紙芝居は続く。
次の場面は、優しい目で軽くほほ笑み、背筋を伸ばして立つこがらしの若者の横顔だった。彼の視線の先には、枝先で赤ん坊のようにあどけなく眠る黄緑色の若芽があった。
「厳しい季節を知らせる、みんなから嫌がられるだけの仕事。それが『こがらし』だとずっと思ってきました。……でも」
こがらしは自分が、誰かに待たれている存在なのだと気付いた。
「こがらしさん?黙ってしまったこがらしへ、メタセコイヤは心配そうに呼びかけてきました。我に返り、こがらしはほほ笑みます。いや。お礼を言わなきゃならないのは多分、ぼくのほうだよ。……ありがとう」
真っ直ぐなまなざしでこちらを見、ほほ笑むこがらしの顔。
舌の上のキャラメルの存在を急に思い出した。長く舌に乗ったままだった甘みは、すでに痛みと変わらなくなっていた。
舌の上に貼りついていたそれを、僕は強引に飲み下した。のどが詰まり、涙や鼻水が出てきた。テーブルの上を探し、紙ナプキンのホルダーから乱暴に何枚もナプキンを引っ張り出して鼻や口や目の周りやをぬぐった。
場面は最初と同じ灰色のグラデーションの中を歩く若者。ただ、まっすぐ前を見つめる彼の瞳に暗い寂しさはない。レイちゃんは静かに語る。
「今日もこがらしは歩きます。こがらしが歩くと、辺りは冷たい灰色に沈みます。けれどこがらしの胸の中は、ほんのりと火がともったようにあたたかでした」
紙芝居を膝の上に伏せ、彼女は軽く笑んで立ち上がる。
オカリナの音が余韻を残しながら止まった。
背筋を伸ばして真っ直ぐ立つと、彼女は深く一礼した。拍手が響く。
僕はさっきからずっと、紙ナプキンを顔に当てていた。
舌がしびれたようになって痛かった。そのせいか涙がにじんで仕方がない。
(僕は……)
僕は、僕のくすのきとメタセコイヤを、ゆうべ、なくしてしまったのだろうか?
僕を見守り、僕を必要だと思ってくれる、くすのきとメタセコイヤをなくしてしまったのだろうか?
……なくした。なくしたのだ!
唐突に気付く。瞬間的に息がとまった。足元から奈落へ落ち込むような感覚。
しかし次に、大息を吐きながら僕は、いや……と思い直した。
よく考えろ。僕はみくの、くすのきとメタセコイヤだったか?
大学をやめて以来、僕は絵を描かなくなった。描かないのか描けないのか、自分でもわからない。しかしそれ以来、僕は、些細なことでも落ち込みやすくなった。
「やりたいことなら無理してやめなくてもいいんじゃないの?学校をやめるのと、絵をやめるのは別じゃないのかな?コツコツ続けて大輪の花を咲かせた人だっているじゃない。ほら、学生の頃に見に行ったあの絵描きさん。ほとんど我流であれだけの大作を……」
何十回目かの落ち込みに、むっつりしている僕を見かねた彼女がそう言った。訳知りな言葉にかっとして、思わず
「うるさい!」
と、僕は怒鳴った。
満たされない、ぐしゃぐしゃの己れの心。行き場のない焦りと怒りが渦巻いている。
おびえたような彼女の目に後悔したけれど、ふてくされたように僕はそっぽを向いた。
彼女の優しさに慣れ、いつしかそれが当たり前になっていた。何があっても僕を見守り、必要としてくれるのだと知らないうちに思い込んでいた。
だが、僕は彼女をきちんと見守ったことがあっただろうか?
真面目に、君が必要だと伝えたことがあっただろうか?
