本懐に迫る般若心経改定
前回の投稿「子供にもわかる般若心経」改定は、背景に大きな変化があったのです。
それはつまり長らくつかめなかった経文の未消化部分がすっかり流れ落ちたために生まれたものです。
今回はその背景を書いてみたいと思います。
まず何が未消化だったのかということなのですが、
己を含めた世界の認識はすべて無であることを理解したものは菩薩となって
一切の苦から解放されると般若心経は語るのですが、
その悟りを開いた三相(過去現在未来)の菩薩が感じる心境を
般若心経は次のように記しているのです。
究竟涅槃三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提
この赤字の部分ですが、この部分は原文を漢訳したものではなく、サンスクリット語の音写だと言います。
つまり漢語では表現できないということなのでしょう。
どの解説を見ても、その意味は深く表されておらず、悟りの境地を意味するとしか書かれていないのです。
しかしこれでは意味がないわけですね。
悟りを開いたものは、悟りの境地になると言われても、
それをそのまま鵜呑みにするわけにはいきませんね。その境地の心持を知りたいのですから。
もちろん私にも分かりませんが、体験するためにまだまだ旅が必要だということだと受け止めていました。
般若心経の骨組みを見てみると、この経文は以下の通り実に無駄なくストレートに悟りまでの道のりを示しています。
①すべては彼岸に渡ろうとする求道の意識から始まる
②人が日々意識して思い描く世界は空であるということを知る
③最も大きな視野で宇宙を見ても空と色は別々にあるのではないこと
④己に目を向けても、五感と思いと心は無であり空に帰すること
⑤意識している老病生死、一切の現象もまた無であり空に帰すること
⑥そしてこの空を理解したものは一切の拘りが消え苦悩から解放される
⑦こうして悟りの世界に入ったものは阿耨多羅三藐三菩提を得る
⑧これを得ることが出来る唯一無二の経文によって間違いなく一切の苦を取り除くことが出来る
⑨真実とつながりたいという強い願いで呪文を唱えてみるといいだろう
⑩羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
⑪般若心経
この流れの中で、赤で示したもう一つの経文
(ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ほじそわか)
もサンスクリットの音写であるが、般若心経の示す最後の地点であることから
この呪文とは意味ではなく音そのものに要点があるのはすぐに分かる
つまり涅槃に入ったものは呪文化された音節によって宇宙の波動(宇宙語)と同化するのだ。
般若心経はこのように、無駄なく発心から解脱までの心境をドラマティックに表しているのです。
だが阿耨多羅三藐三菩提は容易にそれを体験としてこの身に自覚できないのです。
それは自分が自覚できないだけで、経文解説のようにごまかしているのではなく
そこには必ず実感として相当する気分が表現されているはずだと考えていました。
全てが空と知ったものは何故苦から解放されるのか
何故苦がなくなるのか?
苦がなくなるということは
心配がなくなる
恐れがなくなる
不安がなくなる
ではその前に何故心配し恐れ不安を抱くのか
それはいつか壊れるかもしれないから
一体何が壊れたらと不安になるのだろうか
そう考えたとき
私は初めて飛行機に乗った学生時代のことを思い出しました。
空を飛ぶということは足元に何もない
飛行機が落ちたら死以外にはない
座席に座っていてもそんなことばかり考えていました。
つまり意識は生きることに向かっているのに
思考は落ちていく飛行機に執着して
そこから逃れようと必死に思っている自分がいたのです。
つまりこれは
信じる信じないの問題ではなく
単純に
自分の運命を飛行機に託せないということだったのです。
何故苦しむのか
それは
託せないから落ちる飛行機の中で必死にもがく自分の姿を想像して逃られないからでした。
しかし飛行機に自分のすべてを委ねる
一蓮托生そう思えたとき
私は初めて自分の全体重をシートに預けることが出来た記憶があります
まさにその経験で感じた感覚こそ
阿耨多羅三藐三菩提なのだと思い至ったのです。
自分が持っているもの
守っているもの
そう思うすべてのものは
この自分の身体を含め
空だと理解したら
誰もがその自分が壊れて失うものもないと思い至る
この自分を飛行機と考えたら
飛行機そのものがないのだから
失うものもない
もう少し庶民的な感覚で言えば
自分という飛行機に乗っていると考えたらいいのだ。
一蓮托生
飛行機に身を任せるように
自分という乗り物に身を任せたらいい
つまり
阿耨多羅三藐三菩提
とは
自分の一切合切を
預けるて楽になることなんだと理解したのです。
それが帰依という言葉で表している
心持だったのである。
自分、すなわち自然、つまり宇宙に帰依すると
それが老子の言う無為自然にも通じる
私の心惹かれる言葉たちが
それこそ自然に繋がっていく
般若心経を感性でとらえたら
てんとう虫が悠々と歩いていく
外敵など気にしない
あの堂々たる姿
私はようやく
憧れた
てんとう虫に
なれるのかもしれない。
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