縄文人(見習い)の糸魚川発!

ヒスイの故郷、糸魚川のヒスイ職人が、縄文・整体・自然農法をライフワークに情報発信!

勾玉は祈りのカタチ・・・高砂貝塚出土の親子の遺骨に副葬された胎児形勾玉

2023年10月24日 06時58分49秒 | ヒスイ
洞爺湖町の高砂貝塚から出土した人骨は、妊娠痕のある成年女性の遺骨で、40週目の胎児の骨を抱くような状態で出土しており、出産時に母子ともども亡くなった方と推測されている。
(写真の骨はレプリカで実物は札幌医大で保管)
 
遺骨の上には大量のベンガラ(酸化第二鉄由来の赤い顔料)が撒かれ、腰の所にヒスイ勾玉が副葬されていたので、かなり特別な女性であったようだ。長期間にわたり冷たい水が耳にはいってできる外耳道骨腫の痕跡もあるそうなので、海女さんのリーダーであったものか?
わたしの目をひいたのが勾玉のカタチと色である。額部と腹部に4つの刻みがあり、いかにも胎児っぽい。
 
そして色は縄文時代には珍しい深緑系のヒスイで、弥生時代中期の北部九州で出土するロウカン質のヒスイ勾玉に近い。
 
この特異な勾玉とそっくりなのが、新潟県村上市の元屋敷遺跡出土の連珠になった勾玉で、深緑系のヒスイ勾玉は東北地方でみたことはないことも、北海道と元屋敷遺跡の密接な関係を感じる理由のひとつだ。ただし元屋敷遺跡は後期で高砂貝塚は晩期。最大で1,000年の時代差があるので、ここは慎重にw。
元屋敷遺跡出土の連珠。下段からふたつ目、右から2点目の勾玉に似ている。全体的に白っぽいのは、原石に熱を加えて割り易くした痕跡か?
 
勾玉は切ない人の想いを託した依り代、祈りのカタチ。お気軽なアクセサリーなんかじゃなかった。
 
ヒスイ職人として忘れちゃならないこと。
 
 
 

学芸員さんは得意顔?・・・十日町市博物館企画展「縄文とヒスイ展」

2023年09月06日 07時32分58秒 | ヒスイ
十日町市立博物館の企画展「縄文とヒスイ展」で、担当された学芸員さんの着眼点に敬服。面白かった。
 
ヒスイ探偵のわたしとしては、加工途中の未成品に興味津々。
信濃川中流域の遺跡から出土した、穿孔途中のヒスイ大珠の未成品の二点が展示されており、管錐(カンスイ・パイプ状の錐)で穿孔した時にできる凸(ヘソ)がなく、お椀状の窪みから中実の棒を回転穿孔したことが看て取れるではないか!
長岡市の岩野原遺跡の大珠未成品・・・孔の底にヘソがなくお椀状の窪みになっている
 
しかも長岡の西野原遺跡の大珠は、断面が三角形という特殊な形状ゆえなのか、最初の段階から両側穿孔していることにも刮目。
縄文時代の穿孔具は管錐!、両側穿孔は片方を半分以上あけてから反対側から貫通させる!は固定観念だった。
 
上記二点は火焔型土器文化圏の中心地域からの出土品。
 
対して糸魚川の遺跡からは管錐穿孔の痕跡のある未成品が出土していて片側穿孔なので、はやくも中期には新潟県内の加工法に地域差があり、必ずしも糸魚川の技術が伝播したとはいえない証拠になるのではないか?
 
勾玉にも面白いのがあった。
三条市の経塚山遺跡の勾玉の背部に縦方向の孔があけられた緒締型だ。冠などに差して飾ったとの説もあるが、新潟県内からも出土していたとは思わなんだ。
 
他にも中央部がエンタシス状に膨らんだ、ヒスイ製の管玉というか細長いナツメ玉もあった。管玉といえば敲打やチッピングで成形できるメノウ系か、柔らかい石材とばかり思っていたが、はじめてヒスイ製をみた。
 
おそらく原石を割った時にできた破片を根気よく研磨してつくったのではないだろうか。ド根性管玉!
 
