人は何処から来て何処に行くのか 空 (キャンバスに鉛筆 F10)
前回「気付き」のことについて書きました。
「気付き」とは心が成長する形で、それは階段のように登っていくというイメージでお伝えしました。
身体の成長のように、気付かないうちに少しづつ大きくなっていくというような成長とは根本的な違いがあったのです。
下の図は、心と身体の成長ラインをイメージした図です。
黒色で表した線が肉体が完成していくラインと考えてください。自分で気付かないほどゆるやかに切れ目なく成長していく。これは身体が素粒子の集合体だと考えれば十分納得できます。
赤色で表した階段状の成長線が心のラインです。心の成長の契機は気付きであるため、気付きが無ければいつまでも同じレベルで過ごすことになるのです。つまりこれが何を意味しているのかと言えば、心は0から積み上げて成長するというのではなく、すでに在るということです。気付く前からそれは在るということを意味しているのです。そうでなければ気付きはありえないでしょう。
前回そのことを「心は成長しない」という逆説的な言い方で紹介しましたが、これを私の体験を通じてもう少し具体的に書いてみたいと思います。
私が心の旅を始めたそもそもは、不完全な自分を感じたからでした。不完全と言うのは、常に使い切っていない不完全燃焼の自分を感じるということです。本当は出来るのに出来ないでいる自分を、少しでも出来るような自分になりたい。
これを心の成長と考えると、いつまでも成長しない自分に心が折れてしまうことがありますね。
しかし、いつまでも成長しない自分だけれど、それが気付きのために必要な準備期間だと考えれば、何とかそこを乗り越えて進むことが出来る。するといつか、ぱっと目の前が広がる時が来る。出来ないことが出来るようになっている。見えなかったものが見えるようになる。
この時、一気に階段を上るように成長する。これは成長と言うより気付きが起こったというべきなのですね。
この時、気付きが起こる直前まで、心は一つの固定観念に縛られたままなのです。そして気付きが、その固定観念を突き抜けて視界を広げる。これが心の成長の正体だと私は思うのです。
前回紹介した私の例で言えば、「空気を描く」という目的を達成しようと必死になっていた時のことです。私はデッサンを二次元の作業だという固定概念を持ち続けていました。デッサンという二次元の世界は、訓練して技術を磨くことで達成できるものと思いこんでいたのです。
二次元という固定観念と言うのは、究極写真と同じものを描くことでした。努力すればその写真のように描いた絵が自分の心を映しだしてくれると思い込んでいたのです。
しかし、努力を続けて徐々に技術は上がっても、それを心の成長とは呼べないのです。なぜなら、デッサンがどれだけ上達しても心は暗いままなのです。技術が上がればただ限りなく写真に近づくだけで、それは虚しいままでした。それは私の求めるものではなかったし、師はそれ以上に空気が描けていないことを教えてくれました。その薫陶が無ければ気付きを得る前に私は挫折していたかもしれません。
これが心の成長の実態なのです。
努力したからと言って成長するものではない。心は二次元の意識の中にとどまったままで、いつまでも「無明」の世界から出ることが出来ない。心が二次元だけが正しいと思い込んでいるのに、自分でその心に気付けないで、空間を描けない自分に悩むばかりでした。
この時の私の二次元思考を具体的に言えば、「画用紙に線を引く」これがデッサンだと考えていたのです。すると当然、コップの裏側は二次元の画用紙に線は引けませんね。二次元思考にとらわれ、デッサン帳に意識を集中している限り、私は立体のコップをその裏側まで描くというイメージを持つことが出来なかったのです。
「描けないものをどうして描くのか。」これはデッサンは紙に描くものという二次元思考に行き詰った私の叫びでした。
その時、私にとって奇跡が起こります。コップに蟻が這いあがってきたのです。
その時私はコップを何気なく、紙に描いたデッサンのように眺めていました。
最初、どうして足を滑らせないんだろうなどと、垂直に登っていく蟻の軌跡を目で追っていましたら、いつの間にか、その蟻が自分の描く鉛筆の先にように思えてきたのです。
蟻がコップを登り切り、縁を回り始めました。私の目にはデッサンが浮かんでいました。そこから先は描けない見えない部分。つまり蟻はデッサンの輪郭の上を歩いているのです。
「そこから先はいけないぞ」そんなことを考えたと思います。二次元思考の私のイメージでは、蟻はそこから先に進めないはずでした。しかし蟻はそこからなんの障害もなく先に進んだのです。蟻は丸みを帯びたコップの縁の丘を越えて向こう側に歩き始めたのです。
蟻の全身が丘を回り込むと、お尻だけになり、そのお尻が丘の向こうに消えて行きます。
今思えば、デッサンに対する私の二次元思考がその時砕け散ったのだと思います。
描線が引けないのではない。
私はその時、はじめて見えない部分に線を引いたのです。確かに間違いなく私は線を引いている。コップの向こうを歩く蟻がはっきり見えました。
もちろんその目は、肉眼ではない心の眼ということになります。
見えなくなった蟻の軌跡を心で追っている。これは今まで体験したことの無いイメージでした。
