縄文人(見習い)の糸魚川発!

ヒスイの故郷、糸魚川のヒスイ職人が、縄文・整体・自然農法をライフワークに情報発信!

金と銀の問題・・・勾玉イヤリング

2023年01月31日 07時45分12秒 | ぬなかわヒスイ工房
軽量化のために80%サイズダウンしたイヤリング。
どうせならと、これまでのステンレスワイヤーから金色の銅線に変えてみたら、すぐ売れたではないか。
金色と銀色のワイヤーの好みは、「わたし金じゃないと駄目なひと!」「ここはスッキリと銀でしょ!」と一様ではない。
お客様の声は天の声・・・ワイヤーはお好みで変えます!と選択式を採用したワタシは「買ってくれるなら何でもいいヒト」( ´艸`)
 
 
 
 

 


脳内イメージはモヤモヤ、リアルはワクワク・・・高橋大輔著「ロビンソン・クルーソーを探して」

2023年01月30日 07時02分46秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画
脳内イメージを史実のように断定しているナンチャッテ探訪記「アースダイバー神社編」にモヤモヤしていたので、口直しに椎名誠さんの「十五少年漂流記への旅」を読んだ。椎名さんの一連の探訪記は、文献をきちんと読んでから現地を探訪をした感想を語るというものなので、臨場感があってワクワクする。同じ探訪記でもモヤモヤとワクワクの差は大きいよ(笑)
椎名さんは少年時代に読んだ「十五少年漂流記」「さまよえる湖」などの冒険物語や探検記の感動が、その後の人生に与えた影響を熱く語っている。少年の好奇心を持ち続ける椎名さんの探訪記は好きですねぇ。私も椎名さんに影響されて高校のころから仲間を集めてキャンプしてた。
 
 
「十五少年漂流記への旅」の中で。高橋大輔という探検家が「ロビンソン・クルーソー漂流記」のモデルになった実在の人物の調査をして、住居跡まで発見したと絶賛していたのが「ロビンソン・クルーソーを探して」で、糸魚川図書館で検索してもらったらあるではないか!
文章の歯切れのよさもあって一気に読みおえたが、これぞリアルな探訪記でワクワクしながら読めて読了感はすがすがしい。文庫本もあるので興味のある方はぜひ!
 
高橋さんは学生時代から神話や伝説の検証をするバックパッカーで、卒業後もサラリーマンをしながら文献を精読しては現地を探訪していたそうだ。
 
ロビンソンクルーソーのモデルは、私掠船(国家公認の海賊船)の航海長だったアレクサンダー・セルカーク。その研究資料は海外にもなく、高橋さんは有給休暇を利用しては海外の博物館や研究者などを訪れては断片的な資料を集め、置き去りにされた島を野宿しながら歩きまわって、推理小説のようにその人物像に肉薄していく。
 
中沢新一の「アースダイバー神社編」のように脳内イメージを史実のように書いているわけではなく、300年前の実在の人物を文献と現地踏査で徹底検証して浮び上った人物像だから、まるでセルカーグの息遣いや声が聴こえてくるようだ。
本書には6年がかりの個人的な探訪が書かれているが、この時点ではセルカーグの住居跡は見つけられなかったとある。
 
その後の高橋さんの足跡をネット検索したら、その研究成果が「ナショナルジオグラフィック」に掲載され評判となり、アメリカの探検協会の支援で探検隊を組織して、ついにセルカーグの住居跡を特定できたとのこと。つまり高橋さんはロビンソン・クルーソーに世界一詳しい男だ。
脱サラして探検家になった高橋さんの熱意と行動力もすごいが、なにごとにも誠実な人なのだろう。
 
本書にでてくる海外の研究者たちやセルカーグの子孫も、自分の知る限りではそれ以上のことは言えないといった慎重な態度を持つが、高橋さんの真摯さに協力を惜しまない。
民俗学者の宮本常一も、一時資料を読み込み、当事者インタビューをしながらも「・・・であるらしい」と、安易に断定せずに様々な可能性の含みをもたせてますナ。
 