数あるヒスイ出土品の中から、企画展のたびに紹介される有名な出土品に目もくれず、マニアックな興味をそそる出土品を集めた担当学芸員さんの得意顔が見えるようだ。友達になりたいw
 
 
 

無秩序な化石探しに物申す!・・・「石のまち糸魚川」が生んだ問題

2023年06月09日 07時35分06秒 | ヒスイ
糸魚川の海岸で化石を探すのだと、ハンマーで石を割っている人がたまにいる。長野の人が多いようだ。
安山岩や花崗岩、蛇紋岩といった変成岩を割っても化石がでることはないし、破片が飛び散ったり、鋭い角ができる危険な行為ですヨと注意してはいるが・・・。
 
「石のまち糸魚川」人気が独り歩きしているのだが、所有欲を満たすためにモノを破壊することに心の痛みを感じない感受性に憤りを感じるし、これは立派な環境破壊だ。
 
モノの希少価値に焦点を当てたPRも考えなおして欲しいもので、観光客に「糸魚川でヒスイや化石をタダでゲット!」と認識されては片手落ちだ。だからこそモノからモノガタリへ!その点、ロックバランシングはいい。
 
あれしちゃ駄目、これしちゃ駄目と、野暮な注意看板が海岸に並ぶ日が来るかも知れない。
 
数年前にフォッサマグナミュージアムの受付で注意喚起してください割られた石をもって行ったことがあったが、何も動きはなかった。
 
長野のローカル新聞やテレビで問題提起してもらうのが効果があるのではないだろうか?動いてみっか。
 
 
 

ちいさなヒスイの物語

2023年05月12日 07時43分20秒 | ヒスイ
足元にキラリと光るモノ・・・ヒスイ!
小滝川上流の土倉のヒスイっぽい。忘れさられていたヒスイが戦前に再発見されたのが土倉だ。
 
渓谷に露頭して日にあぶられ雪に凍みらされ、川に落ちて砕かれ、海に流れ出て磨かれつづけて漂着したヒスイの物語に、どれだけの歳月がかかっているのだろう。
 
わたしに拾われてから始まるのが「ヒトとヒスイの物語」だが、ガラス瓶にいれて工房に飾って来客に自慢するだろうな。
軽々しくゲットしたとか、上から目線っぽいヒスイハンターなんて言葉は、わたしは使わないヨ。
 
 
 

国際大会でゴミ拾いパフォーマンスをする日本人の本音?・・・ヒスイ海岸にすてられた石

2023年04月03日 06時57分15秒 | ヒスイ
ヒスイ拾いにきて、不要な石をわざわざ駐車場までもってきて捨てていく料簡が理解できない。
須沢海浜公園の駐車場
 
釣り人やバーベキューをしていた人がいた跡には、ビニールゴミやタバコの吸い殻。
 
侍ジャパンのベンチにゴミが落ちていないとか、国際大会で日本人サポーターがゴミを拾っていくことに世界が賞賛と、webニュースによく紹介されるが、人の見てないところではどうなのか?
 
人の目、特に海外からの目を気にして、公徳心ある国民を演じているような気もする。
 
誰も見てないところでもゴミを捨てない日本人ばかりなら、海や山もゴミだらけにならないし、歩道に面した我が家の植え込みにマスクやプラゴミを捨てられることもない。
 
 
 
 

善意のバトンタッチ・・・台湾の勾玉好き女子

2023年03月30日 07時00分51秒 | ヒスイ
台湾の勾玉好きの女性が工房をみたいと訪ねてきた。
彼女がオークションで買ったコレクションの丁子頭勾玉は、古墳前期の本物っぽく、参考写真を撮らせてもらう。
彼女が意匠した丸玉はネフライトとミャンマーヒスイのようだ。
丁子頭勾玉の刻みをじっくり観察する絶好の機会!近畿でつくられた勾玉ではないだろうか?
 
