縄文人(見習い)の糸魚川発!

ヒスイの故郷、糸魚川のヒスイ職人が、縄文・整体・自然農法をライフワークに情報発信!

親不知ロケハン・・来年はモンベルさんと海で遊ぶノダ

2013年12月30日 11時19分58秒 | 糸魚川自慢





今年も残り僅かの12月29日の夜、市内在住の登山家の青田浩さんから相談したい事があると電話があり、30日に能生町の山奥にある青田さんの家に行ってきた。
 

 

来年は国内最大のアウトドア衣類メ-カー、モンベルの辰野勇社長を糸魚川市に招いて、ジオパーク糸魚川を盛り上げるイベントを企画をしたいとのこと。 

 

糸魚川市には山や海といったアウトドア遊びのできるフィールドが揃っているが、山なら専門だけれども、海の魅力を端的に教えて欲しいとの頼みだ。 

 

俺のイチオシは、親不知海岸だ。 

 

親不知ピアパークには年中無料の大きな駐車場があって、綺麗なトイレもある。

能生町も海遊びの環境とインフラ整備という点では合格だが、夏の観光シーズンには駐車場料金を取られるし、遊べるフィールドが狭いので混雑するのだ。
だから海を舞台にしたアウトドアイベントなら広い親不知海岸がいいと思う。

 

親不知ならではのアウトドア遊びは以下の通り。

 

①親不知ピアパークの東側には素潜りに最適な岩場が沢山ある。

魚・ウミウシ類・岩場に折り重なって群生している牡蠣などの生物が多種多様で、深度1m~17m程度と初心者から上級者まで楽しめる。


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豪快な波渋きをあげる親不知の二つ岩も、夏には海中トンネルくぐりのできる最大深度17mの愉しい岩場。生物も多種多様な豊穣の海だ。




②岩場の東側の砂浜でカヤックやSUP(スタンドアップ・パドル・ボード)が楽しめる。

 

③ボルダリング(道具を極力使わない岩登り)に最適な岩場もある。

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素潜りポイントでボルダリングで遊べる岩を見つけて喜ぶ青田さん。
親不知海岸にはこんな岩なら沢山ある。
「山田君、これ何て岩?」・・・「う~ん、結晶片岩かなあ???」

 

青田さんはフリークライミング初心者から上級者まで楽しめるレベルだなあ、と思わぬ山遊びの可能性発見に喜んでいた。



④キャンプもできて、なんと無料!
 

 

流木が大量に落ちているから、自分たちで獲った魚や牡蠣をその場でバーベキューして食えるし、高速道路が高架になっているので、ちょっと賑やかだが突然の雨降りにも安心だ。 

焚火ができるということは、縄文式発火法の体験もできるということだ。

⑤15キロ続く親不知の名所をカヌーやSUP(スタンドアップ・パドル・ボード)で案内すればこれは絶対面白い。もちろん、縄文カヌーでツアーもできる。

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夏には断崖絶壁の下はこんな感じ。

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かろうじて陸からアクセスできる勝山下の水場。天然シャワーだって浴びられる!


天下の険と世に知られる親不知の15キロ続く断崖絶壁は、現在は海岸浸食で砂浜が無くなってしまったので、「長走り」「大懐」「浄土」「弁慶の力水」として古から伝わる断崖各所に付いた名勝を陸から眺めることができなくなっている。


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冬はこんな感じになり近づくと危険

糸魚川の波は引き波が強いから、簡単に沖に持っていかれるのだ。

親不知の波は、古から多くの旅人を飲み込んできたが、これが天下の険と呼ばれてきた由縁だ。

 

だから海からしか眺められない風光明媚で、なおかつ歴史的価値のある断崖が15キロも続くのだが、モーターボートや漁船だとスクリューが岩にぶつかる危険性があるので断崖絶壁に近寄ることができない。

でも喫水の浅いカヌーやサップなら、古の旅人が束の間の休息を取った「大懐」などにも上陸できる。

芭蕉も高杉晋作も休憩した由緒ある場所だ。

15キロといえばシーカヤック初心者でも半日トリップに最適な距離。



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どうだ参ったか!の絶景。水上勉が日本で一番美しい風景と絶賛した眺めだ。 

断崖は高さ70mあるそうだから上級者のロッククライミングは如何?