私はあなたのお母さんじゃない、と言った彼女の最後の言葉の意味が、今更ながらはっきりと理解できる。
ゆがむ視界をごまかすように、僕は紙ナプキンをもてあそぶ。紙を触っているうちに何年ぶりかで指が、覚えている形を勝手に折り始めた。
角と角、対角線をきちんと合わせ、きっぱりと折り目を付けてゆく。
一枚では頼りないので二枚重ねて。
柔らかくてつるつるしていて、もともと別の折り目がきつく付いている紙ナプキンは折り紙に向かない。
わかっているが、それでもかまわず僕は折る。折り続ける。
プログラムは次へ進んでいた。
確か、マスターのポップス気まぐれ弾き語り、だった。
ゆらぎのあるピアノの音。やや高めの歌声。長渕剛やさだまさしが歌われているらしい。
感覚の一部でそれらをとらえながらも、僕はひたすら折り紙を続けていた。
(薔薇、を……)
あの日みくへ捧げた薔薇を。
もう遅いのはわかっている。
でももしもう一度、僕に時間がもらえるのなら。
もう一度だけ、チャンスがもらえるのなら。
せめて『今までありがとう』、それだけは伝えたい。
あたたかなピアノの音は響いている。とんとん、と、不意に肩を叩かれた。
「参加しませんか、おにいさん。のしてんてんのお楽しみ会、大トリはいつも全員での合唱なんです」
歌詞カードもありますし、と、相変わらずの愛想の良さと押しの強さでにこにこしながらそう言うのは、レイちゃんだ。
さあさあ、と半ば強引に引き立てられ、僕は立ち上がる。彼女の勢いに再び寄り切られた。
ピアノの周りにはすでにみんな集まっていた。
マスターは即興のメロディーを奏でながら僕とレイちゃんが来るのを待っていた。
僕が少し離れたところで立ち止まると、旋律が変わった。どこからともなく歌詞カードが回ってくる。
(え?山崎まさよしの『One more time, One more chance』?)
古いが好きな曲のひとつだ。しかしよりによって。何という偶然。
(つづく) 次を読む
言葉は、確かに私たちの存在を脅かす拘束着となりますが、一方でこのように仲間を生み出してくれるものなのです^ね^
そもそも言葉はそのために生まれたものなのでしょう。ところが副作用があったということでしょうね。
孤独を生きるために、違いを活かしあい、仲間を愛する。人としての至福はそこにあるとわたしなどは思っております。私もまた、感謝いたしま^す^
私も同感です。
存在するということは、実存することによって孤立する、ということでしょう。
そこには一切、窓も扉もありません。
色々とご心配いただきありがとうございます。
苦しみからは既に解放されたと思っています。
中動態というものに出逢わなければ、気付くことはなかったでしょう。
ここまで分かる方と話ができたことに感謝します
「私の中では自己責任という言葉はただの流行り言葉にすぎません。
それも極めて程度の悪いものです。
失敗したとしても、誰かに助けを求めることを躊躇させるような言葉です」
私もまったく同感ですし、言葉の本質に迫る認識だと考えさせられました。
「自立にしても、自己決定にしても、自己責任にしても、なんだかそれらの能力が自分に備わっているかのような勘違いを起こさせますね。」
この洞察は、同感を越えて感動すら感じます。
そして思うのですが、トラさんの心がその洞察のゆえに、苦しまれているのではないだろうかと・・・
(勝手な想像です。心外でしたら捨て置き下さい)
言葉は人間が編み出した道具ですね。便利ですが、トラさんの言われるように、自分の存在とは違ったあり方を強要することになる。この事実を、トラさんは自らの苦悩から発見されたのではないのかと。
だとしたら、これは素晴らしいことだと私は思います。それは釈迦の洞察に達していると云っても言い過ぎではないように私には思えるのです。
言葉を捨てる時が来ているのかもしれません。
言葉を捨てて「自分が存在する」その本来の自分を解放する喜びを味わう時が来ているのではないでしょうか。
言葉はどんなものであれすべて、その言葉を越えられない者にとって、それは心の牢獄となります。トラさんはそれを肌身で感じておられる。私にはそう思えてなりません。
心の成長が、言葉の身の丈を越えて大きくなっている。だから今こそ言葉を脱ぎ捨てて、言葉から自由になるときなのではないでしょうか。
もともと言葉のない命として存在していた私たちです。言葉を捨てても生きられますし、言葉に左右されず、逆に言葉を操る本来のあり方を必ず学び取ることが出来ます。
まさに中動態がそこにあるのだと私は思います。
共に歩みませんか?
