熊本県文化協会名誉会長の吉丸良治さんが刊行された「花畑屋敷四百年と参勤交代」を読んでいて、一つ気付いたことがあった。細川家13代当主細川韶邦公の参勤交代の様子を描いた「御入国御行列之図」が掲載されているが、京町の新堀にさし掛かった御銀櫃を運ぶ山鹿屋の人足が描かれた部分に朱文字で「新堀鳥町入口」と書き込まれている。さらに欄外の注釈に、「新堀鳥町入口」の「鳥」の部分に(ママ)とルビがふってあるのだ。この(ママ)というのは「原文のママ」という意味で、古文書などを引用する時、原文に使われている文字が正しいのかどうか若干の疑義がある場合などに表示されるものだ。つまり、「鳥」という字が本当に正しいのかどうか、著者は疑問を抱いていることになる。
これについては、6年ほど前に僕も調べたことがある。実は江戸時代の古地図に京町を通る豊前街道の西側に平行した通りを「鳥町」と書かれたものがある。これについては熊本市歴史文書資料室にも調べていただいたが間違いないとのことだった。まさにここは鳥町への入口なのである。ちなみに、鳥町のもう一つ西側の通りを「裏鳥町」と呼んでいたこともわかった。僕らの小さい頃は、この一帯を裏京町と称していた。行列図によれば、この「新堀鳥町入口」の辺りで藤崎宮や祇園宮(北岡神社)の神職者や僧侶たちが出迎えるのが慣わしとなっていたのだろう。御行列はこの「新堀鳥町入口」を右に見ながら左折し、いよいよ目の前に熊本城の新堀御門が見えてくるのである。
御銀櫃を担いだ山鹿屋の人足たち。8人がかりだが、おそらく中身はもう軽かったのでは。
神職者や僧侶らが居並び御行列を待つ
これについては、6年ほど前に僕も調べたことがある。実は江戸時代の古地図に京町を通る豊前街道の西側に平行した通りを「鳥町」と書かれたものがある。これについては熊本市歴史文書資料室にも調べていただいたが間違いないとのことだった。まさにここは鳥町への入口なのである。ちなみに、鳥町のもう一つ西側の通りを「裏鳥町」と呼んでいたこともわかった。僕らの小さい頃は、この一帯を裏京町と称していた。行列図によれば、この「新堀鳥町入口」の辺りで藤崎宮や祇園宮(北岡神社)の神職者や僧侶たちが出迎えるのが慣わしとなっていたのだろう。御行列はこの「新堀鳥町入口」を右に見ながら左折し、いよいよ目の前に熊本城の新堀御門が見えてくるのである。
御銀櫃を担いだ山鹿屋の人足たち。8人がかりだが、おそらく中身はもう軽かったのでは。
神職者や僧侶らが居並び御行列を待つ