 

我いまだ木鶏たりえず・・・ドキュメントロウカンヒスイの勾玉つくり

2023年01月28日 07時50分37秒 | ぬなかわヒスイ工房
同業者が秘蔵する一握りほどの不定形をしたロウカンヒスイの原石で勾玉つくりを託された。ロウカンヒスイは深緑色をした最高級のヒスイで、金をだしても買えるというものではないから私の世代の職人には垂涎の的。
ひと様から原石を託されたら重量と比重を測定した証拠写真を撮っておく(笑)
 
原石のいい部分を横取りする職人もいるとも聞くから信頼してもらっている訳で、同業者からロウカンを託されるのはたいへん名誉なこと。
よみとった節理の部分からつくったプレートは、全体の三分の一ほど。赤く墨出しした勾玉の上の部分で超小型の勾玉をつくった。
 
下手なカットをしてしまうと無駄な端材がでてしまうので、カットラインに確信がもてるまで観察を徹底するのはいつものことだが、ひと様の原石だから責任重大。ヒスイ加工の最初の工程の原石カットこそ、最も技量がためされるのではないだろうか。
完成した勾玉を写真撮影する際に14倍に拡大されるピント合わせをしていたら、石肌の内部にネフライト(軟玉ヒスイ)のような黒い粒々がみえたので、今一度比重測定
乾燥重量5・2g÷水に浮かべた重量1・57g=比重3・3なので硬玉ヒスイに間違いなく安心
 
 
石目の観察に丸一日かけて、慎重に墨出しとカットを繰り返して、縦24㎜の勾玉と11㎜の超小型勾玉が一個づつ完成。
普段よりズングリした勾玉になったのは、ロウカンの貴重さにビビッて慎重になり過ぎたためと思われ、残念ながら「勾玉の形をしたヒスイ」にとどまっている。
超小型の勾玉はオリジナル開発したシルバー製八の字環をセット。小さい勾玉をつくって「どうだ!まいったか!」とばかりに技術を誇る職人もいるけど、お客さんは市販のバチカンを自分で買って付けてちょうだいで終わるのは不親切というもの。それにバチカンだと挟んだA環部分が開いてしまったら勾玉を紛失する恐れもあるし、デザインがイマイチ。最初は丈夫なステンレスワイヤーで八の字環を作っていたが、高級感がでないから工夫に工夫を重ねて今の八の字環にたどりついた訳。
凛然とした存在感をもつ「ヒスイでつくった勾玉」にほど遠く、原石の価値を越えていないのは未熟な証しだ。修行が足りませんナ。
 
我いまだ木鶏たりえず!by戦前の大横綱の双葉山が、本場所69連勝で格下力士に敗れた時に恩師におくった電報文。
*蛇足ながら知らない人のために説明;勇む軍鶏はいまだ未熟で、本当に強い軍鶏は木像のように平常心を保っているという中国の故事
 
 
 
 
 

歴史修正主義にもの申す・・・中沢新一著「アースダイバー神社編」その2

2023年01月26日 08時27分51秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画

「アースダイバー神社編」がトンデモ本だと投稿したら、予想外の反響があり、さる研究紙から寄稿をとのお声がけ。

そこで資料集めとして、海にむかって現地を撮影したのが最初の写真。
中沢氏が「胎児の形をした渚の配石遺構」と書いている場所が中央に4本の短い柱が建っているところ。500m先にある海の手前に標高18mの海岸段丘がそびえており、ここが渚だろうか?
青い勾玉は、縄文晩期の胎児形勾玉モデルで、これを中沢氏は「生々しい生き物の形」と書いている・・・。
こちらは弥生中期の北部九州の定形勾玉モデルで、こっちをイズモでつくられた定形勾玉として、キティちゃんのようにかわいいと書いているが、縄文の胎児形と弥生の定形のどっちがキティちゃんだろう?これは個人の価値観によるが・・・。
そして下段右端が、間延びしたコの字をした古墳時代の山陰系の勾玉モデルで、こちらは玉類243点をつなげた「大首飾り」のなかの赤瑪瑙勾玉。前期の勾玉らしく丸みがあるが、中期以降は扁平で雑なつくりになるので、私は博物館からの注文でもなければつくらない。素材も赤メノウや青碧玉であってヒスイではない。
 