『おっしゃることはわかります』の次に、私には具体的に言うべき事が思い付きそうにありません。
トラさまの意見に、否定も反対もないです。
面倒みきれないことをつつみ隠すのには、うってつけの言葉でしょう。
自立にしても、自己決定にしても、自己責任にしても、なんだかそれらの能力が自分に備わっているかのような勘違いを起こさせますね。
そういう意味では、責任を負うことは極めて限られた範囲でしかないと思うのです。
自分が自分としていられることを認めてくれる人達に対して負うべきでしょう。
それらの人達に応答し続けること、即ち、自分勝手な都合で、自死はできないということです。
「自分が(自ら)存在する」という事とは違った在り方でしょう。
えーと、今度こそ『責任、をどう考え、どう定義し、どう実行するか』というお話でしょうか?
社会的な意味合いで、責任云々を考えるのなら。
トラさまのおっしゃった内容で大きく外れていないでしょう。
個人に過重な責任を負わせるシステム、みたいなものがこの国の中で組み上がり、成長している不気味さを、おそらく誰もがある程度感じているでしょう。
自分が企業に入社した頃には、自己責任などという言葉を使う人はいませんでした。
責任に自己を付けて使い始めたのは、臓器移植という話題が新聞やマスコミに取り上げられた頃からだと記憶しています。
自己決定という言葉が出てきたすぐ後に、自己責任という言葉が使われ始めたことに間違いはないはずです。
私の中では自己責任という言葉はただの流行り言葉にすぎません。
それも極めて程度の悪いものです。
失敗したとしても、誰かに助けを求めることを躊躇させるような言葉です。
重ねて言いますが、仮に責任というものを自分に課すのであれば、それはあくまでも相手を設定して、相手の分まで負い続けることです。
相手に対して応答することを辞めないことです。
相手が困難な状況に陥っても決して見捨てず、
応答し続けることです。
極論を言えば、自分が存在する、という事とは
違った在り方をする事です。
シンプルで、すごーくストンと腑に落ちました。
ありがとうございます。
店仕舞いして、今日はもう寝ましょう。
また明日、新しく素敵な一日を過ごせますように☺。
なんだか昔のことを思い出しながら、お二人のやりとりを聴いておりました。
懐かしいなぁ です^ね^
もうそろそろ閉店の時間ですからね、議論はその辺にして、お互いに学びましょうよ。
学びというのは、互いの違いがあって初めて得られる成長の糧ですからね。違いを己の心に入れて咀嚼し養分を吸い上げるのが学びというものでしょう。
分かる、分からないの話しでは、基本私たちは男女関係なく分かり合えないのです。生まれて死ぬまで、孤独を生きなければなりませんね。分かり合えない者同士が話をするわけですから、分かり合えないのは当然です。
だから愛は貴重ですし、恋は自然に呼吸のように生まれ、喜びと喪失感の落差の中で傷つき、その傷さえ己の中で癒すしかないのですね。
私の観るところそれが人の定めのような気がいたします。
責任など、どこにも存在しません。一休さんの話に出てくる屏風の虎のようなものですね。
けれど責任という言葉を作りだした人間の必然はあるでしょう。己を生きなさいということですよね。
いずれにしましても、私たちはどうあがいても絶対孤独の自己から外に出ることは出来ない。私がそうならあなたもそうだし、彼も彼女もみな己という孤独の中で生きているのです。
そんな中で、陥りがちな過ちは、違いを悪のように感じて、相手を自分の考えに染めさせよう、あるいは理解してもらいたいと、そればかりを考えることなのです。
そこには学びはありません。独裁やおぞましい宗教のように、崇高なる孤独を脅かす道につながるのですね。
人間が救われる唯一の道は、違いを尊ぶことです。
違いこそ成長の糧であり、孤独を忘れさせてくれる仲間を生み出す契機なのです。
なぜならそこに学びがあるからです。己の小さな世界をひろげてくれる力がそこにあるのです。
私はこう思います。
自分は一生、小さな空間しか体験できないけれど、世界中の他人から違いを頂いて、ちっぽけな自分(己の取り分)を宇宙に及ぶ大きなものにすることが出来る。それが人間の智慧なんだと。
学びましょう。
お二人の議論がどれだけの学びをもたらすか。人間のもっとも美しい姿がそこに見える気がします^よ^
隣で将義君も笑ってますよ。
ええ、男心、わかりませんねえ。
今後共、ワクワクしながら探求してゆきたいですね~。
(やめんかばばあ、とお思いでしょうが)
でもティーンエイジャーじゃあるまいし、大人なら恋も自己責任で当然なのでは?
