縄文人(見習い)の糸魚川発!

ヒスイの故郷、糸魚川のヒスイ職人が、縄文・整体・自然農法をライフワークに情報発信!

「海のヒスイロード」…新潟市に到達

2014年05月22日 10時08分33秒 | 日本海縄文カヌープロジェクト


シーカヤックの旅に出て二週間が過ぎた。
現在は新潟市の角田浜で天候回復待ちをしている。

強風やウネリで海に出られないのは半分位。
ビギナーなら無理という、かなりな強風やウネリでも海に出てさえそうなのだ。


対馬海流に乗れば簡単に青森に行ける、或いは沿岸航海なら無理がないという説に、ますますそんな簡単じゃないよと思えてきた。

柏崎までは現地のサーファーや漁師に話を聞くと、沿岸の潮の流れは西に向う上り潮が多い傾向があり、青森とは逆の北風も多いというし、私も実感している。

西風の時は、波も高くなる傾向があり、また斜め後ろから掘れた大波がくるので、針路を保つのに苦労する。
またその様な海況では、上陸も海に出る事も困難。

手漕ぎに限定すれば、丸木舟は鈍重なので、シーカヤック以上にそのハードルは高くなる。

波穏やかで無風状態といシーカヤック日和は、何日も無かった。

しかし角田浜の元漁師の話では、西からの下げ潮が多い傾向があるとの事で、これは能登半島と佐渡との位置関係だろうと思う。

つまり地域によって海が違うのであり、一概に対馬海流に乗れば簡単とは言えない事になる。

さてさて、フェイスブックでは毎日更新しているけど、ブログ用に写真を纏めてアップする事にしますので、ご笑覧下さいな。


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暴風雨の為に四泊五日もした大河津分水河口。
弥彦山に祀られた神は海からやって来た神様である。


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分水に停滞している時に毎晩通った太古の湯。
山川支配人からは、スマホの充電や差入れまでして頂いたりお世話になりました。


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糸魚川からは、赤野自動車塗装板金一家と長瀬さんが陣中見舞いに。


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無邪気に遊ぶ子供達に癒やされる。


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往暴風雨が収まってきたので、往復六時間歩いて弥彦神社に参拝。起源はヤマトの越後鎮守の為の橋頭堡的な立場であつたようだが、海からよく見えるので縄文時代からも信仰の対象では無かったかと思う。


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同じ場所に長く滞在すると、落ちている物で家具らしい物を工夫して遊ぶ。最後には住み心地は良くて、名残り惜しくなった。


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度重なる暴風雨でテントが限界。
時には廃屋で野宿もする。

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現在は角田浜の民宿福助さんにお世話になっている。
事情を聞いて、組合の協定価格の半額で素泊りにしてくれた上に蟹や野菜、果物の差入れまで頂く。
女将さんがデザートに庭先夏ミカンをくれが、新潟で夏ミカンが成るという事を初めて知った。
小さい温州蜜柑も成るそうだが、温州蜜柑の北限が糸魚川と聞いていたのに、どうなつているんだろう?









「海のヒスイロード」…大河津分水に到達

2014年05月17日 11時31分49秒 | 日本海縄文カヌープロジェクト


「海のヒスイロード」シーカヤックの海旅は、柏崎で多くの出逢いと想い出を作って、出雲崎、寺泊を超えて大河津分水河口に到達。


しかし西風15m,西ウネリ3mに加えて大雨という天候で、二日間もテントに閉じ込めれている。

出発してから10間で、柏崎市笠島と合わせて二度目の暴風雨で海に出るのは出られたのは6日だ。

青森までヒスイを運んだ縄文人は、対馬海流を利用していたと多くの人が言うが、潮やウネリは青森方向とは逆な事が多いと実感しているし、行く先々でサーファーや漁師に聞いても同じ事を聞く。

佐渡を超えたらどうなるか楽しみ。

分水河口は、新潟にこんな場所があったのかという位な人里離れた砂浜で、河岸を遡って15分程歩かないと人家が無いのだ。
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テントが吹き飛ばされそうな分水河口。
ついに弥彦山が目前になった。
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波打ち際が迫ってきたので、何度がテントもカヤックも高台移転。逃げ場が無い砂浜だから、少しづつ海が引いていってくれたので安堵。

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西ウネリがグチャグチャの分水河口。
丸木舟もシーカヤックも岸で1mの波があると出すのは無理。

