縄文人(見習い)の糸魚川発!

ヒスイの故郷、糸魚川のヒスイ職人が、縄文・整体・自然農法をライフワークに情報発信!

縄文時代に戦争がなかったのは国家がなかったから・・・中川裕著「アイヌ文化で読み解くゴールデンカムイ」

2023年10月31日 07時51分42秒 | 縄文
「縄文時代は一万年以上も戦争がなかった平和な時代💛」・・・といった類いの日本スゲー的な解釈をきくと辟易する。
 
戦争がなかったのは国家という枠組みがなかったからで、現代的な解釈で縄文人を平和主義者みたいに論ずるのはちと違い、人としてごく自然に生きていたのではないだろうかとわたしは解説している。
 
人間社会だから争いもあったろうし、殺人痕のある人骨だって出土している。では争いがあった時はどのように解決していたのか?
アイヌ文化を紹介する本なら萱野茂さんの著作がおススメだけど、本書は「ゴールデンカムイ」を読んだ人へのアイヌ文化の入門書に最適
 
近代まで狩猟採集文化がのこっていた、アイヌの「チャランケ」のような問題解決法にヒントがありそうだ。チャランケを直訳すると談判である。
 
集落間で問題がおこると、エカシと呼ばれる人格に優れ、弁舌巧みな長老格が代表に選ばれ、お互いに相手が納得するまでとことん議論し合うのである。ここで大事なのは論破が目的ではないことだ。
 
故事来歴や花鳥風月、カムイユカラ(神々の叙事詩の唄)を元に、時に節をつけたりして理を諭し合うので、即興の歌合戦といった趣もある。
実に文明的な問題解決法ではないか。
 
たとえ相手が何時間も喋りつづけても、その間は黙って聞いていないといけないから忍耐強さもためされる。チャランケが何日もつづいても勝負がつかない時は、お互いに裸になって背中を制裁棒で打ちあい、どちらかが参ったするまで我慢して決着をつける。
 
制裁棒は「ゴールデンカムイ」にでてくるが、本書は民俗学や考古学の専門家が「ゴールデンカムイ」を元にアイヌ文化をわかりやすく解説している。
 
縄文文化=アイヌ文化ではないが、日本列島の狩猟採集民ということで共通していて、現代的な解釈で縄文を論じるより、うんと縄文の理解が深まるのではないだろうか。
 
買うならアマゾンじゃなく本屋で注文してちょうだい。便利さを追求してばかりいると、街の本屋がなくなっちゃうよう。
 
 
 

北の縄文人が愛したアオトラは縦ジマにつかえ!・・・ヌカビラ川産のアオトラ(緑色岩)

2023年10月29日 07時00分35秒 | ぬなかわヒスイ工房
二風谷アイヌのKさんからアオトラをわけてもらった。アオトラはヌカビラ川に産出するシマ模様の緑色岩の通称で、北海道・北東北の縄文遺跡で磨製石器がつくられてきた石。
 
ちなみにKさんはアイヌ文化研究家でアイヌ初の国会議員となった萱野茂さんの従弟で、6年前の初対面の時など、うちで二週間ほどバイトしないか?といわれて面食らったが、萱野さんのご子息と酒席を設けてくれたり、アオトラ拾いに連れていってくれたりと、叔父のように思える優しい方。民映研のアイヌ文化の記録映画を観なおすと、若き日のKさんも写っていて和む。
最初に横ジマ模様の勾玉をつくってみたら、濃い緑色の部分がやわらかく、黄緑色の部分がかたいために滑らかな曲線にするのは困難ということが判明。
それならとやわらかい部分を掘り窪めて強調した石笛をつくったら、いい味わいになった。
その次は縦ジマで小型の磨製石器ペンダントとヤジリ形ペンダントをつくったらシンメトリックに仕上がった。
ヤジリ形や磨製石器のミニチュアのような石製装身具が出土することがあるが、かたいモノには霊力が宿る、鋭いモノは魔除けになるという民俗例があるので魔除けのペンダントであったのか?ミニチュアでなくとも実用のヤジリや磨製石器が土壙墓から出土することもあり、愛用品を死者と共にあの世に送ったものか、それとも魔除けの意味合いであったのか。ついでながらアイヌの民俗例では、あの世にモノを送る時はわざと傷つけたり壊したりする。
出土品も縦ジマ方向に原石を磨り切って磨製石器をつくっているようだ。アオトラは縦ジマ方向で加工せよという学び。横ジマの石斧を実際につかうと折れやすいだろう。
 