突っ込み損なったか!
なんでそんな話を、というのは、彼が彼女を探している明け方の街で、私は何の責任もなく生まれものだから、それでちょっと話をする気になったというわけです。
しかし、恋さえ自己責任って、なんだかなぁ〜
むっちゃんさん、男心わかってないでしょう。
まあしょうがないか、性格曲げてまで、気持ち抑えてまで付き合う気はない、ということでしょうから。
コーヒーおかわりお願いしまーす。
リクエストは真夜中のBoon Boonで!
失礼しました~。
責任がどーとかこーとかおっしゃっていたので、もっと形而上的な事かと。
確かに自己抑制が利かない部分ですね~恋心というのは。
でもその『自己抑制が利かない』とどう対峙するかは、自己責任の範疇でしょう。
受け入れるのも拒絶するのも、諦めるのも執着するのも。
あなたの自由。
あなたの責任。
必要なものは必要ですし、不必要なものは不必要。
その判断はあなたにしか出来ないのでは?
他人への責任云々はその次の話、では?
受け入れられないことに必要以上の罪悪感を持つ必要もないでしょうし、逆にこちらの気持ちが受け入れてもらえなかったとしても、恨む筋合いのものでもない。
お互いの気持ちがうまくいったら、その奇跡を素直に喜ぶ、と。
そんなものではありませんか?
うー、頑張ってみるよ~やれるだけ~
なんだかんだ言ってもー
単純に君の事 好きなんだ~
と、山崎さんも歌ってます。
パセリ、ですね🍀
マスター代理の事ではないのです。
むっちゃんさんと私は、もともと、何処吹く他人だから価値観は否めない。
育ってきた環境が違うから、好き嫌いは、否めない。
ましてや、男と女だからすれ違いはしょうがないにしても、恋に落ちるという事が自己抑制の効かない事だと思えるならば、自己責任などと言っていられないのではないでしょうか?
山崎さんの One more time One more chance のことについて、むっちゃんさんはどう思っていらっしゃるのかという事です。
論点、ずれてきていませんか?
私の理解が足りないのでしょうか?
理解が足りないのかもしれませんが、私はなんとなく違和感がありますね。
今までの話は(折師さまとのおしゃべりを含め)
責任、をどう考え、どう定義し、どう実行するかとかいう類いの話ではなく。
広い意味で、自分『が』どう生きるかまたは生きたいかという、人生のスタンスの話……なのでは?
私はそう思っておしゃべりしていました。
自分が自分として立つ、という話へ、他人への責任を混ぜて考え始めると何だかごちゃごちゃになりませんか?
それはおそらく、もっと後の話ではないでしょうか。
私はそんな気が致します。
すみません、お聞きになりたいことにちゃんと答えていないかもしれませんね。
雇われママの限界かもしれません、恐縮です。
他人に対して負うものでしょう。
もし負うなら、他人の分も負わないと責任にはならないのではないですか?
あなたがあなたの責任で決め、あなたの人生を作るのですから。
選んだすべてはあなたのもの。
そして選んだ限りはあなたの責任。
本意も不本意も引きくるめて。そうではありませんか?
話が硬くなりすぎましたでしょうか。
トラさまもマロウ、折師さまと一緒にお試しになられますか?