以上をみても、中沢氏が「アースダイバー神社編」で書いていることは、脳内イメージに都合よく史実を切り張りしてつくった夢物語だとわかってもらえるだろう。
 
誤解してほしくないのは、私は歴史解釈は自由でも歴史と個人の歴史観を混同してはいけない、と思っている。事実を歪曲した創作を史実のように書いては、歴史修正主義ではないか?
 
中沢氏がトンデモ説をひろめるスピリチュアルおじさんの類いであろうが、私の知ったことではない。ただアメリカ大統領選のあとに、「選挙が盗まれた」と大衆を扇動して国民に分断をつくったポピュリズム政治に似た危うさを感じるのだ。
 
あるいは戦前の八紘一宇を旗印にした侵略戦争を、アジア解放の聖戦であり、アメリカの陰謀でやむにやまれず始めた戦争だったとひろめる人々。そして戦時中に大本営発表を信じた人々。
 
こういった歴史修正主義の言説を真に受けていると、今が戦前になる危険が高まるのではないか?そのことを杞憂して、史実と違うぞ!と言っているのである。中沢氏の著作が面白いと思ったら自分で調べればいいのだ。その態度が戦前にならない訓練になるのだから。
 
 
*定形勾玉の写真は、丁子頭勾玉になっていますが、注文主の意向で後から定形勾玉の頭部に刻みをいれて丁子頭勾玉にした結果です。
 

トンデモ説の条件・・・中沢新一著「アースダイバー神社編」

2023年01月22日 07時24分03秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画
トンデモ説の多くには、①つごうのいい情報だけを切り張りする②情報を検証しない③独善的に断定するといった特徴があるように思う。
ヒスイ・縄文・ヌナカワ姫と、わたしのライフワークに関したことが載っているからと京都在住の先輩から贈られた「アース・ダイバー神社編」がまさしくこの条件を備えていた。
 
ヒスイ加工遺跡として知られる寺地遺跡の配石遺構を、渚に作られた胎児のインスタレーションと断定し、「コシの勾玉工人たちは、渚につくられた胎児の形の配石の中で、まいにちまいにち胎児の形をした勾玉を磨っていた」と、渚と胎児にこだわって紹介しているが・・・。
寺地遺跡の配石遺構が胎児の形にみえるとすると、相当に想像力のある人だろう。こちらの図版は後述する「縄文のメドゥーサ」より
 
寺地遺跡は海岸から500mも内陸だから渚とはいえないし、遺跡と海岸の間には標高20mはある海岸段丘が障壁となっているので海の気配など感じようもない扇状地の遺跡だ。それに寒冷期の縄文晩期の遺跡だから、渚は現在より100~200mは後退していたハズ。
 
ちなみに発掘報告書では、配石遺構からは焼けた人骨やサメの椎骨の他にヒスイ原石も出土してはいるが、出土状況からモノ送りの祭祀場と考えられ、ヒスイ加工位置は多数の剥片と砥石の出土と、工作ピットらしき遺構をもつ竪穴住居内と報告されているはずだ。
 
「史跡寺地遺跡」の配石遺構の平面図だけを引用されている寺村光晴先生は困惑するだろう。
 
配石遺構がなんの形に見えるかは個人の自由だが、自説のように書いている胎児とする論説は、昨年亡くなった図像学で縄文文化の解明にとりくんでいた田中基さんの「縄文のメドゥーサ」の丸パクリではないか。田中さんの了承を得ているのだろうか?
わたしは観念論は好まない実証主義者なので、図像学で縄文文化を読み解く田中さんの研究には敬意を示しても興味はなく、頂き物の「縄文のメドゥーサ」は申し訳ないが寺地遺跡のところしか読んでいない。現代人が縄文の図像を読み解いても、当の縄文人はなんて思うだろう?という想いがあって、読み進めることができないのだ。
 
