奴奈川姫のラブロマンスを唱える女性に根拠を尋ねたら、糸魚川市商工会議所主催の勉強会で習ったのだそう。
悲劇の伝説は教えてもらってないと聞いたので、悲劇の部分を教えたら「それでは奴奈川姫が可哀そう・・・」と愕然としていた。
地元の商工会議所は華やかな部分だけを地域振興素材として宣伝しようという意図があるのかは不明だが、私の所には、県外から悲劇の真相を知りたくて訪ねて来る方々ばかりで、この温度差に私も愕然としている。
悲劇の奴奈川姫伝説を最も物語る場所が、出雲から(あるいは能登から)の逃避行の末に、追い詰められて自害されたと伝説がある稚児ケ池だろう。
稚児ケ池は、ぬなかわヒスイ工房の真南2キロの蓮台寺の丘の中に位置し、奴奈川姫の慰霊をしたいので案内して欲しいという方々が年々多くなってきたが、地元では真逆な流れが主流・・・ちなみに写真右が丘になっている。
稚児ケ池の案内を乞う人には神道など精神世界方面の不思議な能力を持った人も多く、何がしかの悲劇を感じ取って私に教えてくれるのだが、その中でギクリとした事を言った女性がいた。
「ここに奴奈川姫の一族が住んでいたようですね・・・」
大正9年刊行の口碑を編纂した「西頸城郡誌」によると、この場所は「古昔一の市街あり奴奈川姫眷属の住地なり爾後斯境内に於いて舞楽或演劇の興行ありしと云ふ・・・」とあり、つまりは奴奈川族の王族が住み、境内で舞い、演劇をしていたというのだ。
彼女はその情報を知る由もなく、その場で感じたことを語っただけである。
普段は草叢をかき分けての登りが大変なので案内しないのだが、稚児ケ池のすぐ南は高さ数メートルの丘状になっており、頂上付近は山城の曲輪のように数段の平らな場所があり、造成した地形のように感じる。
最も広い平地は三十畳くらいだろうか・・・王族が住むにしては狭いし不便な場所なので、口碑が本当なら祭祀の際のお宮と観た方がよさそうだ。
我が寺町区では、戦前まで稚児ケ池で乙女が舞を奉納する神事が残っていたそうで、「舞楽或演劇の興行ありし」という記述は間違いないとは言える。
大正10年刊行の「天津神社並奴奈川神社」に「・・・斯西方ノ丘上ニ古社跡礎御手洗池等今尚存セリ・・・」と古いお宮の礎石が今もあるのだという記述があり、同じ場所なのかは不明ながら、稚児ケ池上の丘の頂上には確かに礎石っぽい石が置かれてもいたりするが・・・。
丘の上にあった石は、丸い砂岩のようで礎石にしては形状も素材も?マークがつく。戦後に植林もされている場所だから、曲輪状の地形も近世に造成された可能性もある。
稚児ケ池に人が住んでいたかどうかは確かめようがないが、前出の資料には古墳が「三十三塚アリ」と出ていたり、かっては稚児ケ池付近に「奴奈川神鎮座・・・大雨で流され・・・現在の天津神社の地に移った・・・」というような記述があり、興味深い。
奴奈川姫自害の伝説は姫川上流の長野県側にもあり、私は実見していないが姫が入水した「姫ケ淵」という深い淵があるのだそう。
非劇のどれもが口碑伝承ならロマンス説も口碑伝承。
だからロマンス説だけを教えるのは片手落ちではないだろうか。