弱い部分と強い部分の組合せの妙で、加工しやすくも強靭な石斧をつくっていた縄文人の知恵に畏敬の念を抱く。
 
 

縄文スタイルはあるがままの色ムラを愉しむ・・・国産天然モノの赤メノウ

2023年10月28日 08時50分21秒 | ぬなかわヒスイ工房
北海道旅のいちばんの目的が赤メノウの仕入れだった。
今金の天然赤メノウ原石
 
現在の国産赤メノウは乱掘のために流通しておらず、流通しているのは濃い赤に染めたブラジル産が大半だ。均一さや安さを求め続けたから、外国産の染色赤メノウが国産の天然モノの市場を駆逐したこともある。
 
古墳時代の赤メノウ勾玉を大量につかった「平成の大首飾り」を依頼された時は原石の入手に困窮したが、運よく染める前のブラジル産を入手できたし、大正時代の研究書に薄い赤を焼くことで濃く変色させる江戸時代の技法があったとの記述を見つけたので、試行錯誤をつづけて成功して数を揃えた。
焼いて赤くする前はこんな状態
成功の確立は5割くらいで、割れたり染まらないのもあった。この時の苦労をおもうと今でも涙ぐんでしまう。
 
その時にアイヌの人々に松浦武四郎や、アイヌにとって道政150周年は祝祭なのか?と話を聞きたくて北海道を旅したのが6年前。
武四郎の導きとしか思えないのだけど、今金にある武四郎の史跡の隣家が、かって赤メノウの原石を販売していた高齢夫妻の家で、在庫をわけてもらったので「平成の大首飾り」に数点だけ加えることができた。
よりによって史跡の隣りが原石屋さんだったとは!
6年ぶりに今金の夫妻を訪ねたら、残念ながら都内の業者が根こそぎ買ってユニック車で持って帰った後だった。
 
それでもコンテナ一杯分を購入できた。これだけあれば古墳時代の遺物の複製を依頼されても大丈夫。
ちいさな欠片は超小型の勾玉をつくることにした。台になっているのが原石だけど、ずいぶんと違うでしょ?
 
国産の天然モノは色が均一でないところがいい。
わたしは均質を好まないから色ムラを個性ととらえる。全部が赤より一部だけの赤はカワイくない?
全体が同じ色もまたいいが、薬品で染めると色が濃くなるばかりか塗りつぶした感にいやらしさを感じてしまう、とわたしは思うのデス。
 
しかし自分で焼いて濃い赤に変色させる研究をしたことで気付きもあった。本来は半透明をした乳白色の部分が、加熱すると白濁化するのだが遺物にも白濁した赤メノウ勾玉があるのだ。
 
ということは古墳時代も、赤メノウ原石を焼いていた可能性があるということ。ただしそれは色を濃くするためではなく、原石を割り易くするためだと思う。すでに旧石器時代にはメノウを焼いて割り易くする技術があったしね。
赤メノウが拾えるという川を歩いてみた。大雨の増水で川の中に入れず、熊がでそうなので早々に退散。
岸辺にシプシプが群生していた。
 
和名は砥草(トクサ)で、紙ヤスリが普及する以前は開いた茎を板に張り付けてヤスリにしていた植物だ。アイヌは茎のまま木工用のヤスリにしていたので、手を動かすたびに茎がつぶれてシプシプと鳴るからシプシプと名付けられたそう。
 
ちょっと自慢になるが、わたしがアイヌの方々と話していると普通にアイヌ語名詞をつかうので、お主やるな!と思われるようだ。これは考古学者に質問する時も同じなのだけど、なにも知らない状態で質問するのではなく、調べた上で疑問を質問するのが大事だし、礼儀ということではないかな。
 
 
 

糸魚川出身の画家 野坂衣織 作品展のご案内

2023年10月27日 07時51分22秒 | 糸魚川自慢
高校美術部の後輩の野坂衣織さんが上越市で作品展をするのでご案内。野坂さんは糸魚川の早川区出身。
川村翠さんは直江津出身。野坂さんが高校時代に美術の担任した縁で、絵画に開眼した新進気鋭の画家
 
絵描きにとっては失礼な質問なのだが、最初はクレーが好きなの?と聞いてしまったのは先輩後輩という関係だったからだけど、いつの間にか作品の深みがまして独自の画風を確立していた。
 
