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スケール号は額に入り口があります。猫の額が開いて階段が下りてきます。乗組員たちがスケール号に乗る姿を見ていた院長先生は目を見張りました。猫が大きくなっているのか、乗組員たちが小さくなっているのか、分からなくなってしまうのです。混乱しているうちに全員がスケール号の額の中に消えていきました。銀色の猫が床を蹴って飛び上がったと思うと、その姿がふっと消えてしまいました。
ハエが一匹、院長先生の頭の上を越えて、窓に止りました。よく見るとそれは窓ガラスに張り付いたスケール号だったのです。そのスケール号がノミのように小さくなり、やがて見えなくなって窓ガラスにしみこんでしまいました。
院長先生はよく見ようとして窓ガラスに額を打ち付けてしまいました。幸いにも窓ガラスは丈夫にできていたので、院長先生の額が赤くなるだけでしたが、中にいた保育士さんに見られてしまいました。それがちょっとした笑いを誘って、保育士さんたちの緊張がほぐれたのでした。
「艦長、今度はもう一度ハエの大きさになるんだ。」ガラスの原子の間を潜り抜けると博士が言いました。
「ばぶー」揺りかごの中で艦長が握りこぶしを動かしました。
「ゴロにゃーン」スケール号が気持ちよさそうな鳴き声を上げると身体が急速に大きくなりました。一瞬の間に原子の大きさからハエの大きさになったのです。それは途方もないスケール移動なのです。スケール号はそのまま消毒液の中に飛び込みました。念を入れての消毒です。
「博士、めんどくさいでヤすよ。せっかく窓を通ってきたのでヤすから、このままの大きさで保育器まで行けばいいのでヤす。」
「ばかだなあ、もこりん。そんなことしたら何万年かかってもそこまで行けないダすよ。」
「ぐうすかの言うとおりだ。わずか1メートルの距離も、原子の大きさになったスケール号にはおよそ10万光年離れた場所になるのだよ。」博士が言いました。
「ほらね」得意げにぐうすかが胸を張りました。
「前にも教えてもらいましたよね。10万年光年というのは、光の速さで10万年かかることだって。」
「そうだ。だから面倒でも、スケール号はスケールを操りながら進まなければならないのだよ。」
「そうでヤした。」もこりんがぺろっと舌を出しました。
そのうちにスケール号は保育器をおおっているカーテンにたどり着きました。
「さあ行こう。」
「はふー」
「ゴロにゃーン」
スケール号はあっという間に原子のスケールになって、カーテンの分子空間を潜り抜けていきます。
そしてとうとう、のぞみ赤ちゃんの入っている保育器に到着したのです。
艦長はスケール号の操縦を見事にこなしているのです。北斗は本当に天才だ! 博士はどうしてもジイジの目で身びいきに見てしまいます。けれど、それでなくても北斗の操縦は滑らかなのです。
ジイジが艦長になって初めてスケール号を動かした時は、飛び上がって下りてくるのが精いっぱいでした。方向を間違えてスケール号を地下に潜らせてしまったこともありました。マグマの熱に焼かれながら地球の中心を通り抜け、とうとう反対側に出てしまったのです。ジイジには恥ずかしい思い出です。
それなのに北斗は、最初から高度なスケール移動を一度聞いただけで使いこなしているのです。それはスケール号の気持ちよさそうな鳴き声で分かります。無理のない操縦はスケール号にとって最高の喜びなのでしょう。
スケール号のそんな身のこなしを感じながら、ジイジは宇宙語について考えました。
そして北斗がこんなに見事にスケール号を動かせるのは宇宙語しか知らないからだと改めて気づいたのです。
自分がうまくいかなかったのは人の言葉を覚えてから艦長になったからだ。そう考えるとうまく説明がつきました。スケール号は宇宙語で動くのに、人の言葉で伝えようとしていたのです。外国人に日本語で話すようなものです。
宇宙語は天の才能なのです。まさに天才という言葉通りなのです。それが人の言葉を知ると、忘れてしまうのかもしれません。そうなのです。夜空の星のように、太陽が昇ってくると見えなくなるのと同じです。ジイジは一人で納得してうなずきました。
話せない北斗は、ジイジの欲目ではなく、本当に天才のかたまりなのです。
すると、スケール号の目の前にいるのぞみ赤ちゃんに宇宙語がないというのはどういうことなのだろう。
博士は栄養チューブでつながれた赤ちゃんを見ながら考えました。
宇宙語ではない別の言葉にとりつかれている。そう考えるしかありません。のぞみ赤ちゃんにとりついているのは何なのだろう。
博士の考えはどんどん深くなっていきます。
エイリアン??この宇宙にはない異形のものでしょうか。
そう思ったときでした。
「フギャーふぎゃー」
突然猫がケンカするような鳴き声が聞えました。
「どうしたスケール号!」と思った瞬間、その声は揺りかごの中からだと分かりました。
「博士、大変でヤす!! 艦長が泣いているでヤす!何もしていないでヤすよ。」
ちょうどもこりんが艦長を見ていて、あまりにかわいいのでつい艦長のほっぺを指でつんつんしたのです。マシュマロのように柔らかいほっぺが気持ち良くて、もこりんは何度かつんつんしてしまいました。その時艦長が急に泣き出したのでした。
「ウソだー、もこりんが艦長をつんつんしていたの見たダすよ。」ぐうすかがもこりんを睨みました。
「ほんのちょっとだけでヤす。何もしていないのに一人で泣き出したのでヤすよ。ほんとでヤす。」もこりんのオドオドした言い訳です。