 

⑥姫川以西だからヒスイも拾える。 

 

⑦砂岩なども沢山落ちているので、その場で打製石器作りもできる。 

 

ざっと思いつくだけでも親不知は、糸魚川ならではのナショナルジオパークらしい遊びが揃っているのだ。 

 

例えばピアパークをベース基地にして、素潜りや魚突きの磯遊び、カヌーで沖合からジオパーク見学、岩登り体験会、鉱物の採集とそれらを旧石器時代から利用してきた生活文化体験会etc・・・・。 

 

青田さんは俺の話しに乗ってくれて、その場で親不知に案内してくれいと話が纏まった。

人の事は言えないが、青田さんも糸魚川の人には珍しく決断と行動が早い。
 

 

青田さんを俺の車に乗せて親不知に行く途中に、大和川地区にある「ペンション・クルー」に寄って、若旦那の岩崎さんに逢って同じ相談。

岩崎さんは糸魚川青年会議所の理事長で、彼も釣りや素潜りなどで糸魚川の海の魅力を発信している人だ。



その後、やはり登山家の小野健さんの家に寄って、年末の挨拶してからいよいよ親不知ロケハン。

 

青田さんと一緒だと一日の出来事が盛り沢山で忙しい・・・。 

さてさて、来年は面白い展開になりそうだ。

一緒に遊ぶ人、この指とまれ!

 

 

 

 

 


縄文人は対馬海流利用?・・・15キロ沖合の海底から縄文土器出土

2013年12月28日 22時15分07秒 | 日本海縄文カヌープロジェクト




新潟県の角田山沖15キロの海底から、縄文中期(五千~四千年前)の東北型の土器が底引き網で引き上げられたと新潟日報12月21日の朝刊に出ていて興奮した。


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新潟日報記事より転記した、引き揚げられた東北型の縄文土器





この土器の発見は、縄文時代の海上交通の実態に色々な示唆を与えてくれている。

縄文人が乗った丸木舟が、陸から15キロも離れた沖合を航海中に沈没したか、何らかの理由で故意に縄文土器を海に沈めたのか、または誤って落としたという可能性だ。

土器が故意にしても不可抗力で海に沈んだのかの理由は別として、つまり対馬海流を利用して航海していた可能性があるということだ。



別の可能性としては、沿岸航海中にダシの風で(新潟市近辺の漁師言葉で、陸から海に吹く南風)、沖合まで流されて転覆した等・・・。

因みに糸魚川の漁師言葉は、南寄りの風はダシとは言わず、ジモンと言う。

漢字表記すれば地物(ジモン)、つまり陸から吹く南西の風という意味で、逆の北東の風はアイノカゼ(会いの風)と表現する・・・と知人の漁師から教わった。

アイノカゼを「愛の風」と文学的な表記をする人もいるが、これは近代になってから文化人あたりが当て字したのだろうと思う。

陸から吹くジモンの風と対になった、陸(オカ)に出会う風という意味が本来だと思う。

狩猟民の符丁はそのまんまの直接的表現が多いし、陸に残した家族に会えるから「愛の風」という概念は、昔の日本人は持ってなかっただろうと思うのだ。

そもそも愛という言葉自体が、江戸時代以前の日本人が現在と同じ意味で使っていたとは思われないし、恐らく明治以後にLOVEという英単語を翻訳して使われるようになった言葉ではないだろうか?