味より色彩を楽しむお茶ですけど🍏🍎。
選択にはならないでしょう。
なにせ、生まれてしまっているわけですから
選択のしようがない。
生まれて、喜ばれ、祝福され、寿がれる。
出逢って、喜ばれ、慕われ、想われる。
喜ばれたり、想われたり、大切にしてくれる、
それらの人達に対して、
応答する?しない?
という状態のことです。医学的にとか哲学的にとか言い出すと多分、話がややこしくなりますね。
単純です。
息をして、食べて飲んで寝て、悩んで(つまり自意識があって)、ここにいる状態の人間。
バクッとまとめると、まあそんな感じに想定してます。
わかりにくかったでしょうか?すみません。
とはいったいどういう意味でしょう?
何だか矛盾しているかもしれませんけど、すべてを自分で〆る、と、あんまり思いすぎると辛いですよ(笑)。
それこそ、自分の預かり知らぬ事、自分の責任の範囲外で、あらゆる物事は進むものです。
ただ、その不測の事態をどう受け入れるかは、自分で〆られる、部分でしょうねえ。
そうだ、ちょっと変わったハーブティー、お淹れしましょうか?
マロウ、というお茶です。
お茶というよりドライフラワーみたいでしょう?
お湯を注ぐと、珍しいことに鮮やかな青のお茶になります。
でもそこへレモンを入れると……。
どうぞお楽しみ下さいませ☺。
私が雇われママの時は、初めてのご来店ですね☺。
初めてのお客さまには店主こだわりのブレンドコーヒーをお出しすることが多いのですが、それでよろしいでしょうか?
そうですねえ、生まれてきたことそのものに責任があるかどうかは、正直な話、私にはわかりません。
人智を越えた先の問題、という印象があります。何故生き物は子を成すか?に通じる問題、かと。
ただ……今生きてここにいる、自分、には。
自分に責任があると思います。
責任に違和感をお感じになられるのなら、主体性、ではどうでしょうか。
誤解を恐れずあえて言うのなら。
この世や自分に絶望して、自ら命を絶つにせよ。
『命を絶つ』という決意そのものは、自分が下し自分の責任で決めたこと、でしょう。
周りにいる者が出来るのは、説得か懇願か、まあそんなところ。
彼ないし彼女でない限り、命を絶つ絶たないは決められないでしょうね。
あと、思うのですが。
責任を負わせる為に、子を生む親はまずいないでしょう。
仮にもし『生きる責任を負わせる為に、私は子を持つ!』と思って子を成す親がいたとしても、生まれた子供は親のそんな呪い?、結局無関係でしょう。
子供には子供の人生があるのです。
生まれたくなかった、こん畜生と思うのなら、自死を選ぶ自由もある、と。
しかし『生きる』を、消去法であるにせよ選んだのなら。
自分以外の何かのせいにしてぐじゅぐじゅ甘えてないで、自分で立って歩く、努力をしろ(まずは精神的に)。
今いる場所が嫌ならば、全力で(そして広い意味で)逃げる努力をしろ。
そんな感じですかねえ。
答えになっておりますか?
コーヒー、冷めてしまいました?
お代わりをお持ち致しましょう。
当店はブレンドコーヒー、お代わり自由なんですよ🍀。
…むっちゃん様、上手だな。本当にそう想います。そういう言葉が出てこない…見事!
”折師さまは十分、自分の人生を自分の責任で生きてらっしゃる”
…全然ですよ、具体的に言うなら不動の芯がまだ無い。…悩み惑い、自分の責任の下で全てを〆るレベルには…。(主に仕事)
改めて、努力の方向性が見えた木がします。「まず手元から。そこを固めて自信をつけて、自分以上の物を守れるようになってかた」…なかなか当たり前の事が未だに至らないのが汗
要努力、そういった意味で改めていい経験になりました、感謝!
生まれた子供に責任はあると思いますか?
責任を負わせる為に子供を産むのでしょうか?
面映ゆいですねえ。ちょっと偉そうでしたか?
