ルビンの壺をネット検索すると、たくさんの画像を観ることが出来ます。上の写真もその中の一枚。勝手に使いましたが、商売ではないのでお許しください。
これは壺の写真ですね。暗い空間の中に置かれているものを、私たちは当たり前のように認識しますね。
ここには壺しか置かれていないのですが、もっと単純に言えば、物と空間があるわけですね。そしてわたしたちは、この壺を意識するとき、空間のことは考えないのです。当然ですね。
これを図にすると、こんなふうになりますが、よくある錯覚視の例として有名なルビンの壺です。白い部分に意識を向けると壺ですが、黒い部分を意識するとそれは向かい合う人の顔になります。
つまり私たちは何の疑問もなく、当たり前に壺は中央にある物体だと信じていますが、実はその物体を取り巻く空間こそ壺の本質だと考えることも出来るのです。
この壺を自分の身体に置き換えてみてください。私の言いたいことはお分かりですね。
私たちはこの身体を自分自身と思ってきました。この身体に意識が向くと、当然のごとく空間は見えなくなります。しかし私の実体は空間だったのだと気付くと、わたしたちの認識は革新的に変化します。これは信じる信じないの問題ではなく、実体に対する認識の問題です。認識を変えれば誰でも瞬間に、孤独の世界から、悟りの世界に跳躍できるのです。
わたしたちは空間の中に浮かんでいます。
わたしたちは地に足を付けているではないかと反論する人は、少し大きな眼で眺めてみてください。足を付けている地面は丸いかたまりとなって空間に浮かんでいますね。太陽の周りを休むことなくまわり続けています。
その空間こそ「私」なのだと気付くことは、素晴らしいことだと思いませんか。
わたしたちは何世紀にもわたって、空間に浮かんでいる物質こそ実体であるという認識で世界のあらゆる概念をつくりだしてきました。空間に意識を向けることはなかったのです。例外的に宗教や、精神世界、易や、合気道などが、実践的に空間の真実に触れていたのです。
己を知るということは、空間の秘密を知ることに他ならないのです。
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