発掘に関係した考古者が胎児に酷似していると感じたと書いているが、主観的な感想をいわず物的証拠を客観視するのが考古学だから、報告書には無論そんなことは書かれてはいない。考古学者の誰が胎児と感じたのか明記して欲しいものだ。
 
また著者は「縄文時代のコシの糸魚川でつくられた胎児形の勾玉が、弥生時代のイズモで定形勾玉となった」とも断定しているが、コシとイズモという文脈はネットで拾った「古代のラブロマンス」の類いに、整合性を無視して考古学の知見を切り張りしたのだろう。
 
定形勾玉は弥生時代中期の北部九州が産地とする蓋然性が最も高く、そもそもイズモで勾玉つくりが本格化するのは古墳時代からだし、ヒスイ加工も確認されていない。
定形勾玉の特徴は、ちいさめで球形をした頭部が頸部にえぐりこみ、円形にちかい胴部断面が尾部にむかってスマートになる形状。こちらの勾玉は大分県の天岩戸神社に奉納するという依頼主の希望で丁子頭勾玉にしてあるし、予算の関係で白地に緑模様のヒスイを使ったが、本物の北部九州の定形勾玉は深緑のロウカンヒスイが多い。
 
イズモの勾玉は山陰系と分類される、ひと目で定形勾玉との違いが見分けがつくコの字形をした独特のものだし、素材も碧玉・瑪瑙・水晶だから、あまりにもデタラメすぎる。
山陰系勾玉の典型が、間延びしたコの字をした赤瑪瑙や青碧玉製。こちらは「松阪市立松浦武四郎記念館」の依頼でつくった玉類243点を繋げた「大首飾り」複製品の赤瑪瑙勾玉のひとつ。古墳時代前期なら写真のように胴部断面が円形に近く丁寧に作ってあるが、中期以降は需要量が増えたためか粗製となり平べったくなる。
 
著者は大衆受けするなら、事実関係はどうでもいいと考えているのだろうか?ファンタジー小説ならいいのだが、紀行文のような体裁で考古学資料を虫食い・切り張りしてつくった論説を、史実のように断定してしまうのは歴史の捏造といえないのか?
 
宗教史と文化人類学の大学教授の肩書をもつベストセラー作家であっても、これでは巷にあふれるスピリチュアルおじさんたちのトンデモ説と同じではないか。
 
著者にとっては神話の神々すらも商売のネタとも感じる。神なるものへの畏れや対象物への誠実さもなく、先人の研究成果に敬意を払わず使い捨てにして創作した妄想世界の夢物語が「中沢学」なるもの、とわたしは感じた。
 
追記
Facebookに投稿したら、90年代にバックパッカー旅を書いてベストセラーとなった「ゴー・ゴー・インド」の著者で、旅行作家の蔵前仁一さんが同感!とシェアしてくれた。蔵前さんも最初の「アースダイバー」がベストセラーになった時に誇大妄想の書としてブログで批判したと教えてくれたので、興味ある方は下記ブログ「旅行人編集者のーと」をご一読のほどを
https://kuramae-jinichi.hatenablog.com/entry/20071103/1203074813?fbclid=IwAR1WbmzCo-ftBPaWrosXymm_ozDBWUGVZlMKkAkd4DNn7qNAWAJ4cVHjFKg
 
 
 
 