脱線してしまったが、本題に戻る。

これまで完全な形で出土している縄文時代の丸木舟は、単材刳り舟のみだ。

つまり一本の丸太を刳り抜いた単体の船体を持つ丸木舟だ。


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福井県の三方五湖出土の縄文前期(六千~五千年前)の丸木舟。
丸木舟というよりは、前近代のハワイの王族用サーフボードやSUP(スタンドアップ・パドル・ボード)を連想してしまう浅い船体が特長で、長野県の野尻湖からも平安時代と思われる同様な丸木舟が出土している。



出土丸木舟の寸法は長さ6m×横幅0.7m×深さ0.2m程度だから、とても外海の航海には耐えられそうもなく、湖水や内海用と推測されている。

外洋航海用と推測されている丸木舟は、残念ながら福井県の浦入遺跡から出土した、底だけが残っている推定全長8m×横幅1mの丸木舟のみ。

 


俺は糸魚川ヒスイが青森まで海上ルートで丸木舟により運び込まれていたという学説を検証する目的で、日本海縄文カヌープロジェクトの活動をしている。

これまで二隻の丸木舟を作ったが、俺は海で丸木舟を使うので船底から船首までの高さを一隻目の小滝丸で40㎝強、二隻目の明星丸で60㎝弱と出土品より深めに作った。

単体胴だと少しでもウネリがあると転覆してしまうので、二隻ともダブルアウトリガーカヌーにして安定性を確保している。

しかし小滝丸の場合は、縄文丸木舟に近い船型であるロッカー(船底のカーブ)が直線的で船首・船尾とも船縁と同じラインに作ったから、波高1mもあるとウネリが船首や船尾から入ってきてとても危険だ。

沖合で完全な水船になって慌てて船から飛び降りて水を掻き出したことさえある。


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船首から船尾までが直線的な船型の小滝丸(全長4・6m)


明星丸はその反省から、ローッカーにバナナ状の反りを持たせて船首も船縁から徐々に高くなる工夫をしたので、ウネリを超える稜波性は改善された。


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全長5.5mの明星丸は、沖縄の小型木造漁船サバニに似せた船型だから、ウネリに強い。



そんな訳で、俺は出土した丸木舟の形状と寸法の通りだと、沖合に出ることも長距離航海をすることも大変に危険だと考えている。

だから出土品のままだと穏やかな海況の沿岸航海しかできないのではないかと実感しているのだ。

ところがだ、糸魚川ヒスイが800キロも海を渡って青森まで運ばれたのは、対馬海流を利用していたから簡単!という説もあるのだ。

確かに佐渡の漁師は、対馬海流に乗って青森まで五日しかかからなかったという民俗例は俺も知っている。

しかしそれは近代の和船での話しで、しかも佐渡からなら対馬海流に乗るには本州を目指せば簡単に乗れるだろう。

対馬海流は本流が時速2キロで北上する海流だが、陸地が見えるくらいの本州沿岸でその影響を感じることは無いだろう。

 

 

特に新潟県でも糸魚川市から上越市くらいまでは、能登半島の影響で対馬海流が沖合を流れているために、漁師ですら対馬海流を実感することは無いのである。



これまで実験してきて、ある程度の訓練を積んだ漕ぎ手なら、丸木舟による長距離航海の平均速度は時速5キロ前後という結果を持った。

本州から対馬海流に乗ることを考えれば、沖合10キロ以上は離れないと無理だと思うが、平均時速5キロで沖合を目指しても2時間もかかってしまう。

その間に海が荒れたら、単材刳り船だと相当に危険だ。

佐渡の漁師が青森までの航海に使ったのは小型の手漕ぎ和船らしいが、それでも横幅が一間(1.82m)は優に超えるだろうから、単材刳り船の丸木舟とは安定性はまるで違うし、刳り船と構造船でも重量は雲泥の差がある。