「ふぎゃー!フンギャー!」艦長の泣き声が段々激しくなります。
「艦長どうしたのですか。お腹痛いのでしょうか?」ぴょんたも心配して揺りかごを覗き込みました。
スケール号の中は大騒ぎになりました。保育器のガラスにへばりついたままです。艦長の命令が止まって動けないのです。
保育器にとりついたスケール号は小さくて虫にしか見えません。運悪くその姿を一人の保育士さんが見つけました。保育士さんはスケール号のことを知りませんから、無理もありません、スケール号を虫だと勘違いしてしまったのです。
「おい、こんなところに虫が入ってきているぞ。」保育士さんが同僚に耳打ちしました。
「えっ、本当ですね。一体どこから入ってきたのでしょう。」若い保育士さんがあたりを見回しました。
「そんなことより、動き回られては大変だ。吸引しよう。原因はあとから考えたらいい。」
「分かりました。」
部屋には床に落ちた汚物などを処理するために吸引器が備えつけられているのです。無菌状態を保つための装置なのですが、いままで 虫を吸い込むなんてなかったことです。若い保育士さんが吸引器をそーっとスケール号に近づけて行きました。そのあいだ三人の保育士さん達は息をのんで見守っています。
吸引器に吸い込まれてしまったら、あっという間に汚物処理槽に送られてしまいます。それなのにスケール号は吸引器の口が間近に迫っても動く気配がありません。あと数センチ近づいてスイッチを押されると、逃げ出したところでもう間に合わないでしょう。一瞬で吸い込まれてしまいます。
それなのに誰もそのことに気づいていないのです。
「フンギャー、フンギャーーーーッ」
スケール号の中では艦長はますます泣き声を張り上げて、息が詰まって身震いするまで力を入れて泣き止みません。
「息が止まっているダす。」ぐうすかがオロオロして博士に言いました。
「これはおむつ替えかもしれない。見てくれないかぴょんた。」博士が揺りかごの底からおむつを取り出しました。
「分かりました。」ぴょんたはおそるおそる艦長のおむつを開けました。
「わーすごいうんちでヤす。」
「もこりん、艦長の足を持ち上げてくれないか。おむつ交換するからね。」ぴょんたは落ち着いて言いました。
「こうでヤすか。」もこりんは両手を使って艦長の足を持ち上げました。
その時、艦長の噴水が飛び出したのです。噴水はもこりんの顔を直撃です。もこりんは悲鳴を上げました。
「手を離しちゃだめだよ、もこりん。」
ぴょんたがあわてて言うと、ぐうすかが大笑いしました。博士も大変だと言いながら笑っています。ところがその時、博士はスケール号の危機に気付いたのです。
「ぴょんた、急げ。」博士は汚れたおむつを引き抜いて言いました。
「はい。」
ぴょんたは博士の気配を感じて素早く艦長のお尻を拭くと、新しいおむつを付け替えたのでした。艦長は何もなかったように無邪気な笑い顔になっています。
その時、スケール号がグラッと揺れました。黒い穴がスケール号を飲み込もうとしていたのです。
「艦長!飛ぶんだ!!」博士が低いけれど強い声で言いました。そこに大きなホースの丸い穴が覆いかぶさって来たのです。
「全速力で前に進め!あの穴だ。」博士は丸いホースの出口を見て言いました。
「グロヌヤーン」
スケール号は奇妙な声を上げて飛び上がりました。ところがそこはすでにホースの中だったのです。乗組員たちは吸引力で壁に押し付けられて身動きが出来ません。スケール号が飛び始めるとようやく落ち着きましたが、ちっとも前に進みません。必死で飛び続けているのにホースの中を徐々に引きこまれていくのです。
「艦長、だめダす。このままでは吸い込まれてしまうダす。」
「顔を洗わせて欲しいでヤすよ。」
もこりんは艦長の噴水を顔に受けたままなのです。けれど、もこりんの話は誰も聞いてくれません。
「艦長、このまま飛び続けながらホースの壁をつかむんだ。そして小さくなってホースの壁を抜よう。」
「バブ、バブ」
スケール号がホースの蛇腹にしがみつくと、一気に原子の大きさに縮みました。ホースの壁があっという間に宇宙空間に変ったのです。そこは吸引の風も無い静かな宇宙でした。
「よくやった、艦長。このままホースの宇宙を抜けるんだ。」
「バブーー!」
「ゴロニャーン」
危機一髪、スケール号は吸引機のホースから脱出してようやく保育器にたどり着きました。今度は保育士さん達に見つからないように素早くその壁を抜けたのです。そこにはのぞみ赤ちゃんが寝ていました。赤黒い肌は今にも破れそうな薄い膜のようです。とても痛々しい感じがしました。
「かわいそうダすな。」ぐうすかがチューブにつながれている赤ちゃんを見て言いました。
「のぞみちゃん、頑張れ」ぴょんたが励ますように言いました。
「助けてあげられるでヤすよね、博士。」もこりんはタオルで鼻頭を拭きながらさっぱりした顔です。急いで顔を洗ってきたのです。
「助けてあげたいね。」
「ㇵㇷ―、クはーうはー」
艦長がしきりに話しかけましたが、のぞみ赤ちゃんからは何の返事もありませんでした。
内側から見る保育器の窓は大きな神殿の入り口のように見えました。その入り口は巨大なゴムの手袋になっていて、そこから大きな手が入ってくるのです。その手が優しく赤ちゃんの体位を変えてあげたり、身体に油のようなものを塗ってあげたりしています。
スケール号は今、保育器のふたの合わさったくぼみに、ノミより小さな姿でうずくまっているのです。
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