明日の天気は少しは回復しそうだか、無理は禁物。
体力的にはまったく問題なく、心配なのは度重なる暴風雨でテントが傷んできた事だ。

雨漏りもそうだが、骨組みのポールのスリーブが割れて、テープで保たせているのだ。

幸いな事にモンベルさんの協力で、新品のテントを新潟で受取る手筈も付いた。
新潟市まであと二日の距離。
なんとか工夫してテントを持たせるしかない。

さて、以下は今回の旅でのスナップ。
ご笑覧して下さいな。
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笠島で会った御年84歳の山田さんは、80歳まで現役の海女だったそう( ゜д゜)。
柏崎に海女がいた事を初めて知ったが、今もかなり海女がいてワカメを採っているそうだ。

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同じワカメ漁でも、砂浜の寺泊山田海岸では、打ち上げられたワカメを採っていた。
美味しぃよ~と、採れたてワカメと、バナナを差入れてくれた。

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ワカメは拾うだけではなく、腰まで海に浸かって採るが、冷たい海水にウエットスーツ無しだった。
こんなワカメ漁の実態を知ると、たかがワカメと言えなくなる。

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頂いたワカメは海水で洗って、お袋手製の朝鮮味噌で激辛ラーメンや味噌汁を作って食った。
サクサクコリコリして美味い!

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出雲崎は北前船貿易で栄えた宿場。
今も往時のまま、古い妻入り民家が並ぶ。
赤茶色の外壁が多いのは、京風にベンガラを塗っていた名残りだろう。

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荒海や 佐渡に横たう 天之川
芭蕉が詠んだ出雲崎は、良寛さんの生地でもある。
横から見た良寛さんは、整体の身体観たと六種体癖の典型で、詩歌と子供相手に遊んだ良寛さんの人生を雄弁に物語っている。

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出雲崎の浜で椰子の実を見つけた。
金波銀波の波越えて、流れつきし越しの国。
なんマイルの旅を続けて来たのだろう?

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誰かが置いたか、防波堤に華ひとつ。
五万年も前のネアンデルタールも死者に華を手向けた痕跡があるそうだ。
人類は、死者に華を手向け、死者と語らう。










原子と原始の共存する海

2014年05月13日 15時44分40秒 | 日本海縄文カヌープロジェクト
巨大な柏崎港と柏崎刈羽原発を通過。

キャンプ地を探す為に海岸スレスレを漕いでいたら、踊りながら唄う裸足の女に声を掛けられた。
 
どこ行くの?
青森!と浜と海から大声で会話したら、これからこの高台にあるカフェでライブがあるから来ないか?と誘われた。

こんな時は流れに乗るのが旅の醍醐味だ。

彼女の案内でライブ会場の∪micafe DONAに案内される道すがら、今晩の出演者は、彼女の他に、奇遇にも糸魚川の仲間から招待されていたけども旅先なので参加出来なかったJunnosさんだと聞いた。

彼女は、Hokaちやんという地元出身の放浪の唄姫との事で、浜で唄っていたのは、リハーサルだったらしい。

カフェのオーナーの柘植夫婦の好意で、敷地にテントも張らせて貰えた。
いい流れ。

ライブの合間に私の海旅トークもする事になった。


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Hokaちやん

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Junnosさん。

翌朝はグチャグチャの西風とウネリで海に出るのは危険なので休養日にしたが、カフェから柏崎のサーフポイントとして有名な大湊海岸でサーファーが何人か波乗りしているのが見えた。

原発の僅か4キロ東である。
ここに来る前にシーカヤックで通過した時も、透明な海水の下にホンダワラの林とリーフがよく見えて、トトロの様に森の上空を飛んでいるような感じがした。


原子と原始が共存している風景。
Hokaちやんのお父さんと柘植さんも原発で働いてるのだ。
他所者が気軽に原発を語れない土地なのだ。

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「海のヒスイ・ロード」・・・針路東ヨーソロ!

2014年05月09日 23時18分30秒 | 日本海縄文カヌープロジェクト


5月7日午前8時35分・・・天気晴朗なれど多少北ウネリのある
居多ケ浜を出航。
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当日朝6時の黒姫山・・・五千年前の縄文人もこの雄姿に別れを告げて出航したかと思うと感慨深い。

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着替え、キャンプ道具、生活道具一切積み込んでいく。糠床まで積んでいる!