アニメで覚えたという日本語は今時の若者の話し言葉風だが、単語のボキャブラリーがないのでスマホ翻訳で補って会話。
中国語のパソコンやスマホのキーボードをみせてもらうと、これが漢字?と首を傾げてしまう。漢字を省略した簡体字や本字の繁体字の辺や冠なので、文字どおりの珍紛漢紛(ちんぷんかんぷん)。彼女は文革をうけていない台湾人なので、昔ながらの繁体字ですな。
 
開高健のベトナム小説やエッセイに中国人と筆談する場面がよくでてくるので、はじめて中国に行った時は筆談ができるではないかと楽観していたが、いざやってみると簡体字が読めないのと、自分が漢字は読めても書けない男だということに気付いて愕然としたことがある(笑)
 
女性はヒスイ峡に行きたいと言っていたが、五月連休までは積雪で閉鎖されているので、小滝川の前でヒスイ販売をしている仕事仲間に連絡したら、小滝駅まで迎えにいって面倒をみてくるとのありがたい申し出。
女性を糸魚川駅まで送ってヒスイ探訪旅の水先案内役をバトンタッチした。
 
インバウンドの成否はシステムにあらず、マンパワーが肝要ですな。仕事仲間には世話好きが多いから助かる。
 
 
 

国際ロック・バランシング大会を糸魚川で!・・・地元にお金が落ちずヒスイだけが無くなる現状

2023年03月21日 07時51分55秒 | ヒスイ
ヒスイ拾いにきて石を積みあげて帰る人は多いけど、夕方の海岸にたくさんあると賽の河原みたいで不気味だった(笑)
しかし最近はSNSで紹介された海外のロック・バランシングの影響か、アート作品の雰囲気になってきている。
 
観光行政で「石のまち糸魚川」を謳うなら、学習プログラムだけでなくロック・バランシング大会をしてはどうだろうか?
 
これならモノはなくならず金もかからず、老若男女問わず参加できるし、白馬には外国人もたくさんいるから国際大会になるかも。
 
ヒスイの魅力を「一攫千金、お宝ゲット!」とだけクローズアップされては、枯渇に拍車がかかるばかりだし、現状は日帰りで石拾いして帰る観光客ばかりだから対費用効果はいかがなものか?遊びの要素、これ大事。
 
 
 

ヒスイ・勾玉の入門書・・・たかしよいち著「みどりの玉のひみつ」

2023年03月01日 07時07分16秒 | ヒスイ
私がはじめて読んだ考古学の本が、小学1年の時に買ってもらった、たかしよいち著「まぼろしの日本原人」で、同じシリーズのヒスイ編が図書館にあったので、読んでみたら児童書でも深い内容で面白かった。
ヒスイに興味をもった10歳の少年が、父親とおじさんに連れられて山陰から北陸の遺跡を探訪するストーリー。
 
たかしさんは児童文学者だけれど、考古学者から異論がでないであろう充実した内容になっていて、かなりな資料を読み込み、じっさいに現地調査をして、学芸員に質問して書いたであろうことがリアルに伝わってきて、誠実な人柄がうかがえる。
このあたりは「ニューアカデミズなスピリチュアルおじさん」の紀行文とは大違い。
 
表紙絵は富山の朝日貝塚出土の国内最大級のヒスイ大珠が、豊漁の祭祀につかわれていたのでは?という主人公の少年の空想を絵にしたものであるらしい。場所は「大境洞窟住居跡」かな?氷見市立博物館のH学芸員に本書を教えたら、Hさんが小学生の40年も前の本だからご存知なかったのは無理もない。
 
ヒスイの謎をめぐる旅のゴールが糸魚川。寺地遺跡と長者ヶ原遺跡、ヒスイ峡と天津神社まででてくるが、古事記に記述のあるヌナカワ姫と八千鉾神との「古代のラブロマンス」について、少年のおじさんが「出雲が武力で、この土地の女豪族を征服したと考えられんかな?」と鋭い考察をしているのは、おそらく当時の教育委員長(?)の青木重孝先生にも会っているのだろう。
 
ヒスイや勾玉に関する怪しげな情報が多いが、ニュートラルな情報を得たければ、本書は入門書に最適だ。
たとえば「縄文時代の糸魚川はヒスイ貿易により莫大な財を成していた」と書かれた書籍が図書館にあって、縄文時代に貿易とは貨幣経済社会だったの?莫大な財ってなに?とツッコミどころ満載なのだが、疑問も持たずに信じ込んでいる市民がいるのだ。
 
昨年の春に解散したヒスイ商組合のホームページの冒頭にも、「神代の時代、糸魚川の人々は各地にヒスイを配っていた」と恥ずかしい文章が載っていた。えっ、どこが恥ずかしいかって?
神代の時代は神様が治めていた時代という意味だから、その後に時代は不要で書くなら神代の昔。駅前のテッシュじゃあるまいにヒスイを配っていたは日本語として稚拙すぎるでしょ?
 