だから俺としては、出土品のままの丸木舟なら沿岸航海をしていたと思う。

対馬海流を利用していたなら、アウトリガーを付けるか、双胴船にしていた可能性があると思う。

もしくは外海用の丸木舟には、サバニや現役で活躍するインドネシアからポリネシア海域の丸木舟のように、船首・船縁・船尾に別部材で嵩上げした準構造船にしていたのではないかと推測している。

それはやってみなければ分らない・・・四の五の言わんとやってみさっしゃい!と、勇敢な漁師だった叔父から言われそうだ。


バタバタ茶の茶筅作り名人、内藤さんが逝った・・・内実ある人生

2013年12月22日 15時57分28秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画




12月20日の寒い夜、内藤操さんという近所に住む老人がひっそりと逝った。

内藤さんは根知区の山奥の出身で、10年くらい前に高齢化のために山間部で暮らすことができなくなって市街地に引っ越してきた人。

糸魚川市の山間部では雪が4mも積もるから、お年寄りが暮らすには過酷な地域であり平野部に越してくる人が多いのだ。

我が家では近所に知人が少ない内藤さんをお茶に招いたり、親父が週に一度は近所の温泉に連れて行ったりしていた。



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注連縄作りを教える在りし日の内藤さん。

 

話変わるが、糸魚川市とお隣の富山県朝日町市には「バタバタ茶」という振り茶の文化が残っている。

同様の振り茶文化は、島根県の「ボテボテ茶」と沖縄の「ブクブク茶」があるが、それぞれ少しづつ違っている。

糸魚川市と朝日町市のバタバタ茶は、中世に浄土真宗の布教活動の一環として蓮如上人が広めていったらしい。

庄屋や地主などの富裕層の家を拠点にして、「今晩、オラとこで偉い坊様が有難い話しを聴かせてくれるケン、お茶でも飲みに来ない!」といった感じだろう。

カワラケツメイなどから作った自家製のお茶を煮込んで、塩を少し入れてから茶碗に注いだ後に茶筅でバタバタと泡立てからお客さんに振舞うのがバタバタ茶だ。

茶筅は、夫婦茶筅という二本連結式の変わった茶筅を使う。

糸で内側と外側に茶筅を分ける二重構造の普通の茶筅と違って、先端まで薄く削った一重構造のもっと柔かい茶筅だ。

カワラケツメイに含まれるサポニンが夫婦茶筅でバタバタと振られて泡つのだそう。

糸魚川市にはバタバタ茶を保存する会があるが、もう誰も作り手がいなくなってしまったバタバタ茶用の夫婦茶筅を、手先が器用で何でも自分で作っちゃう内藤さんに頼んで復活して貰ったらしい。

以後は観光物産センターでも内藤さんの夫婦茶筅が買えるようになった。


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内藤さん手作りの夫婦茶筅。
富山でも作っているらしいが、それはホームセンターで売っている白竹製で、工作精度は高くないが、内藤さんは自分で伐採して枯らした根曲がり竹から作っており、工作精度は精密だった。

根曲がり竹(千島笹)は、縄文の昔から雪国の竹細工に使われてきた粘りのある竹だ。

信じられないことに、これ程までに完成度の高いハンドメイド品を糸魚川の観光物産センターの責任者は、「3,000円以上じゃ売れないから一本2,300円で作ったら売ってやるわね!」と恩着せがましく頼んでいたらしい。

観光土産屋が茶筅を安売りしてどうしようというのか?