卑弥呼も身につけたかも?・・・ヒスイの不純物を風景として愛でる工夫

2023年01月19日 06時55分19秒 | ぬなかわヒスイ工房

一般的にヒスイに白っぽいフ(斑)が入っている部分は、不純物だから商品価値がないとカットされてしまう。


黄色っぽいマダラ模様がフ(斑)と呼ばれる部分。


しかしダイヤのような単結晶鉱物ならいざしらず、ヒスイは多結晶鉱物だから、様々な鉱物がまじった「ヒスイ輝石岩」として存在している。

そして生まれながらの判官びいきの私としては、不純物の部分も風景ととらえて使ってやりたくもなる。


透過光は星雲のよう。順光と逆光で表情がかわるヒスイの装身具を身につけた昔の人は、太陽に透かしてこの神秘的な風景を愉しんでいたのではないだろうか?と想像する。


それに出土品にもフが入っているものが多いので、出土品をモデルにした勾玉をつくると、本物ぽっい雰囲気になるのだ。

もちろん均一さや完全無欠さを求める人にはウケはよくないとは思う。
しかし、本物志向のあなた!北部九州の定形勾玉の特徴をモデルにした唯一無二の個性を持った勾玉です!卑弥呼もこんな勾玉をしていたに違いありません!と、商品価値をアピールする( ´艸`)


ちなみにCの字の向きにはフが入っていても、逆Cの字の向きは浅黄色だから、「アシュラ男爵勾玉」という謳い文句もアリ!


弥生時代中期に北部九州で生まれた定形勾玉の特徴は、全体にスマート・胴部断面が円形・球形状をした頭部が頸部に抉りこんでいるなど。

あるベストセラー作家が、「縄文時代にコシで生まれた胎児形の勾玉が、弥生時代にイズモで定形勾玉に生まれ変わった」と書いているが、まったくのデタラメ。

イズモで勾玉が作られるようになったのは古墳時代からだし、山陰系の勾玉は角ばったコの字をしていて、いわるゆ定形勾玉とは全然ちがう特徴を持っているし、そもそもイズモではヒスイ加工はしていない。

ベストセラー作家氏は、安直にネット検索して「ヌナカワ姫と八千鉾神の古代のラブロマンス」の類いを見つけて、考古学資料で検証しなっかたのだろう。学術図書を徹底的にしらべた松本清張とは大違いのお気軽さ。

いまや入手困難となった透明感ある黄緑系のヒスイ、フの部分も使わないともったいない。

#翡翠 #ヒスイ #勾玉 #ぬなかわヒスイ工房 #糸魚川


柳家小三治の「玉子かけ御飯」に思う・・・鳥インフルエンザで126万羽が殺処分

2023年01月17日 07時31分49秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画
新潟県で発生した鳥インフルエンザで、126万羽もの鶏が殺処分されたとの報道に心をいためる。
そこで柳家小三治が、卵が貴重品だった時代の哀切を噺のまくらで語って語り草となった「玉子かけ御飯」を読みたくなり、講談社文庫「ま・く・ら」をひっぱりだした。
噺に入るまえに日常から落語の世界に誘導しやすい短い小噺をふるのが本来の「まくら」だが、ネタをきめずに高座にあがる小三治の「まくら」は噺とは関係のない日常雑記が多く、お客さんの反応を見ながらネタを決める。
 
「むかしは玉子なんてぇものは金の宝石でしたよ。
なにかのはずみで1個だけ手に入るってぇとたいへんな喜びようでね、7人家族で平等にわけて食わないといけねぇから、玉子かけ御飯で食うしかねぇの。
どうするかってぇと、ドンブリ鉢に玉子を割ってから、まずお醤油で倍に増やします(笑)
 
どろんとしたゼリー状態だと均等に分けられないから、箸をつっこむてぇと、水みたくなるまでカッカッカッと情けも容赦もあるもんかってぇくれいにかき回すのよ。
 
そうですねぇ、20分くらいもかきまわしますってぇとねぇ、さしもの玉子もすっかり諦めて、水みてぇにサラサラになんのよ(笑)ひとりじゃくたびれっちまうから、家族7人で交代して20分!その様子を家族みんなで固唾を飲んで見守ってるのよ・・・」
 