最近はみなくなったけど、「出雲と奴奈川は連合国家を樹立して、北陸から山形まで支配していた」とする誇大な宣伝文句もありましたなぁ。
「おらが街の自慢」をするのはけっこうだけど、ここまで公言してしまうと戦前の大本営発表とおなじ歴史修正主義だよ。
 
 
 
 
 

邪馬台国の勾玉の謎・・・勾玉探偵

2023年02月26日 08時26分12秒 | ヒスイ
勾玉探偵のおどろき!
佐賀県埋蔵文化財センターに勾玉のことを問合せたら、邪馬台国の拠点?と取り沙汰される「吉野ケ里遺跡」から、たった1点の勾玉しか出土していないと聞いて驚いた。
どんな勾玉か知りたければ、誰でも無料使用できる画像サービスがあると教えられたのがこの写真。
 
①石針で片側穿孔している②良質なヒスイ③頭部に一条の刻みがある特徴は、縄文勾玉の系譜にある弥生前期の北部九州の勾玉のようだ。時期的には納得できる勾玉であるものの、邪馬台国の拠点であったなら、もっと沢山の勾玉が出土してもよさそう。
 
そこで「最初は吉野ケ里遺跡にあったが畿内に遷都した説」に乗っかって、遷都でお宝も畿内に移した?という疑問が湧く。それならば畿内に類型の勾玉がたくさんあるはずで、奈良の橿原考古館に行って確認せねばならん。
 
「吉野ケ里遺跡は朝鮮交易の出先機関・畿内は行政庁説」にもこの図式が当てはまるりそうだけど、それにしても1点しか出土していないとはどういうこと?深掘りするほど謎がでてきますですなぁ。
 
 
 

古代の勾玉の加工地を推理する!・・・玉依比賣命神社に奉納された玉類

2023年01月10日 06時38分45秒 | ヒスイ
正月に「大勾玉展」の図録を読み込んだおかげで、朧気ながらも勾玉の編年(へんねん:時系列に加工地を整理すること)が掴めてきて、信州の玉依比賣命神社に奉納された勾玉の加工地が推測できるようになり、面白いことになってきた。
右の箱に納められた瑪瑙の勾玉は、山陰系の古墳時代後期の特徴を持っている
ヒスイの勾玉は左端上の緑色の定形勾玉は北部九州系の弥生時代の伝世品、他は北陸東部系の古墳時代前期~中期のものが多いようだ。
 
これらが持ち運び込まれたルートは、糸魚川の姫川ルートは多少もあったにしても、上越市の関川から斐太遺跡群を経て、信州の広大なハラで馬の放牧地を開拓していったグループによるものではないか?という私の仮説が濃厚になってきた。
玉依比賣命神社に奉納された玉類の大部分は、ちかくの「大室山古墳群」をくずして田畑にした時に出土したものが奉納されたもの。今ならオークションに出して金儲けする人もいるかもしれないが、昔の人はバチがあたると神社に奉納したのだ。
 
北九州のアズミ族がヌナカワ姫を頼り、姫川を遡って信州に入植したのが安曇野であるという説もあるが、それなら糸魚川地域に威信材や馬具が出土せず、古墳もないのは何故?という疑問が出てくるのは当然。
 
「ヌナカワ姫と大国主命の古代のラブロマンス」で宣伝されているような「コシとイズモの連合国家が北陸から山形まで支配していた」どころか、糸魚川地域は古墳時代の流れの圏外であったらしいことが伺えるのだ。
 
この点、少なくとも関川ルートの斐太遺跡群は、国内最大級の弥生時代の玉作遺跡と環濠集落、そして小さいながらも古墳群があるので、弥生中期から古墳時代にかけての時流の圏内であった蓋然性は高い。
 
関川ルートだけではなく、富山から飛騨を経て信州に至ったルート、天竜川ルートも忘れてはいけない。
 
わたしは律令制で整備された延喜古道(えんぎこどう)に注目していて、このルートは40キロを目安に驛(えき:馬屋)を配置した国道で、奈良時代に急にできた訳でもないだろうから、延喜古道沿いの古墳時代の遺跡を調べてみる価値はある。
 
出土品の特徴を時系列で加工地別に区分した編年は、考古学者の地道な研究の積み重ねの賜物。「大勾玉展」の関係者に感謝!