言ってることそのものは、ン十年の人生の実感を元にした感慨ですが。
もちろん、自戒を込めて、の内容です🍀。
ホントそうですね。
男女関係と言っても、人と人との付き合い方の一つですものね。
男である前に、女である前に、しっかりと人でなければいけないということなのでしょうね。
私なんどは人畜無害で有名だっただけに、男ムンムン、女ムンムンって感じの人からは出来るだけ離れておりましたっけ。
「出来ない理由を百ならべる間に、何でも良いから出来る事をひとつ、やったらどうかと思いませんか?
部屋を片付ける、みたいなことでも良いでしょう。それがきっかけに風が動くものです。」
本当に素晴らしい言葉です^ね^
おはようございます☺。
いつもありがとうございます、まずは蜂蜜添えのホットミルクでもお持ち致しましょう。
お尋ねの件、難しいですねえ。
だって十人十色でしょうから、伴侶に何を求めるのかは。
ただ…そうですね。
みくちゃんが主人公に絶望したのは何故でしょう?
彼がぐじゅぐじゅしてるから?
仕事も何だか投げやりで、結婚する気もないままだらだら付き合ってるから?
ホントは絵を描きたいのに、才能ないからとか言っていじけてるから?
私が思うに、それは結果でしょう。
彼がぐじゅぐじゅだらだら、いじけてるのは。
彼が自分の人生を自分の責任で生きてないから、かと。
自分の人生を自分の責任で生きていない人は、男女に関わらず伴侶にするとシンドイ、私はそう思います。
そういう人は不満ばっかり抱えてて、でも自分で何かを変えようと努力しない。
そういう人は出来ない理由をいっぱい言います、でもやれそうなことは無視します。
出来ない理由を百ならべる間に、何でも良いから出来る事をひとつ、やったらどうかと思いませんか?
部屋を片付ける、みたいなことでも良いでしょう。それがきっかけに風が動くものです。
でもそういう人は不満や不運を他人のせいにし、優しそうなあるいは弱い立場の人に寄りかかり、揚げ句の果てはその支えてくれている人に当たる。甘えてるのでしょうが、幼児ではないのですよ、その人は。
そういう人とは楽しい人生、一緒に送りにくいでしょうねぇ。
お金持ちだろうとイケメンだろうと、私はそういう殿方と暮らすの、イヤです。つらいです。
答えになっておりますか?
折師さまは十分、自分の人生を自分の責任で生きてらっしゃる、私はそう感じております🍀。
そうそう、薔薇の折り紙ですが。
主人公はもっと簡単な、平面的なのを折った想定です〰。
佐藤ローズとか川崎ローズとかではなく、小学生でも頑張ったら折れる、そういうのです〰。
長々と失礼しました。
ミルクのおかわり、持ってきましょうか?
男の弱さ脆さ醜さを見て、"自分の反省の糧として"、…不甲斐無さを感じて(※私が単に弱いだけですが)
「女性目線で、伴侶に値する及第点…これなら認められるレベルとはどれくらいなんだろう?」と。
あ、軽くです、軽く。出来ないのはわかっているものの、興味です笑。呆れてノーコメントでもいいです。
いつもありがとうございます☺。
そちらもあたたかくなってきましたのでしょうか?
北国の春は一斉に花が咲くとか。
大合唱のように(手前味噌)。
さあ、歌って出しきりましょう❗
フィナーレまであとひとつ。
よろしくお付き合いいただけますれば幸甚でございます🎵
→ その昔、母に甘えていた頃、無性に悲しくて甘えたくてヤケッパチになった時を思い出しました。
>紙を触っているうちに何年ぶりかで指が、覚えている形を勝手に折り始めた
→ あわわ、折師さまだ ♪
> せめて『今までありがとう』、それだけは伝えたい。
→ 私もです。
大トリの全員での合唱、幸せの涙をきっと出し切ったのでしょうね ♪
みんな、優しいなぁ。
昨日の朝は一昨日の雨と強風が残っておりましたが。今日は上り坂の晴天で^す^
早朝のウオーキングは気分よく、私の腰も少しずつ安定してきました。筋トレが効いて背筋が伸びると、アトリエのお客様にも自然笑顔に^な^り^ま^す^
そして、 かわかみ れい さんの登場で^す^
引き続きお楽しみ下さいね。