糸魚川の顔たる玄関口で売るべきは安い茶筅じゃなくて、バタバタ茶の文化だろう!と、俺はその話を内藤さんから聞いた時に物凄く腹が立った。

手間暇だけ考えても一万円でも安いくらいの茶筅だと思う。


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これは棗ではなく、バタバタ茶に入れる塩の器。内藤さんは堅い竹でキッチリと作っていたが、俺ならここまでの精度が出せないし、一日で二個も作れないと思う。

これまた信じられないことに観光物産センターは、一個500円の値段を付けていた。

モノの価値を知らないということは不幸なことだ。



なんの知識もなく、独自の工夫だけで試行錯誤して作った内藤さんの夫婦茶筅は素晴らしい出来栄えだった。

茶筅作りは難しいし、竹の内側の白い部分を剥き取る独特の工程がある。

俺もお茶を習っていたことがあり、興味を持ったので自分で茶筅を作ったことがある。

その時は、池袋にある文化庁の民俗文化保存センターの映像記録を観て、奈良の高山茶筅作りの工程を学んだが、満足のいく出来栄えにはならなかった。

ところが内藤さんは、独自の工夫だけでその工程を完璧にこなしていたのだ。

内藤さんは口数が少なく何時もニコニコとした好々爺だったけど、木工や竹細工などの雑談をしていると経験者しか知らない具体的な問題解決法をサラっと答えてくれた。

例えば竹トンボ作り。

内藤さんの竹トンボは、薄く作った竹の板をライターで焙って捻る方式。

これは工業デザイナーの秋岡芳夫先生が考案して、「国際竹とんぼ協会」で教えているスタイルだが、この同じアイデアも内藤さんは独自に考案したという。


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国際竹とんぼ協会のスーパー竹トンボ。
何故、スーパーかというと、ナイフで削って作っただけの普通の竹トンボよりずっと軽量で精度が良いので、無風だと高度20~30mまで楽に飛ばせるからである。



内藤さんの話し振りから、この人は自分の体験だけを語る人であり、見ただけ、知っているだけの話しをしないホンモノのヒトだなあ・・・と感動した。

現代人の多くは知識は豊富だが、それはテレビで観て知っている、本で読んで知っているといったレベルで、体験を伴っていないことが多い。

知識に内実が無いのが現代人だが、内藤さんは違う。

内藤さんは戦時中は海軍の一式陸上攻撃機の整備員をしていたくらいだから、若い頃から利発で手先が器用だったんだろう。

当時の航空機整備員になるには、選抜された学業優秀の人材でも猛勉強しなければなれなかったと聞いている。

戦後は土木作業員を長くしていたらしいが、農業も含めてその日常は自らの手作りに満ちていた。

手で経験して、手で考えて、何でも自分で作り上げていった人生だ。

聞くところによると、家族運に恵まれない波瀾万丈の一生であったとのこと。

ゴツゴツと節くれだったモノ云わぬ内藤さんの手。

口にはできない程の、幾多の哀しみを乗り越えてきた人生だったらしい。

その手だけが知っている、哀しみに耐えてモノを作り続けてきた人生。

最後は老衰で昏睡状態が続いたので苦しまなかったと聞く。

内藤さんは人生の師匠の一人。

内藤操・・・享年八四歳
 

とても寂しい。

ご冥福をお祈りいたします。合掌!


六反田南遺跡の列石遺構・・・雪が積もる前にご報告!

2013年12月19日 21時52分05秒 | 縄文



ここ数年の糸魚川市では、3年後の新幹線開通の事前調査で遺跡の発掘が続いていた。

その中の一つ、「六反田南遺跡」は大和川地区の田園地帯に位置する、縄文中期中葉から後葉(四千五百~四千年前)と古墳時代の複合遺跡である。

弥生時代には河川の洪水により沼地であったらしく、遺跡は見つかっていない。

糸魚川市の縄文と古墳遺跡だから、当然のようにヒスイの原石とその加工用の砥石が出土したし、縄文時代の層からは磨製石器の未成品や割れた石器が大量に出土している。

シャケの骨や鮫の歯も出土しており、海岸に近いことから石器類の加工拠点としての漁村だったのではないかと推測されている。
惜しいことに丸木舟は出土していない。
 

正式な報告は来年以降になるそうだが、長さ1m5㎝という県内最大級の石棒や、日本海側では珍しく、また県内では初の貝塚も出土している興味深い遺跡だ。



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石棒は安山岩系の石らしい。
1mを超える長さの石棒は、俺の記憶では県内では例が無い。
新潟県の発掘調査なので石棒の所有権は新潟県にあるが、糸魚川市の学芸員さんは、貴重な出土品なので調査終了後は交渉して、ゆくゆくは糸魚川市の博物館に展示したいと言っていた。