平日にも関わらず友達の見送りを受けて格好いいところを見せたかったが、ウネリが結構あったので、ウネリを越えるたびにコックピットに海水がジャバジャバ入ってきた。

シーカヤックには浸水防止のスプレーカバーを取り付けるが、カバーを掛けるには漕ぐのを休まなければいけないので、波の無いところまでひたすら我慢するしかないのだ。

沖に出てから海水を汲出し、カバーを掛けて針路を北東にとった。

最初の難関は沖合1キロ以上も突き出した直江津港の港湾施設。
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出航地の居多ケ浜。
去年は糸魚川市能生からここまで丸木舟航海をしたので、今年はここから東を目指す。遠くに直江津港と米山が見える。



直江津港沖まで向い風に喘ぎながら1時間で到達・・・ここら辺から北ウネリが1~1.5mとなって北東風も5m近く吹き、白波もグチャグチャに立ち始めた。
防波堤に当たった北ウネリが跳ね返った「反射波」も加わって酷い海。
慎重にウネリを読みながら針路を取っていく。

こんな時は、ご先祖様~とすがりたくなる。
南無大師遍照金剛・南無阿弥陀仏・南無妙法蓮華教・オムマニペメフム・アッラーエークバル・オムナモシワイ・アベマリア・・・知っている限りのマントラを唱えてひたすら漕ぎ続ける。

漕ぎ続けるしかないのだ。
恐怖心から漕ぐのを止めると、推進力を失ったシーカヤックは波のなすがままとなって転覆する可能性が高くなる。
生きたかったら漕ぐ。


敬愛する伝説のサーファー、ジェリー・ロペスの名言「Keep paddling!」が身に染みるし、戦国武将が禅宗や真言宗、浄土真宗に挙って帰依した気持ちがよく分かる。


私は宮本武蔵の「神仏を尊び神仏を頼まず」という信仰心と同じスタンスだけど、ちっぽけな人間が大自然の中に放り出された時、人は自ずから敬虔な気持ちになるのだろう。



本当は関川河口の写真を撮りたかったが、河口は北東を向いており撮影するには通り過ぎてから後ろ向きにしか撮影できず、とてもじゃないけど漕ぐ手を休めて後ろを振り返るなんてことができない状況だった。


何故、関川河口の写真を撮りたかったというと、上流5キロの右岸に縄文中期(五千~四千年前)のヒスイ出土地である「山屋敷遺跡」があるのだ。

また、更に高田平野まで内陸を遡った「釜蓋遺跡・吹上遺跡」という国指定の弥生時代国内最大のヒスイ加工集落群もある。

つまり太古の上越地域へのヒスイ運搬には、明らかに日本海から関川を遡上していた形跡があるのである。






直江津港の防波堤内に入ったら嘘のように凪となり、鏡のような静かな海面の向こうに米山が見えた!
まさしく前途洋々の眺望。
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直江津港港内。遠くに見えるのが柏崎市との境にある米山。



港外では向い風とウネリに邪魔されて平均速度3キロ程度だったが、港湾内では9・4キロを記録。

上越市の鵜の浜温泉海水浴場に上陸してキャンプ。
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鵜の浜温泉のある雁子浜は、小川未明の「人魚と赤い蝋燭」のモデルになった伝説の地。
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よくできた銅像で、生きているようでキャンプしていて気になった。
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上越市の朝日池総合農場の若大将が遊びに来てくれた。
初日は漕行距離16・8キロ。平均速度3・8キロ


翌日も快晴で北ウネリと北の微風。

朝10時くらいから東寄りの北風が3mとなり、北ウネリと相まって何かを引きずっているような重い走りで平均速度2~3キロ台。

 


昼過ぎに聖ケ鼻という半島が見えてきた。
いよいよ柏崎市に入ったのだ。

 

聖ケ鼻手前2キロくらいから、半島のブランケ(ブランケット・・・覆いという意味のヨット用語)に入って北風が入らなくなり、急に速度が上がる。
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左端が聖ケ鼻。この手前から北風が無くなった。
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聖ケ鼻は静かで綺麗な入り江でキャンプしたかったが、北風は遮れても西風をモロに受ける地形であり、夜から西の暴風という予報であり、後ろ髪を引かれる思いで4キロ先の牛ケ首という半島の東にある笠島海水浴場を目指した。


そうか!半島の陰に入れば向い風でも楽に漕げるんだ!と発見。
おそらく縄文人も北風の時は聖ケ鼻の陰に入って漕いだに違いないと確信する。

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聖ケ鼻を海から見ると豪快な景色。潜ると絶対に面白いだろう。

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中央の岩が牛が首。ここは海中トンネルがあって海の中は竜宮城の光景だ



一時間漕いで笠島海水浴場に上陸。

二日目は漕行距離17・41キロ。平均速度3・5キロ


テントを張って寝ていると、夜中に尋常ではない海鳴りに目覚めて表に出たら、ホワイトアウト状態の暴風雨。

テントのペグが抜けて、フライシートが捲れかかっていた!