立体造形であるはずのヒスイ加工品でも奥行きと密度がない作品が多いなか、二次元表現であってさえ彼女はその壁を越えている。
 
絵を見るワタシから、絵の中にいるワタシになる不思議。こういった絵画は見飽きることがない。
 
でかい絵は飾るところがないし金もないから、絵葉書サイズの作品があればいいのだがw
 
 
 

糸魚川の子供たちに教えたい、昔のジョウバは怖かった!・・・秋祭り

2023年10月25日 07時48分52秒 | 糸魚川自慢
一の宮(天津神社・奴奈川神社)の秋祭りで、ジョウバ(除魔・獅子のこと)が向かいの保育園に乱入して、園児の頭をかじっていた。
頭をかじるのは無病息災と頭がよくなる呪いで、女性の尻をかじると安産祈願だ。口をパカパカ鳴らして歩くのは、バクチクが中国で春節の時に破裂音で魔除けをするのと同じ。
 
私の子供時代のジョウバは乱暴で、顎で頭をひっぱたれるから必死に逃げまわっていたのだが、いまはビビりつつも「かわいい~」って言われていた。
 
ジョウバに塗られたウルシと装束の麻の匂いを嗅ぐと、私の世代は祭りの祝祭モードにはいる。いい匂いだ。今の子供たちはどうなのだろう?
 
少子高齢化の人口減少で氏子も減ってきているようだ。願わくば子々孫々と祭りが継承されて欲しい。
 
春の例大祭「けんか祭り」まで半年。待ち遠しい。
 
 
 
 

勾玉は祈りのカタチ・・・高砂貝塚出土の親子の遺骨に副葬された胎児形勾玉

2023年10月24日 06時58分49秒 | ヒスイ
洞爺湖町の高砂貝塚から出土した人骨は、妊娠痕のある成年女性の遺骨で、40週目の胎児の骨を抱くような状態で出土しており、出産時に母子ともども亡くなった方と推測されている。
(写真の骨はレプリカで実物は札幌医大で保管)
 
遺骨の上には大量のベンガラ(酸化第二鉄由来の赤い顔料)が撒かれ、腰の所にヒスイ勾玉が副葬されていたので、かなり特別な女性であったようだ。長期間にわたり冷たい水が耳にはいってできる外耳道骨腫の痕跡もあるそうなので、海女さんのリーダーであったものか?
わたしの目をひいたのが勾玉のカタチと色である。額部と腹部に4つの刻みがあり、いかにも胎児っぽい。
 
そして色は縄文時代には珍しい深緑系のヒスイで、弥生時代中期の北部九州で出土するロウカン質のヒスイ勾玉に近い。
 
この特異な勾玉とそっくりなのが、新潟県村上市の元屋敷遺跡出土の連珠になった勾玉で、深緑系のヒスイ勾玉は東北地方でみたことはないことも、北海道と元屋敷遺跡の密接な関係を感じる理由のひとつだ。ただし元屋敷遺跡は後期で高砂貝塚は晩期。最大で1,000年の時代差があるので、ここは慎重にw。
元屋敷遺跡出土の連珠。下段からふたつ目、右から2点目の勾玉に似ている。全体的に白っぽいのは、原石に熱を加えて割り易くした痕跡か?
 
勾玉は切ない人の想いを託した依り代、祈りのカタチ。お気軽なアクセサリーなんかじゃなかった。
 
ヒスイ職人として忘れちゃならないこと。
 
 
 

弥生のイズモがヒスイほしくて縄文のヌナカワを侵略!?・・・梅原猛著「日本の霊性」

2023年10月22日 10時11分06秒 | ぬなかわ姫
哲学者の梅原猛さんは糸魚川探訪記で、ヌナカワ姫の伝説を詳細に調べたていたらしい。
弥生文化のイズモ勢力がヒスイ交易権を欲しいがために、縄文文化を継承するヌナカワの里に侵略戦争をして、ヌナカワ姫はその犠牲者だろうと見解をしておられるが、これは戦前までの糸魚川の郷土史家たちの見解と同じで「西頸城郡誌」でも読んだのだろうか?
 