そして同じく市内にある縄文後期(四千~三千年前)の国指定遺跡の寺地遺跡と同様に、列石群が出土した。

列石は、細長く平べったい形状の「ヒン岩」を選んで、近くを流れる早川の川原から運んできたらしい。

縄文時代の列石遺構で有名なのは、日時計説もあるくらいに方角に対する法則性が読み解ける秋田県の大湯環状列石だが、六反田南遺跡にも何らかの法則性があるんじゃないか?と、現地視察をされた縄文のご意見番として著名な小林達雄先生は仰っておられたようだ。

既に発掘調査が終了したので、残念ながら現状地盤から4mも地下にある遺跡は埋戻しされている。

そこで考古学好きと鉱物好きには耳寄りな情報がある。

大量の列石を埋め戻すにはもったいないと、一部を近所の「国造神社」に移設しているのだ。


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「国造神社」・・・コクゾウジンジャ・・・は、国道8号線沿いの海側にある大和川区の小さな神社。
薄いピンク色の幼稚園が併設されているので、すぐに解ると思う。


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その境内の8号線寄りにほんの一部だけど、方向性はそのままに移設されている。
確かに糸魚川のランドマーク的な黒姫山に向かっているようだが、六反田南遺跡の調査員さんは、地形の凸凹に合わせて配石したんじゃないか?なんて言っていた。

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押上区沖でSUP(スタンドアップ・パドル・ボード)から撮影した黒姫山。
この山は山頂が三つに別れた正しい漢字の山の形をしている独立峰。


案内看板はまだ設置されていないけど、現物を見たい人は雪が積もる前にどうぞ!


冬の夜には柳家紫朝を聴く・・・男の色気・プロの凄味

2013年12月17日 23時02分09秒 | 日記・エッセイ・コラム




糸魚川の平野部ではまだ雪が本格的でもなく、曇り空や氷雨が続いている。

こんな寒い夜は、柳家紫朝の俗曲が聴きたくなる。

「さのさ」「縁かいな」「両国」「ささや節」「木遣りくづし」・・・・。

紫朝さんは二年程前に亡くなった寄席芸人だけど、俺は彼の最盛期を知らない。

かなり前に脳梗塞で寄席を引退して、CD発売当時は年に一度だけ独演会をしていたらしい。

十年近く前に新宿末廣亭の売店で、睨みつけるような紫朝さんの発売されたばかりのCDジャケットに只ならぬ雰囲気を感じて買ったのだけど、ジャケ買いしたのは唯一このCDだけだ。

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家に帰ってCDを聴いたら鳥肌が立った。

唄と三味線の音が身体に染み込んでくる・・・こんな感覚は初めてだ。

佳いなあ・・・しっとりした情感に惚れ惚れした。

この心地よさは程よい湿気がある・・・そう潤いって感覚だ。

夏の唄でも冬の唄でも、江戸の人が感じた湿気を含んだ空気を感じる。

八十歳近い老人の声にこれほど色気を感じるとは!

