糸魚川産のヒスイが五千年前以上も前に丸木舟で青森まで運ばれたとする学説を検証する目的で、日本海縄文カヌープロジェクトという市民団体を始めて三年になる。
縄文時代から古墳時代まで糸魚川ヒスイは各地に運び出されていったが、陸路と海路がありそうだ。個人的に海路を「海のヒスイ・ロード」と呼んでいる。
現在の城の川河口。名前は知っていても糸魚川市民の大部分は河口を見たことが無いだろう。
すでに勾丸木舟を二隻作って、今年の五月には糸魚川市能生町~隣の上越市までの25キロ間の航海を成功させた。
しかし、ヒスイの海上運搬ルートの起点が能生町と推測されている訳ではない。
某考古学者は、市内を見下ろす高台にある「長者ケ原遺跡」で加工されたヒスイは、十二曲がりという山道を経て、市役所横にある一の宮(天津神社・奴奈川神社)にあった集落まで陸路で運びこまれた、と推測しているそうだ。
室町時代以前の一の宮周辺は、日本海側が2m前後落ちた岬状に突き出た台地であったらしい。
江戸時代になって一の宮の西隣に「清崎城」が建てられ、・・・糸魚川は一万二千石の城下町だった・・・岬の周囲が埋め立てられて現在の地形になったとのこと。清崎城のあった場所にはかって糸魚川高校があり、現在は市役所が建っている。
城の川河口の右上に見えるのが黒姫山。ヒスイを運搬したであろうプロト奴奈川族のランドマークだったに違いない。
縄文時代当時の台地の下は湖沼地帯であり、加工されたヒスイはその集落こから「城の川」を経て、日本海に船出したというのがその説だ。俺もごもっともと思う。
集落に面したラグーンには船着き場があり、そこから仲間に見送られて城の川を下って日本海に船出して行った風景を想像すると、ワクワクする。
残念ながら「城の川」は、昭和39年の東京オリンピック景気で暗渠化されて駅前通りになっている。湖沼地帯も「三反田」という沼地を連想させる住宅街の地名に名残を見るだけだ。
城の川の東方面。能生・名立・上越と続き、その北の果てには青森が待っている。
上越市までの航海の出発点をなぜ、城の川から東に20キロ離れた能生町にしたかというと、現在の「城の川」河口周辺には、テトラポットが並ぶ殺風景な海岸線がづっと続いており、丸木舟が出し入れできるインフラが無いためだ。
8月になったら、城の川~能生町までの航海を予定しているが、丸木舟ではなく、SUP(スタンドアップ・パドル・ボード)での航海だ。
SUPなら身軽だし、1.8キロ東にある押上海岸から漕いで城の川河口まで行くことができる。