古い日本の文化をアイヌ語で読み解くなどして言語学者から批判されたこともあったが、梅原さんの文献史学面での公平無私さは評価したい。
 
しかし考古学面ではムムム!という記述が多く、寺地遺跡も探訪して、ウッドサークルとストーンサークルを併せ持つ稀有な遺跡と書いておられますが、あれはサークル状に繋がっておらず、4本の木柱列と不定形の配石遺構なのですぞw
 
ヒスイについては、中国の玉文化を「奇しくも長者ヶ原遺跡と同時代のヒスイ文化」と軟玉ヒスイと硬玉ヒスイを混同して書いておられるが、中沢新一著「アースダイバー神社編」のように妄想だけで書いている訳ではなく、国語辞典ほどの厚みがある「史跡寺地遺跡」を読んだ上で、実際に探訪している点も評価したい。竪穴住居の玄関を這って出る時のエビス顔がキュート。
 
縄文について著作のある詩人の宗左近や岡本太郎なども、「私はそう感じる」と個人的な感想を書いている点は好ましいし、考古学面で多少の勘違いはあってもご愛敬。むしろ異分野からの縄文論は意外性と多様性が得られて面白い。
 
中沢新一のように史実を切り張りしてつくった創作を、あたかも史実のように断言するのとはレベルが違いますな。
 
 
 

 


縄文のヒスイ勾玉は各地で二次加工、三次加工された説?!・・・千歳市「美々遺跡の勾玉」

2023年10月21日 11時05分37秒 | 縄文
千歳の美々遺跡出土のヒスイ装身具は、ヒスイ職人として勾玉探偵の好奇心をムクムクと刺激する。
「北海道埋蔵文化財センター」に展示されている美々遺跡の玉類。ここの展示室は1室しかないが非常に濃密な内容でおススメ。
 
例えば二つの紐孔がある勾玉の下部にコブ状の出っ張りがあるが、これはカタチにとらわれてはダメで、綺麗な部分を残したかった結果ではないか?わたしが異形勾玉を作る時の理由がそうなのだ。研磨も縄文時代の勾玉とは思えないほど丁寧で、まるで弥生中期の勾玉のようだ。
このオタマジャクシみたいな勾玉は底が平らで、そっくりな勾玉をつくったことがある。この時はもっと大型の勾玉製作中に節理が発達して頭部~尾部に斜めに割れてしまい、しかたなく裏側の割れ目を平面に成形して尾部の短い形状になった。もしやこの製作者も同じ理由から?
写真の左から二点目の垂飾(すいしょく・小型装身具)は、紐孔が穿孔途中の未成品だが、土壙墓(どこうぼ・墓穴)から出土しており、ヒスイそのものが副葬されていることに注目している。
 
美々遺跡と同時代で大量のヒスイ装身具が出土しているのは、新潟県村上市の元屋敷遺跡だ。
元屋敷遺跡出土の装身具類。研磨が美々遺跡の勾玉より粗く形状も素朴な印象。「朝日・縄文の里」の展示品
元屋敷遺跡の白眉が連珠。縄文時代を通じて140点をこえるヒスイ装身具が出土して、国内二番目の出土量だそう。学芸員さんに一番はどこ?と聞いたら知らないと言われたが、晩期の朝日山遺跡かな?
 
ちょっと後の晩期になって青森市の朝日山遺跡からも大量に出土しているが、この二つの遺跡の勾玉の形状とサイズ、研磨の度合いも似た印象。
 
そして斑(フ・白っぽい不純物)が混じっていることを厭わない点と、美々遺跡の勾玉より研磨が粗いという点も共通している。
 
その点は美々遺跡の勾玉はやや小型・斑を避けている・光沢がでるまで丁寧に研磨されている・形状も上記二つとは違う系譜のようで独自性を感じる。
 
そしてこれらから遺跡からはヒスイ加工の遺構が発見されていないが、ヒスイ加工遺跡と確認できるかの条件は以下の出土だ。
①原石
②未成品
③砥石
④加工時に発生するヒスイの剥片
しかしながら、①~④まで揃っている糸魚川の遺跡から完成品の出土が極端に少ないのは何故だ?なにがしかの禁忌も考えられるが・・・。
 
北海道旅の間にこれらのプロットの整合性を考えてきたが、運転しながらある仮説を閃いた。
 
糸魚川では原石の粗い加工と若干の勾玉つくりはしていたにしても、交易品として運ばれた先で二次加工、あるいは三次加工されていたのではないか?
 