後年、お弟子さんの小春さんに聞いたら、嫌がるCDの録音を周囲が説得してスタジオまで連れて行ったそうだが、紫朝さんは三味線の音を合わせるとリハーサル抜きでいきなり本番に入ったとのこと。

そして一発で録音終了・・・格好いいなあ。

紫朝さん本人に直接聴いたのだが、彼は数え年五歳から新内を習い始めて、若い頃から新内の「流し」をしていたんだと。

そして昭和の落語の名人として讃えられる、「黒門町」こと八代目桂文楽門下で寄席デビューした筋金入りの寄席芸人。

圓生師匠も独演会の前座に呼んだりして可愛がってくれて、大津絵など口三味線で教えてくれたそうだ。

そして都都逸は「寄席の音曲で天下を取った」・・・紫朝さん談・・・柳家三亀松師匠の直伝だから、艶があるのは当然と言えば当然だ。

紫朝さんにとっては、何時だってリハーサルなんかなくて本番なんだ。

芸歴七十年以上の内には、体調の悪い時にも、気分が乗らない時にもあっただろうけど、三味線を持って高座に立てば何時だって真剣勝負。

これぞ寄席芸人、プロの凄味。

学ぶべき姿勢だ。




軽トラキャンピングカーを自作する(その2)・・・南京縛り

2013年12月15日 09時48分28秒 | こんなモノ作った!



軽トラキャンピングカーのブルーシート(銀色ね)を外すと、ドームの正体が現れる。
ドームはホームセンターでも売っているポリカーボネード製波板(以下ポリカ)を曲げて作っているのである。


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そこまでは前回の通りだけど、トラックのロープフックの数と位置が少ないため、そのままでは高速道路を走る時にはちょっと不安だ。

だから俺は写真の様にステンレスの物干し竿を中間に入れて、ロープ固定の位置を倍に増やしている。

もっともこの補強は、高速道路使用時だけで、日常ではここまでしていない。


俺は長さ9尺(約2.7m)のポリカを使っているが、この長さだと軽トラのキャビンより小さなドームが作れて、風の抵抗を受けないのだ。

強度と防水性を考えて、重ねを十分に取ったために俺は5枚(1800円前後/枚)のポリカを使用した。

塩ビトタンだと安いけど、柔軟性と耐久性を考慮するとポリカがベスト。


人によっては6尺(約1.8m)のポリカを1枚とか2枚くらい使って、キャビンの後ろに荷物を入れるスペースだけを確保している人もいる。

頻繁に荷物の出し入れをする大工さんなどの職人さんならこの程度の小型で短いドームの方が荷物の出し入れが楽なのだ。

ポリカを曲げただけでは当然ながらドームが固定できないので、トラックロープで南京縛りして固定する。


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南京縛りが完璧じゃないとこの固定方法は危険だ。
指で弾いてビンビンと音がするくらいに絞めておくこと。

このロープワークが出来ると日常でもサバイバルでも大変に便利だ。

重量のある倒壊物を移動する時に滑車代りにしたり、簡易テントを建てる時には支柱やブルーシートを頑丈に張ることが出来るのだ。

現場仕事をする人なら当たり前に出来るので、習っておくことをお勧めする。


南京縛りが完璧に出来ない人は、ホームセンターで売っている長さが自由に調整できるラッシングベルトなどでしっかり固定しよう。

ラッシングベルトは、2本組で600円程度の安物でも十分に使える。

ロープ直径は、ポリカの凸凹に収まる6㎜がベストだ。

多くのポリカ雪除けはここまでの工夫。

でも俺のは強度面の工夫がしてあるのだ。

以下次号!


軽トラキャンピングカーを自作する (その1)

2013年12月07日 20時42分13秒 | こんなモノ作った!


このOCNブログの前にエキサイトで同じタイトルのブログをやっていた時に、軽トラキャンピングカーの紹介をした。

 

興味ある人は、エキサイトブログhttp://jhomonjin.exblog.jp/ で検索して下さいな。

3年ほど前の記事だけど、未だに色んなところから問合せが来る。
俺のブログをパクって、あたかも自分で考案したかのように紹介するブロガーさんもいて、某月刊誌に掲載が決定してから慌てて許可を求めてきたということもあった。

今回はDIY月刊誌の「ドウーパ」編集部から新春号に掲載したいとの取材依頼だ。
OCNブログとフェイスブックでも紹介しておきたいし、「ドウーパ」には紙面の関係で書き足りなかった部分も多いので、以下はその軽トラキャンピングカーの詳細である。

