トンチンカンで咲かないコスモスを育ててしまった話 に対して、
いろいろ慰めのコメントを頂きました。
そのお礼も込めて翌日、おかげさまで、私自身が成長した話し を書きました。
その記事に対して、昨日貴重なコメントを頂きました。
私の思い至らなかった点を教えていただいたのですが、これは皆さまと共に共有する価値のあるご意見だと思いましたので、抜粋して紹介したいと思います。
それは、(人生の素人)さんから、農学を学ばれた知識に基づいたこんなコメントです。(抜粋)
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「花をつけ、種子を結ぶ。新たな遺伝子の組み合わせを作ること”だけ”が生物の目的ではありません。実際に、危機を迎えるまで子孫を残さず、現状の繁栄を維持する生き物は多い。」
確かにこのコスモスたちは、「街灯の明かりで、花をつける可能性を失った」かもしれません。
でも、それは彼らにとって「それが有効だと感じたからの選択」です。
ずっと日が指しているなら
「ずっと昼の状態で生きて繁栄することが、今の最善の一手」
そう感じて彼らは、選択した…今まで幾度とない絶滅の危機を乗り越えた彼らの一手。
コスモスたちは、花をつけるチカラは失ったかもしれないけれど、「その環境で最善の選択をした。」
花を咲かせる、命の輝きともいえる営みが見れないのは悲しい事かもしれません。
ここからは妄想ですが(失礼を)
でも、今の彼らはいわば”長い夏を謳歌している”かもしれません。今こそこの光エネルギーを糧に勢力拡大の時だと。
もしかしたら、彼らは街灯の光エネルギーを糧に冬を真正面から乗り越える気かもしれません汗。
そして最近のあなた様のナウイズムを齧らせていただけるのならば
「彼らは”今の最善の選択”をした。」
あなた様の優しさも考えも素晴らしい。
その上で
「コスモスたちは、あくまで目の前の今から、生き方を自分たちで決めた。」
だから、ご自身を責めすぎないでください。こうした記事との出会いや、あなた様の反省も含めて本当に価値があると思っている方々が大勢いらっしゃるのですから
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自分を責めているわけではないのですが、私は作家としての、己の中にある未開花のつぼみのもどかしさを、コスモスに重ねてしまったのかもしれません。
慰めと励ましをありがとうございました。
ところで、私が皆様と共有したいと思うことは、
植物は、いかなる環境の中に置かれても、「その環境の中で最善の選択をしている。」ということを教えていただいたことです。
次郎物語の岩を割る松の話しもそうでしたが、自然の中にある植物はみな、そうやって、自分の置かれた運命を受け入れ、喜んでその運命から最善を選んで生きて行こうとしているのですね。
それが自然の力なのでしょう。
不自然な己の意識から見れば、花を咲かせないコスモスはさどかし己の運命を呪い悲しんでいると見る。
しかしその悲しみは、コスモスのものじゃない。
私自身が、勝手につくり出したもどかしさや悲しみだったわけですね。
そしてこれはとても重要な学習となりました。
私たちが心に生み出す苦しみや悲しみは、実はこれと全く同じなのですね。
自分に対する苦しみや悲しみは、
自分の中にある自然を、己の不自然な意識が勝手に辛いと思い込んだ結果だということを教えてくれているのです。
こうした気付きはとても難しいことですが、こうしてご意見を頂きながら心を見つめていますと、人はけっして一人ではないということを実感いたします。
どんな些細なことでも、心がつながれば、人としての新しい気付きが生まれる。私の気付きは皆さまの気付きとなり、互いの気付きは新たな気付きを生む。
コスモスがこんなことを教えてくれるなんて、
思いもよらないことでした。
ありがとうございます。
にんまり、
ホホホッ、
クスッ、
うわー^は^は^は^
笑いは何より健康のもと。
頭脳闊達のもと。
だじゃれ伯爵様、
よろしくお願いいたします。
二流の伯爵、だじゃれも同じく二流ですが、さっそくですが明日リンクをさせていただきます
よろしくお願いいたします