やがて蟻が向かいのコップの縁に姿を現したとき、私はデッサンとは心なのだと理解したのです。
見えない部分。それは二次元の紙には描けないけれど、見えない部分は心が描いて行く。
「これだったんだ!」心は自由に三次元を動けると気付いた瞬間、今までの二次元の思い込みがまるで牢獄だったように思えました。
この体験で思うことは、二次元であれ三次元であれ、それは心の気付きが作りだしている世界の見方なのだということでした。
私達が世界を観ていると思っているのは、実は心がつくり出した世界像なのだということです。それゆえ三次元という見方に気付いた瞬間、二次元で見ていた世界が消えてしまうのです。実際には色分けられた世界があるのではない。在るのは空ただ一つなのだと思えるのです。
その空を、心は様々な見方を収得して世界を思いえがいているのです。
デッサンを二次元と思い込んでいた私が居ても、三次元という見方に気付いた私が居ても、空に変りはありません。それはピラミッドを真上から見たら四角だが、横から見たら三角と言うのとほぼ同じでしょう。どんな見方をしたにしろ、真実本体は一つなのです。
しかしこの気付きによって、私はデッサンのイメージが大きく変わりました。心を使って二次元を乗り越えて、三次元の描線が引けるようになったということです。気付きによって世界の見方や感じ方が変わる。これが心の成長の意味と言えるでしょう。
この気付きはどこまで続いて行くのだろう。自然にそんな考えが浮かんできますね。
「色即是空」
これは心のあり方を表現した般若心経の言葉ですが、心は気付きによってその空の階段を上っていくのです。
私達は努力して空をつくり出す訳ではありません。そんなことはありえないことです。
出来るのは、いくつも階段を上りながら、自分は空=仏だったのだという気付きに向かうだけなのです。それが般若心経でいう涅槃ではないかと私は思うのです。悟りとはすなわち、最後の気付きであると言えるのです。
ではその気付きはどのような経過をたどって進んでいくのでしょうか。
二次元から三次元に気付いた私のデッサンもそうですが、私達は世界認識するために必要な次元の気付きを既に五つ持っています。下の①~④は子供時代に習得します。自分を取り巻く世界認識がこれで出来るのです。
⑤は物質の変化を意識して体験できるようになると受け入れの準備が出来ます。学校では時間認識が徹底的に教え込まれますね。①~⑤の気付きの次元が、私達の今を心に描きだしているのです。
① 0次元・・・点に対する気付き
② 1次元・・・線に対する気付き
③ 2次元・・・面に対する気付き
④ 3次元・・・立体に対する気付き
⑤ 4次元・・・時間(物資)に対する気付き
しかしその気付きはさらにもう一つの気付きを予言しているのです。第六番目の気付き、それが五次元なのです。
⑥ 5次元・・・スケール(空間)に対する気付き
物質に対する気付きがあるなら、必ず私達は空間に対する気付きを得ることが出来る。
5次元への気付きは、これまでの流れから考えても必ず起こると私には思えるのです。
次回この五次元について考えてみたいと思います。
般若心経と五次元はどうつながるのか
いよいよ最終章です。
(以下参考記事)
(現在連載中 私の体験)
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)14 私の体験2
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)13 私の体験
(量子力学を考える)
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)12 量子力学との合流4
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)11 量子力学との合流3
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)10 量子力学との合流2
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)9 量子力学との合流1
(般若心経をどう理解するか)
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)1
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)2
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)3
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)4
般若心経を読み解く? (五次元的解釈)5
般若心経を読み解く? 五次元的解釈)6
般若心経を読み解く? (五次元的解釈)7 一部加筆
般若心経を読み解く? (五次元的解釈)8 追補
(以下は数回分をまとめた長文です)
凡人の語る宇宙論(アインシュタイン讃歌E=mc2)1
凡人の語る宇宙論( アインシュタイン讃歌E=mc2)2
チトセ様、
私はここに書かれた一行の言葉が尊いと思います。清々しいで^す^。
もしどこかに、チトセ様の御心につながることや気になる何かがあればうれしいです。
御縁がありますように願っております。