ずぶ濡れになって大きな石を集めてペグの重しにしたが、テントが何時吹飛ぶか分からない状態だったので、覚悟を決めて雨具を着たまま寝袋に入った。

翌朝は惨憺たる光景で、テントが破けて風で色々なものが飛ばされてまるで被災地のよう。
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笠島漁港の入口の岩場の弁天堂。
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厚着してもまだ寒い。これでは一度糸魚川に帰って身支度を整えるしかない。

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シーカヤックは笠島に置いたまま、友人のヒデチャに車で迎えに来てもらった。
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米山を越えて上越市に入ると嘘のように天気が良かった。
糸魚川市に入るとまるで南国みたいに温かかった。やっぱり故郷はいい。


ここ数日は海が時化のようだし、これから先の長旅に備えて器材の修理や準備のために一時糸魚川に帰ることにした。

準備を整えて海が穏やかになったら再挑戦。
「Keep paddling!」



*航海の様子は、フェイスブック(山田修)でマメにアップしています。


待てば海路の日和あり・・・丸木舟のひび割れ対策

2014年05月05日 21時20分28秒 | 日本海縄文カヌープロジェクト



ここ数日の糸魚川の海は沖に白波が砕け、風もビュービューと吹く状態

新潟県内の東部は遠浅の砂浜もあるが、西部の上越地方は海岸段丘が発達しており、天気予報で沖合の波1mと予報されれば、シーカヤックの出艇が難しくなる。

おまけに初日のキャンプ予定地の上下浜で痛ましい海難事故まであったから、「海のヒスイ・ロード」航海実験は海況の回復待ち状態である。


準備に追われて立眩みするような体調だったから、これ幸いと休息に努めたいのだが、何時かやらなきゃと気を揉んでいた丸木舟のひび割れ対策に精を出す。


ひび割れは二隻目の明星丸が深刻だ。
只で貰った針葉樹のメタセコイヤで作った丸木舟で、最初から芯割れしていたので覚悟はしていたものの、ひび割れ対策
でイタチゴッコをしているのだ。
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能生町に置いてある明星丸(全長5.5m)
メタセコイヤは桐のように軽くて柔らかい樹種で、含水量が多いので丸木舟には向いていないようだ。
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乾燥防止に船内に水をれておいたら、ひび割れから水漏れしているのを発見。
ひび割れは
木目が粗くて軽い右舷に集中していた。


今回のひび割れ対策にはチキリを入れた。
チキリとは樫やケヤキなどの硬い材木で蝶々の形に作った板材を、ひび割れさせたくない部分に埋め込んで動きを最小限に止める方法である。
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ケヤキ板に墨出ししてから切断するが、小さいチキリを沢山作るのでこの段階でバラしてしまうと後の仕事が面倒・・・寸止めでバラバラにならないように工夫した。

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細長い板状にした材木をバイス(万力)固定して、鋸でラフに切り取っていく。
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鋸で切り取ったあとはノミで仕上げ。最後に鋸で切り離す。
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チキリに合わせて丸木舟のひび割れ箇所に切り込みを入れて木工用ボンドを塗ってチキリを叩き込む。
柔らかい木なので、ノミを砥いでないとボサボサに毛羽立ってえらいことになる。
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木工用ボンドが乾いたら、鋸で出っ張ったチキリを切り取り、ノミで仕上げて平らに均す。
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ひび割れにエポキシパテを充填。この後に鉋をかければ綺麗になる。


沖縄の伝統木造漁船「サバニ」の名人船大工として知られる、新城康弘さんを記録した「潮を開く舟 サバニ」をテキストにして、チキリの寸法などを参考にした。

因みに沖縄のサバニ大工はチキリではなく、フンドー(分銅)というそうだ。
チキリの寸法は幅八寸(24㎜)×高さ一寸六部(48㎜)

