今日は5、6年ぶりに高瀬裏川の花しょうぶを見に行った。玉名市には二度在勤し、二度目には在住もした。合わせて9年ほどだ。最初の勤務は昭和46年(1971)だからもう51年前になる。裏川沿いの、かつて米問屋だった町家を工場立上げ要員の仮住まいとして借りた。辺りの風景はあの当時とは随分変わった。51年も経てば変わるのも当然だ。
操業開始を目前に控えた昭和46年の3月下旬、集中豪雨に見舞われた。その豪雨は完成間近の新工場にとんでもない事故をもたらした。重油タンクの送油機構がダメージを受け、重油を大量に菊池川に流出させたのだった。事故発生が夕方ですぐに暗くなり、被害状況を確認できなかったが、川にオイルフェンスを張るなどの応急処置が行われた。翌朝になって唖然。流出口から菊池川河口付近まで約4㎞にわたり、両岸とも真っ黒い重油でベッタリと覆い尽くされていた。操業開始を延期し、社員総出で中和剤を使っての河岸清掃の日々が始まった。総務課の新人だった僕は川で清掃作業する社員たちの弁当準備に走った。まだ弁当専門店もなかった当時、100名分を超える弁当は仕出し屋など1店舗では賄えず、数軒を回った。河岸清掃が一段落すると今度は被害者である漁業団体との補償交渉が始まった。中でも深刻だったのは養鰻組合。シラスが壊滅的な被害を受けていた。養鰻組合からの要求は金銭補償に加え、シラスの現物補償。総務課長と僕はシラスの買い付けに仲買業者を走り回った。その車の中で、自分はいったい何をやっているんだろうと思ったものだ。満開も近い花しょうぶを見ながらそんな昔のことを思い出していた。
FUSAさまの記事から 20年以上前になるロシアタンカー沈没
重油流出事故があったことを思い出しました。
ちょうどその頃 福井でボタンエビを食べて 東尋坊を観光するというツアーに
行きましたが 三国町では松林の中にテントを張り ボランティアの人たちが
寝泊まりし 人海戦術で重油を回収しており バスの中で騒いでいたメンバーも黙りました。
船は今も 沈んだままと聞きました。
油はやっかいですね。補償などで大金が要ったでしょう 若い頃に貴重な
経験をされましたね。
FUSAさま 今日は私の不注意で 本当に申し訳ないことをしました。
今後気をつけます お許しください。
>その豪雨は完成間近の新工場にとんでもない事故をもたらした。
これって自然災害ですよね。
国、県、地方自治体等の金銭的援助はなかったんですか?
>清掃作業する社員たちの弁当準備に走った。・・・100名分を超える弁当は仕出し屋など・・・数軒を回った。
大変ですね!!!
私も勤務している会社の重機が送油菅を破っての徹夜作業。寿司屋を走りまわりましたが、作業している人の口に二つ入るくらい。桁が違います。
漁業団体との補償交渉からシラスの現物補償ですか~。
いやいや「自分はいったい何をやっているんだろう」何だか分かる気がします。
私も実に似通ったことを随分やりましたから・・・。
有難うございました。
ロシアタンカー沈没重油流出事故!ありましたね~
重油流出事故のニュースを見聞きすると必ず新人の頃の事故を思い出します。
東尋坊も三国町も行ったことがありますが、そんなことになっていたんですね。
弊方の事故は結局、タンク製造元の責任となったようです。補償問題は弁護士さんにお任せになっていましたので詳しくは聞いていません。
「私の不注意・・・」とは何のことでしょう?何かありましたか?
豪雨は自然災害ですが、雨でタンクが壊れるなどということは想定外で、設計が甘すぎるということになったのだろうと思います。補償の大部分をタンク製造会社が負担したようです。
その時は「なんで僕がこんなことを・・・」と思っていたんですが、総務部門に長くいますといろんなことを経験しましたね。ある時は探偵、またある時は取り立て屋みたいなこともありました(笑)