だいたいこんな感じだ・・・玉子かけ御飯は立派なごちそうです!by小三治。
雑多なお客さんが来て、時間制限のある寄席の「まくら」は5分~10分程度がふつうだが、小三治のファンだけが集まる独演会では「まくら」が延々と20~1時間も続き、「こんなこと喋っているうちに、あたしの持ち時間は残り5分になっちゃいました!」と「まくら」だけで終わることもあり、小三治ファンはそれも楽しんでいた。話芸の達人、小三治の「まくら」の傑作をあつめて出版した「ま・く・ら」はベストセラーになった。
 
 
さてさて、わたしは1個の卵を家族でわけあった時代と、好きなだけ食える時代の卵は同じ味?同じ栄養?と愚考する。
 
「卵は物価の優等生」という言葉が、養鶏家を苦しめ、鶏の殺処分に至る事態の呪縛となっていないのか?
大量生産・大量販売・価格破壊の時代に、小三治の玉子かけ御飯のエピソードを再読すると色々と考えてしまう。これはヒスイ業界も同じ。
 

 


ヒトあればこそヒスイ・・・カップルで分け合う「better falf」勾玉

2023年01月13日 06時15分04秒 | ぬなかわヒスイ工房
仕事はじめにつくった作品は、厚目の勾玉を半分に割った「better falf」勾玉。
別々につくったペアでなく、ひとつを二つに割って作った勾玉をカップルで分け合うというコンセプトがミソで、夫婦そろって88歳を迎える両親の結婚記念日に、サプライズプレゼントしたい息子さんからのご注文だ。
親父の享年が88歳だったので、親孝行は生きているうち、と反省しきり。
 
ところが仕事はじめでつくった勾玉は、88歳の老夫妻の勾玉としてはカタチ・サイズ・色などがしっくりこず、納得のいくように再挑戦して作った。二つの「better falf」勾玉の、ピンとくる方を選んでもらえればいい。
 
ヒスイだから長寿の祝いに相応しいんじゃない。
「ヒスイで作った勾玉」であることが大事だし、子供が親孝行したいという想いから贈るからこそのヒスイ勾玉。だから作り手は注文主の想いに共感して、我がことのように作品つくりする姿勢が問われる。
 
しかし作り手は「想いを籠める」などという暑苦しい熱気を持ってはならない。また「真心をこめてつくりました!」なんて自分で言ってはならない。「親孝行したい」という息子さんの想いに応えるには、余計なことを考えずに誠実に仕事するしかない。
これぞ万葉歌人が、大事な人の不老長寿をヒスイに託して詠んだ和歌と同じ「ヒトとヒスイの物語」
 
ヒスイは希少鉱物だと評価するのもヒト。ヒトあればこそヒスイとの物語がうまれる。「ヒスイ海岸で一攫千金お宝ゲット!」なんて軽いノリはヒスイに相応しくないヨ。
 
 

 


古代の勾玉の加工地を推理する!・・・玉依比賣命神社に奉納された玉類

2023年01月10日 06時38分45秒 | ヒスイ
正月に「大勾玉展」の図録を読み込んだおかげで、朧気ながらも勾玉の編年(へんねん:時系列に加工地を整理すること)が掴めてきて、信州の玉依比賣命神社に奉納された勾玉の加工地が推測できるようになり、面白いことになってきた。
右の箱に納められた瑪瑙の勾玉は、山陰系の古墳時代後期の特徴を持っている
ヒスイの勾玉は左端上の緑色の定形勾玉は北部九州系の弥生時代の伝世品、他は北陸東部系の古墳時代前期~中期のものが多いようだ。
 
これらが持ち運び込まれたルートは、糸魚川の姫川ルートは多少もあったにしても、上越市の関川から斐太遺跡群を経て、信州の広大なハラで馬の放牧地を開拓していったグループによるものではないか?という私の仮説が濃厚になってきた。
玉依比賣命神社に奉納された玉類の大部分は、ちかくの「大室山古墳群」をくずして田畑にした時に出土したものが奉納されたもの。今ならオークションに出して金儲けする人もいるかもしれないが、昔の人はバチがあたると神社に奉納したのだ。
 
