今日は玉名市大浜町の母の生家へ行った帰り、河内川沿いの道(県道101号)を通って山越えした。途中の天ヶ庄には鮎帰の滝があり、鮎帰橋のそばに「だいら水車」と呼ばれる水車がポツンと1基。昔は河内川沿いに80基ほどの水車があり、米や雑穀をつく動力としていたらしい。このあたりの地区を平(だいら)地区と呼ぶ。南北朝時代にはこの辺りを菊池氏の家来、天乃氏が治めていたので「天ヶ庄」と呼んでいたという。この地区には古くから子守歌が歌い継がれていて「天ヶ庄の子守歌」と呼んでいた。天乃氏が菊池家の幼君を預かっていた頃の名残りだという。今日では歌う人もなく、歌詞の一部が残るのみでメロディは失われている。歌詞の内容を読むと、昔はこの辺りまで船がのぼって来ていたようだ。「天ヶ庄の子守歌」と同じく、天ヶ庄で歌われていたという古謡が、檜垣媼と関連性があるという。それが下の「あの山に」と「山寺に」の二曲。「新熊本市史」の「民俗・文化財」編に紹介されており、明治から昭和にかけて活躍した熊本出身の文学者・狩野直喜博士によると「庵の燈の光り」の部分は庵主である歌人檜垣のことであるという。なお、この「あの山に」と「山寺に」は「エントコ節」として今日も歌われている。
県道を熊本へ向かってもう少し進むと、歌枕として知られる「鼓ヶ滝」がある。その先を右折して橋を渡ると檜垣嫗や宮本武蔵の伝説が残る岩戸観音の霊厳洞へと登る山道である。鼓ヶ滝を見降ろしてひと休みしながら、平安時代の女流歌人、檜垣が詠んだとも伝えられる歌を思い出した。
音にきくつゝみか瀧をうちみれは たゝ山川のなるにそ有ける
「檜垣嫗集」に載せられたこの歌は、実は肥後國司でもあった清原元輔がこの地を訪れた時、一人の法師がこの滝を見て詠んだとして「拾遺和歌集」にも掲載されているが真相はわからない。能に「鼓の滝」を主題とした「鼓滝」という作品があり、世阿弥作とも言われるが、摂津国有馬が舞台となっている。その中に古歌として「津の国の鼓の滝をうちみればただ山川のなるにぞありける」という歌が登場し、和歌にも詠まれた名所だという設定になっているが、この歌の元となったのは、「拾遺和歌集」などにも収録されている肥後国の鼓ヶ滝を詠んだ前述の歌と言われている。つまり平安時代に肥後の名所だった鼓ヶ滝を詠んだ歌を借りて、中世に有名な温泉場だった有馬に舞台を置き換えたものだそうだ。
今日は時間も遅かったので岩戸観音の方へは登らず、直進して「峠の茶屋」近くの「大将陣の棚田」を眺めてから帰路についた。
鮎帰の滝
だいら水車
鼓ヶ滝
大将陣の棚田
県道を熊本へ向かってもう少し進むと、歌枕として知られる「鼓ヶ滝」がある。その先を右折して橋を渡ると檜垣嫗や宮本武蔵の伝説が残る岩戸観音の霊厳洞へと登る山道である。鼓ヶ滝を見降ろしてひと休みしながら、平安時代の女流歌人、檜垣が詠んだとも伝えられる歌を思い出した。
音にきくつゝみか瀧をうちみれは たゝ山川のなるにそ有ける
「檜垣嫗集」に載せられたこの歌は、実は肥後國司でもあった清原元輔がこの地を訪れた時、一人の法師がこの滝を見て詠んだとして「拾遺和歌集」にも掲載されているが真相はわからない。能に「鼓の滝」を主題とした「鼓滝」という作品があり、世阿弥作とも言われるが、摂津国有馬が舞台となっている。その中に古歌として「津の国の鼓の滝をうちみればただ山川のなるにぞありける」という歌が登場し、和歌にも詠まれた名所だという設定になっているが、この歌の元となったのは、「拾遺和歌集」などにも収録されている肥後国の鼓ヶ滝を詠んだ前述の歌と言われている。つまり平安時代に肥後の名所だった鼓ヶ滝を詠んだ歌を借りて、中世に有名な温泉場だった有馬に舞台を置き換えたものだそうだ。
今日は時間も遅かったので岩戸観音の方へは登らず、直進して「峠の茶屋」近くの「大将陣の棚田」を眺めてから帰路についた。
鮎帰の滝
だいら水車
鼓ヶ滝
大将陣の棚田
あらためて地図を見ると天ヶ庄と岩戸観音の直線距離は驚くほど近い