今回は14個製作。
青森から帰ったら、まだ作らないと・・・疲れた。

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「海のヒスイ・ロード」・・・序章

2014年05月04日 10時24分00秒 | ぬなかわヒスイ工房



子供の頃にNHKで「シルクロード」という番組が大ヒットした。

その続編番組が「海のシルクロード」で、絹の海上伝播ルートを辿る内容。

この番組の古代中国産の絹の陸と海の伝播ルート図式を、縄文時代の糸魚川のヒスイに当てはめることができる。


即ち、現在の国道148号線の旧道から信州方面に運び込まれた「陸のヒスイロード」と、日本海から東北や北陸方面に運び込まれた「海のヒスイ・ロード」である。


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「海のヒスイ・ロード」の出発点の長者ケ原遺跡。
ここから全てが始まった。



現在の最古のヒスイ製品の出土品は、縄文時代前期(六千~五千年前)の山梨県北杜市大泉村の天神遺跡のヒスイ大珠である。
ただしヒスイ製品ではなく、ハンマーとして使われたらしいヒスイ製の道具ならもう少し古い出土例がある。
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ネット画像でアップした天神遺跡のヒスイ大珠
奇遇にも私が脱サラして自然農法を学ぶために居候させて貰ったのが、北杜市のM農園で、遺跡のすぐ近く。


天神遺跡のヒスイが陸路から運ばれたのは間違いないが、糸魚川から国道148号線の旧道・・・後年、上杉謙信が甲斐に塩を送った「塩の道」として有名になる・・・から運び込まれたとは限らない。

海から東隣の上越市を経由して、関川を遡って信州方面に運び込まれていった可能性だってあると思う。



同じく前期(六千~五千年前)には、青森県の遺跡からも糸魚川ヒスイが出土しており、中期(五千~四千年前)になると同じく青森の三内丸山遺跡からヒスイが大量に出土するようになる。




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長者ケ原遺跡東から日本海に降りる山道「十二曲がり」。
糸魚川市教育委員会の学芸員さんはヒスイの海上ルートについて、長者ケ原遺跡で加工されたヒスイは、十二曲がりを下って現在の一の宮(天津神社・奴奈川神社)の所にあった集落へ運ばれて日本海に出たのではないかと推測されている。

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糸魚川一の宮(
天津神社・奴奈川神社)
この周辺には縄文時代の集落跡があったそうである。

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一の宮境内の参道入り口(北側)には瓢箪池があり、縄文時代には瓢箪池から北が沼地のようになって城の川に繋がっていたであろうと推測され、この集落から丸木舟を出して日本海へ出たのであろうというもの。
五千年前の瓢箪池の周囲には、丸木舟が並んでいたのかも知れない。

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糸魚川駅前通りから日本海をのぞむ。
城の川には糸魚川市の名の由来である、イトヨという細い糸状の背鰭を持つ小魚が棲んでいたそうだ。
街の中心地を流れる川にイトヨが棲んでいたから、イトイガワという地名になったと小学校の時に習った。

昔は城の川の両側が柳並道になっていて風情があったそうだが、残念ながら964年の東京オリンピックを機会に暗渠化されて、現在は駅前通りになっている。

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海から観た城の川河口。

長者ケ原遺跡から十二曲がりを経て日本海までの区間を車で走るとほぼ4キロこの河口が「海のヒスイ・ロード」の出発点である。
この辺の詳細は、私のホームページに詳しく書いたので、ご興味ある方はご照覧のほどを。

縄文時間  http://www9.ocn.ne.jp/~nunakawa



縄文時代に限定すれば、途中の山形や秋田からはヒスイの出土が少ないことと、ヒスイ出土遺跡は沿岸や大きな河川沿いの遺跡に多いので、恐らく海から丸木舟に乗せて運んでいたのだろう、と推測されている。


しかしそれらは状況証拠からの学説でしかない。

糸魚川からどのような海上ルートでヒスイが運ばれていたのか?
どんな丸木舟が使われていたのか?
実際に検証してみたくて、5年前のUターン帰郷時に「日本海縄文カヌープロジェクト」という活動を始めた。

これまで二隻の丸木舟を作って色々実験してきたのだ。

実際に航海実験も二回に分けてやっており、その結果は以下。

①糸魚川市「城の川」河口~能生町弁天岩間 (2013年8月13日実施)