ベース車はスバルのサンバートラックだ。
普段の俺は丸木舟やSUP(スタンドアップ・パドル・ボード)、シーカヤックなどのマリンスポーツの他、趣味と実益を兼ねたDIYの為に頻繁に大きな荷物を積むので、キャンピングカー仕様は冬季限定である。

雪国ではトラックの荷台に雪が積もるという事態が当然おこるが、新潟の雪は湿っているので荷台に一杯の雪が積もると軽トラといえども相当な自重になるから、下の写真のようにキャンピングカー仕様にしておくと雪が勝手に滑り落ちてくれて便利なのだ。


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横から見た図。

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斜め後ろから見た図。

ブルーシート(銀色だけど)は#4000番の厚手タイプで、幅1.5間×長さ2間ものを長手のみ折り畳んで被せてある。


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ブルーシートの下は、なんとホームセンターで買った9尺のポリカーボネード波板!(以下ポリカ)

このアイデアは、糸魚川市の山間部から長野県に掛けての人達がやっている雪除け対策で、俺のオリジナルではない。

雪除けだけなら、ブルーシートで覆うより、ポリカ波板だけの方が滑りは断然にいいが、軽トラのアオリとポリカの間に雪や雨が入ってキャンピングカーとしては使えないことと、中身がスケスケになってしまうので俺はブルーシートを被せているのだ。

しかし俺の軽トラキャンピングカーには、強度面の補強や居住性改善など色んな工夫がしてあるのだ。
詳細は次号にて!




「海のヒスイ・ロード」の物的証拠?

2013年12月02日 23時11分44秒 | 日本海縄文カヌープロジェクト


11月30日は、フォッサマグナミュージアムを会場にしての新潟県考古学会会長の寺崎先生の講演会に出席。

先生は糸魚川高校OBで、縄文土器の権威だから親しみがある。

この日は糸魚川市の長者ケ原遺跡出土の土器についてがメインテーマだった。

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考古館の展示室で説明する寺崎先生

長者ケ原遺跡出土の土器は北陸系が多く、越後系、信州系、東北系の土器が少ないことから、文化的には縄文時代の糸魚川は北陸という内容。

これまで何度か聞いてきた話だったが、俺が聞きたかったのは別のことだ。

講演の後に場所を長者ケ原遺跡考古館の展示室に移しての現物の説明。

この時ばかりは俺も沢山質問した。

一番聞きたかったのは、長者ケ原出土の石棒・・・つまり男根の形の石製品・・・と同じものが、男鹿半島からも出土しているということ。

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石棒を前に俺の質問に答える寺崎先生
男鹿半島の遺跡名は『大畑台遺跡』とのこと。

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全国で唯一の蛇紋岩製の石棒。
糸魚川産の蛇紋岩は、磨製石器の素材として優秀だったので、縄文時代にはブランド品だったのだ。
寺崎先生によると、土壙墓に副葬品として土器に入れられて埋葬されていた例もあり、実用品を超えて祭器扱いもされていたようだ。

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男鹿半島『大畑台遺跡』出土の石棒

寺崎先生は、2つ上の写真左端の大きな石棒が酷似していると言っていたが、ネット検索してみたら素材が砂岩らしいことの他は、形状はむしろ蛇紋岩製石棒に近いようだ。


来年は男鹿半島に行く予定。
ヒスイ製品は小型で軽いから陸路から運ばれたと反論され易いけど、石棒なら大きくて重いから、これらの運搬に丸木舟が使われていたということに納得がいく。
ヒスイが海上ルートを糸魚川から青森まで運ばれたとする説に、いよいよ信憑性が高くなるのだ。
調べたら、大畑台遺跡は船川という男鹿半島西側の港町にある。

いいぞいいぞ!嬉しくなってしまう。