくのを感じたのでした。
そのたびに痛む胸は二番手という嫉妬とは違う耐えがたいものだったのです。
その「近さ」を一体どうすることができたでしょう。
ダニールはチュウスケの魔法とはいえ、自分の心を開放する快感を覚えました。
「近さ」でさえ魔法は役に立つ。そう思えたのです。
ところが力で引き寄せたとたん、あろうことかダニール自身の剣で、フェルミンは己の身を刺したのです。
エルは果敢に剣を繰り出してきます。
いつもの訓練と違って、エルの剣は一線を越えた踏み込みで迫ってくるのです。
己を捨てたものにしかできない間合いにダニールは次第に追い詰められていきました。
ひらりとかわしたダニールの浮いた足にエルの剣が追いついたのです。
ダニールは膝を薙ぎ払われ、床に転がりました。
二人の乱舞が一瞬で終わったのです。ダニールは顔をゆがめたまま動きません。
ところがエルが剣を下げてダニールに近づいた一瞬でした。
ダニールが跳ね起きエルの腹を突いたのです。
エルが崩れ落ちました。
ダニールは片足で立ち、エルに馬乗りになると、とどめを刺そうと剣を振り上げました。
「ダニール、もうやめて!」
ダニールの後ろでフェルミンの悲痛な叫びが聞こえました。
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(ちょっと一休み)
邂逅展(かいこうてん)は毎年正月に各自が個展形式で参加して
一つの会場で開催するグループ展です
参加者各自が自分の案内状を作り発送します。
壁面も個展として展示します。
そうすることで個人的自由を集合させるという
新しい形の展覧会です。
その自由な雰囲気が思わぬ相互効果を表し
ユニークな展覧会と注目を集めています。
この邂逅展の主宰者
小倉正宏先生(ドイツ文学者・劇作家)が他界し1年となりました。
仲間とそのお墓(記念碑)参りに
私も参列してきました。
生駒山頂のメモリアルパーク
それは天空にありました。
眼下に大阪平野が一望され、心が最大限に引き伸ばされる風景を見降ろす
息をのむような舞台設定でした。
メモリアルパークに着いた頃
それまで晴れていた空に
黒雲が現われ
写真のような光景に変ったのです。
肉眼で見る光景の壮大さは半分も伝えられないのが残念です。
突然一条の光が差し込み
息をのむ間にも空は変化し
天が割れ、光が天井ライトのように光芒を拡げ
大阪平野を照らし始めたではありませんか。
墓石の頭の上の▲山の向こうが梅田のビル群、
右手奥の光の下には阿倍野ハルカス。
肉眼でははっきり見えて、心がえぐられるような空間のシナリオが
墓碑の銘文につながります。
遠景の木漏れ日、中心の光の窓が大阪平野の市街を照らしはじめ
墓石頭上の光の変化が
あたかも劇作家の演出サインのように思えました。
そしてクライマックス
中天の光が墓石の輝きになり
天地に
存在の永遠にあるを
感謝する
否応なく心は
墓碑の銘文に還ってくるのです
「死んでも小倉さんらしい」
誰かのがつぶやきが
聞こえました
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