距離;15.13キロ

*ただしこの区間の沿岸はテトラポットが積まれていて丸木舟が降ろせないので、SUP(スタンドアップ・パドル・ボード)による手漕ぎ記録

②能生町「弁天岩」~上越市「居多ケ浜」間 
(2013年5月25日実施)

距離;26.6キロ


対馬海流に乗れば簡単に青森まで行けるという人もいるが、実際に丸木舟を漕いでみるとそう簡単ではないことが解る。

能登半島と佐渡の影響らしいが、糸魚川沿岸は対馬海流とは反対の西に流れる潮(上り潮)のことのほうが多いのだ。
ただし親不知から西はそうでもなく、市振の漁師は対馬海流と同じく下げ潮・・・北上する潮・・・が多いと聞く。


状況証拠だけを寄せ集めて四の五の言っても仕方あるまい。

ここはひとつ実際に漕いで確かめてみようと思う。
そこでシーカヤックによる青森までの航海をやってみることになった。


本当は丸木舟で実験したいのだけど、丸木舟航海には人手もお金もかかる。
手弁当の市民団体には無理な話。

なぜなら糸魚川市から青森の三内丸山遺跡までGPS計測で648・3キロもあり、
実際に漕げば800キロ近くになるだろう。
順調に航海できても二ヶ月は必要だ。
田舎には二ヶ月も仕事を休んで道楽に協力してくれる人なんかいない。

だからシーカヤックで下調べしてみる必要があるのだ。

ここ数日は気圧の谷がやってきてウネリが高く風も強い。

待てば海路の日よりあり・・・。
























糸魚川の隠れ名所・・・郷愁の旧筒石漁港

2014年05月02日 23時30分08秒 | 失われゆく風景



以前にエキサイトブログでも紹介したのだけど、こないだフェイスブックで古い筒石漁港を紹介したら反響が高かったので、OCNブログでもアップ。


私が糸魚川市で一番好きな場所で、他県のお客さんが来ると必ず連れて行くのが今は使われていない古い筒石漁港である。

流木をそのまま使って作ったような野趣あふれる大雑把さが魅力で、夏の夕方にここで腰を下ろして読書したり夕焼けを眺めるのは乙なもの。

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舟小屋のすぐ後ろが国道8号線。

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丹後半島の伊根湾にはもっと凄い舟屋群があるけど、筒石漁港は内海ではなく、いきなり日本海の荒海が広がっている人の住まない舟小屋である。


目の前の海はあくまでも透明で、海の中はまるで竜宮城だ。
朽ち果ててはいるが、舟釘を打った伝統的な和船や櫓も置いてあるので、民俗学ファンも唸らずにはいられない。


残念ながら、これほど素晴らしい場所なのに、糸魚川の人でここの魅力を感じている人は少ないようだ。
夏の旧筒石漁港の海で潜ったりキャンプして遊んでいるのは信州の人ばかり。

青年会議所の人を案内したら存在さえ知らなかったのだ。

 

なぜ存在を知らないかというと、交通量の多い国道8号線のすぐ下にあるから気付かないらしい。

私の場合は海と船が好きだし、民俗学的野次馬根性が強いから車で通る度に気になっていて、5年前にUターン帰郷してから浜に降りてその素晴らしさに気付いたのである。

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基礎コンクリートに注目!
波板トタンで生コンの型を作っている・・・この大雑把さがたまらない。


かっては筒石の集落のなかを国道8号線が通っていたらしいが、交通量が多くなって随分前に国道を海岸沿いに移動した機会に漁港をそのままにして、西に新しい近代的な漁港を作ったとのこと。

糸魚川市街地の浜もそうだが、国道が海岸に移設されると気軽に国道を横断して浜に降りていくことができなくなり、海からの距離ができてしまうようだ。
急激に進んだ海岸浸食で、テトラポットで浜が埋め尽くされたのも要因の一つ。

糸魚川人にとって海は近くて遠い存在になってしまった。
我々の祖先は、五千年も前に丸木舟にヒスイを積んで各地に運んでいた海洋民だったのにねえ・・・。

観光パンフレットにも載っていないのは勿体ない。

知人の外国人も観光スポットになるよ~って言ってた。

ヒスイ関連でパワースポットを糸魚川のウリにするのもいいけど、ヒスイだけが糸魚川の魅力じゃないぜ!