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作品制作が華僑を迎え、一日アトリエに籠っておりました。
PCも触らず、コメントもいただいていましたのに、返信も出来ておりません。
そんな中で、皆様と共有して考えてみたいコメントを、紹介したいと思います。
それは、現代美術の悲報記事に対するもので、今の社会に対する危機感と言えばいいでしょうか、真剣に考えなければならない問題だと思うのです。
以下、いただいたコメントの抜粋です
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人の心に残る作品を作りたい身として、人そのものの命を刈り取る結果にやるせない気持ちを感じました。
「デジタル化が進んで、五感が鈍っている」
…自身も含め、そう感じています。
理科の実験で危険な薬品も使えませんし、火に触れる機会は減る一方(実家がIHでした…)
「実体経済よりも金融経済」…世界やその大元である自然への”実感”が薄れてしまった…
(人生の素人さん)
経験がなかった、ごめんなさいでは済みません。幼い命が犠牲になってしまったのです。
でも経験のないヒトに、何故想像出来なかったのか、と責めるのも虚しい。
我々は裸足で裸で、荒野では暮らせません。遠い祖先から見たら信じられないくらい、基本的なことを知らない子孫でしょう。
中高年世代から見たら若い世代は、原始人と現代人くらい、違うのでしょうか?
(むっちゃんさん)
白熱球が熱を持つことは知っていても現実には実感がなかった、そうゆうことですよね。
ただ私が不思議に思うのは、火が起きる前に焦げ臭い臭いはしなかったのかな?ということ。
燃えるときはたぶん一気だっただろうけれど、その前触れは必ずあったと思うのです。
(ゆーたさん)
こんな中で 白熱電灯を使うとは・・・
本当に 少し考えたら 誰でもわかることなのに
痛ましい事故でした
炎に包まれた少年の事考えると 胸が痛みます
(延岡の山歩人Kさん)
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皆様、ありがとうございます。
そして、共通して思うことは、いのちの大切さをに対する意識が、小さすぎるのではないかという気持ちですね。
知らなかった。は、ありうることですし、知る経験を積めばいい。
素人さんのコメントにあります、鈍った五感も、
むっちゃんさんの原始人と現代人も、
私たちに課せられた直接的な課題ですよね。
ゆーたさんのおっしゃっるように、実感がなかった。常識的に見ておが屑に白熱球は信じられない。
悲しいことです。
その上で、私の思う危機感は、人の命に対する想いの薄さです。
他人を思いやる心が厚ければ、知らなくても、考えるはずです。
そこで遊ぶ子供たちの姿を想像して、真っ先に安全を考えるのが普通でしょう。
学生たちにその考えがなかった。
ただ作品をつくる。自分の想いを表現することだけに心を奪われていた。その思想の根底にあるものが怖いのです。
学生一人のことを責めているのではありません。
己とは何かという思考。
己そのものであるいのちに対する造詣。
己の中にある原始に目を向けようとしない社会の中で必然的に生まれてきた若者の姿ではないのかという危惧です。
原始は今も、この肉体の中にあります。
胎児は母体の中で、原始を体験してきた。
火の中では黒こげになる。水の中では生きていけない。食事を与えなければ命はない。
全て原始です。
スマホ、IH、アスファルト・・・・・
原始からほど遠い環境にいる現代人が、どうしたらこの原始を第一に考える思想を手に入れることが出来るのでしょうか。
私が切に思うことは、四次元思考から五次元思考への気付きの必要性です。
五次元思考は、人間の原始を認識する思考なのです。
今を意識するということは、
己の原始を知ることであり、
己と同じ人間を深く理解し、日常の意識の中で、その人々と共にあることなのですね。
それどれの立ち位置で、
ナウイズムを考えていきません^か^
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