北九州のアズミ族がヌナカワ姫を頼り、姫川を遡って信州に入植したのが安曇野であるという説もあるが、それなら糸魚川地域に威信材や馬具が出土せず、古墳もないのは何故?という疑問が出てくるのは当然。
 
「ヌナカワ姫と大国主命の古代のラブロマンス」で宣伝されているような「コシとイズモの連合国家が北陸から山形まで支配していた」どころか、糸魚川地域は古墳時代の流れの圏外であったらしいことが伺えるのだ。
 
この点、少なくとも関川ルートの斐太遺跡群は、国内最大級の弥生時代の玉作遺跡と環濠集落、そして小さいながらも古墳群があるので、弥生中期から古墳時代にかけての時流の圏内であった蓋然性は高い。
 
関川ルートだけではなく、富山から飛騨を経て信州に至ったルート、天竜川ルートも忘れてはいけない。
 
わたしは律令制で整備された延喜古道(えんぎこどう)に注目していて、このルートは40キロを目安に驛(えき:馬屋)を配置した国道で、奈良時代に急にできた訳でもないだろうから、延喜古道沿いの古墳時代の遺跡を調べてみる価値はある。
 
出土品の特徴を時系列で加工地別に区分した編年は、考古学者の地道な研究の積み重ねの賜物。「大勾玉展」の関係者に感謝!
 
 
 

文化財指定してほしい軟玉ヒスイのナツメ・・・糸魚川にも凄い職人がいる

2023年01月08日 08時27分25秒 | ヒスイ
ヒスイ加工の大先輩が若い頃につくったネフライト(軟玉ヒスイ)のお茶道具を見せてもらったが、文化財級の姿に感動。
厚みが1㎜ほどの極薄のナツメの蓋がフワッとゆっくり入るのだけど、原石の節理を完璧に読めることと、成形から研磨までの工程で寸法がちいさくなっていくことが計算できていればこその超絶技法。
 
茶道をかじった程度の男私がいうのもなんだが、お茶道具として姿もいいし、軽さもほどがいいように思う。
 
姿のみならずナツメとして肝心な密閉性がいいので、お茶人から抹茶が湿気ないと評判もいいそうだが、試作の段階では何度も重すぎると駄目だしされて完成度を高めていったそうだ。
 
登り窯で焼いた壺が県展あたりで入賞したアマチュア陶芸家が、地元の茶道愛好家から「これはお茶には使えない」と抹茶茶碗を買ってもらえなかったとかで「素人のクセに!」と憤っていたが、お茶道具には相応しい姿や品格というものがあり、黙っていたけど確かに彼の作品はお茶道具に特有な凛としたたたずまいが感じられず、只でもらったのに申し訳ないが仕舞いこまれたままだ。
 
それだけお茶道具は特異な世界なのに、大先輩はよくもお茶人が納得するモノを作ったものだと尊敬する。
こちらは玉露用の急須と湯冷ましのセット。いい姿だし、光沢の具合もいい。
 
いまは歳をとったのでこんな仕事は無理だし、生涯の最高傑作だと仰っていたが、これは私蔵しておくより市の文化財としてフォッサマグナミュージアムあたりで展示して、これほどの作品が糸魚川で作られたことを誇りにしないと勿体ない話し。
硬玉ヒスイ製の玉露用急須と茶碗のセット。技術のことは抜きにして、お茶道具としては深緑のネフライトの方が落ち着きがよく、「なんだ軟玉ヒスイなの!硬玉ヒスイより安いんでしょ?」とバカにしてはいけないという教訓。
 
 
大先輩は非常に謙虚な方だから自分から宣伝したりはしないが、多くの人に観て、手にとってもらいたい作品ですなぁ。