ある程度は加工された勾玉や、剥片から装身具をつくるなら、糸魚川のように特殊な砥石(手取層群の砂岩)がなくとも、どこの遺跡からも大量に出土する石皿を砥石にすればいいのでは?磨製石器用の砥石でだってつくれると思う。
 
これだと未加工の原石や剥片(フレーク)が出土しなくても加工地であったとい説明はつく・・・のでは?
 
この仮説だと、元屋敷遺跡より美々遺跡の勾玉が小型で綺麗に研磨されているという部分に納得がいく。
 
実のところ、わたしは粗製の勾玉や石笛をつくり替えて欲しいと頼まれることがあり、当然ながら二次加工すると斑部分を削りとるのでスマートで小型化される。
 
つまり糸魚川で粗加工された原石や剥片が、元屋敷遺跡に運ばれて二次加工されて完成品となり、それが美々遺跡に運ばれて三次加工されて、美々の縄文人の好みに合わせて斑の部分を削りとった結果、小型化・独特の形状となった?
 
この仮説はあくまでもヒスイ職人としての現場感覚によるものであって、考古学的な考察ではない。二次加工の痕跡も発見できないし、新たな証拠の発見も国指定遺跡という点もあってないだろう。
 
二次加工、三次加工の証拠はでないから、勾玉探偵のたわごととして埋もれるだろうねw
 
 
 
 

博物館の目玉がミュージアムショップなワタシ・・・縄文グッズさまざま

2023年10月20日 07時56分28秒 | 縄文
博物館にはいったら最初にミュージアムショップを物色するワタシ。
環状列石のマグカップの蓋はウケたけど1,540円は高いぞw
「縄文ファンの皆様に大好評♪」とある遮光器土偶メガネが2,420円もちと高く、これなら自分でつくる( ´艸`)
で買ったのが、遮光器土偶・板状土偶・笑う岩偶の起き上がりこぼし各660円也。デフォルメされたデザインと民具を組み合わせた発想に座布団いちまい!縄文仲間の土産用に納得の値段。やはり遮光器土偶がいちばん売れているそう。
キーホルダーは遮光器土偶そのままのデザインに面白味が感じられなく、わたしの趣味ではなかった。申し訳ない。
 
 
浅間縄文ミュージアムなどは、関係者がつくったかわいい土偶を安く販売していて、同好者へのリスペクトもあって買ってしまうのだけど、値ごろ感とは共感のことですな。
 
 
 

青森の縄文遺跡でカワサキ舟模型を発見・・・赤羽正春先生を偲ぶ

2023年10月19日 07時58分27秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画

大正時代に糸魚川の漁民が北海道に移住した時の「カワサキ船」の模型は、新潟県村上市の民俗博物館に1点しか確認されていないので観にきなさいと教えてくれたのは、和船とシャケ漁の権威の赤羽正春先生。

地元の博物館に説明なしで展示されていた模型の写真を先生におくったら、二点目のカワサキ船の発見だと喜んでおられた。
 
そして北海道・青森の縄文世界遺産群めぐりの旅で、最古の土器が出土した青森県の「大平山元遺跡」の展示室で、カワサキ船の模型を二点みつけた。
しかも艤装が西洋帆船のスクーナーをモデルにした「合いの子舟」で、この艤装のお陰で風上にも進めたので冬の海でも遭難しにくくなってタラ漁ができたし、糸魚川~北海道まで6日間で渡れたのであり、これは貴重な文化遺産だ。
 
展示室の管理人はカワサキ舟のたんたるかを知らず、元は青森市の「みちのく北方漁船博物館」の展示品であったが、3・11の津波で被害をうけてこの展示室で展示することになったと教えてくれた。
こちらは和式の艤装をもつ全長7mのカワサキ船で、糸魚川の漁民が北海道に渡ったのはこのサイズでスクーナー式の艤装ではなかったか?
江戸時代の越前でうまれたカワサキ舟は優れた船型から各地で派生型がつくらた。赤羽先生なら水押しをみて、どの地域の影響をうけたカワサキ船かが解るはず。
思わぬ発見に興奮して赤羽先生に電話をしたら、初夏にお亡くなりになったと遺族から伝えられた。
 
青森から沿岸を南下して、村上市のご自宅を訪ねようと思っていたのだけど、疑問に答えてくれ、発見の喜びを分かち合える師匠がいなくなって淋しい。ご冥福をお祈りいたします。