ヌナカワ姫研究の市民グループの事務局をしておられるグラフィックデザイナーの野崎さんが来訪。
ヒスイ王国館に飾られていた野崎さんのポスター。下の水面はヌナカワ姫がお隠れになった伝説のある稚児ケ池をイメージしたものであるらしい。
野崎さんのグループは口碑を独自に解釈して、出雲の八千鉾神とヌナカワ姫の「古代のラブロマンス」があり、その後から大和勢力に攻められてヌナカワ姫が稚児ケ池で入水自殺したと結論つけているようだ。
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しかしながら・・・ヌナカワ姫の子孫の奴奈川長者と四道将軍(しどうしょうぐん)の大彦命(おおびこのみこと)が能生の鶉石で戦い、破れて首をはねられたのが「鬼の洗濯岩」の由来、という口碑が「能生町史」に書かれているのだが、野崎さんグループは未読なのか、または見落としておられるのか?
日本書紀にある四道将軍の東国平定は古墳時代~飛鳥時代に比定されるので、ヌナカワ姫がヤマトに殺されたとするのは時系列的に無理があるのでは?むろん口碑をそのまま史実とすることはできないが、子々孫々と語り継がれてきた物語りを蔑ろにもできない。
また「古代のラブロマンス」の泣き所は、地元に真逆の口碑があることと、出雲勢力とヌナカワ勢力が政治的な協力関係にあっったのだとすると、山陰系の四隅突出型墳丘墓や威信材が出土していないことをどう説明するか?である。
現時点では山陰系の土器片は出土してはいても、考古学では山陰地方でつくられた「山陰の土器」と、山陰の影響を受けた山陰以外の土地でつくられた「山陰系の土器」は明確に区分されている。
観光目的で「古代のラブロマンス」を宣伝したいなら都合の悪い情報を黙殺するのも厭わないのだろうが、ヌナカワ姫を実在した人物として「神話から歴史へ」と顕彰するなら、考古学的な検証は必須ではないだろうか?
実のところ、口碑は経年で変容するし、ヌナカワ姫伝説には江戸時代以降に追加された形跡のある口碑もある。
記紀や出雲国風土記といった古文献も奈良時代に書かれているので、四百年前後ものタイムラグのある弥生時代後半の物語を史実として検証するには心もとなく、あくまでも参考資料程度にとどめておくべきではないだろうか?
こんな話を二時間ほどして気を悪くされるかと思ったら、面白いと喜んでいただけたようだ。古代風首飾り「ヌナカワ姫」を身につけて記念撮影した野崎さん。
史実を星に例えるなら歴史観とは星座のようなもので、文化によって星々の物語は多用なのと同じく、色んな歴史観があっていいと思う。
しかし話を聞いた限りは私と野崎さんグループとでは検証手法と歴史認識がちがいすぎ今後の交流は望めなさそうだ。しかし個人的に話を聞きたいというなら誰でもウエルカム!