縄文人(見習い)の糸魚川発!

ヒスイの故郷、糸魚川のヒスイ職人が、縄文・整体・自然農法をライフワークに情報発信!

子宮、あるいはゆりカゴに揺れる勾玉・・・勾玉の意味するモノ

2017年01月27日 15時30分54秒 | ぬなかわヒスイ工房

試行錯誤しながら作っていた超小型勾玉が、少しづつ売れるようになってきた。

オンラインショップにアップしてあっても、実物を観て貰わないことにはサイズ感やデイティールが伝わらないもの。

有難いことに県外市外の来客が増えたり、色んなイベントにゲストとして呼ばれたりするようになって、実物を観てもらえる機会が増えてきた。

そして「なにこれ!ちょうカワイイ!」と口コミで売れてきたのだ。

新しいモノを作るとすぐにパクられる世界、いっそのこと誰も真似できんものを!と作った試作品で、初めてシルバーを取入れてみた。

ユラユラ揺れます!クルクル回ります!これだけ細かいワイヤーワークはちょっと真似できないでせう。

こんなにちっちゃい!

 

勾玉の意味する処は牙玉由来説、新月由来説、胎児由来説と諸説あるが、私は牙玉を源流として、時の流れと共に新月、胎児と意味を重ねてきたという説をとっている。

縄文時代の勾玉はギャク漫画で描かれるような胎児そのものという形状をしており、弥生時代、古墳時代と時を経て、「定形勾玉」という今日見慣れた勾玉に変遷しているのだ。

そこで胎児らしく、というコンセプトで開発したのが、子宮に浮かぶ胎児、あるいはゆりカゴに揺れる嬰児をイメージした勾玉。

シルバーリングも自作だが、まだ加工は未熟。それでも実物を指に嵌めてみた友人から指輪を作って欲しいと注文が来たので、ムハ~!と調子に乗っている。

次回作はシルバーリングの内側をピカピカの鏡面仕上げにしたいもんだ。

光を通します!

 

石笛もそうだったが、誰も観た事の無いモノをカタチにして世に出す事の出来ることは、職人冥利に尽きる。

そんな事ばかりしていたら、先週はテレビ取材を受けたぞ。

これまでマスコミ取材は縄文文化紹介者としてだったが、今回は初めてヒスイ職人としての取材なので感無量。

2月6日テレビ新潟の「ゆうがた一番」で紹介されますわ。

 

 

 

 

 

 

 

 


「春よ来い」・・・糸魚川駅北火災復興支援コンサート

2017年01月26日 17時54分15秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画

糸魚川市のすぐ隣、富山県朝日町の友人達が、糸魚川駅北火災復興支援コンサートを開催してくれる事になった。

私が被災地でボランティア活動をしていた時のテーマソングが童謡「春よ来い」。

そして、この唄の作詞者は糸魚川出身の歌人・文芸評論家・作詞者・良寛研究家の相馬御風(ソウマ・ギョフウ)で、現存する御風邸は今回の火災でギリギリ被災を免れている。

相馬御風先生・・・尊敬しておるのです!

 

二十代を東京で活躍した御風は、三十代で故郷糸魚川に帰郷して以後は良寛研究に打ち込み、歴史に埋もれていた良寛を歌人・書家として再評価して「大愚良寛」を執筆して世に出したのが、我らが御風先生なのだ。

「春よ来い」は御風が帰郷した後の作詞で、歌詞にある「歩きはじめたみいちゃんが・・・」のみいちゃんとは御風の一人娘の愛称。

御風邸の玄関での、ある冬の日の出来事がモチーフになっているのかも知れない。

現在は糸魚川市の指定文化財として保存されている御風邸の玄関。詳細不明らしいが、もしやこの玄関が「春よ来い」誕生の逸話現場かも?

そんな事を伝え聞いた主催者の水野芳子さんが、「春よ来い」をコンサートのテーマソングにして、全員で合唱してくれるのだそう。この新聞記事はヤフーニュースなどにも転載されている。記事の中の糸魚川市在住の男性とは私の事だが、特にリクエストはしてない(笑)

 

本当に有難い事。

今年ほど春が待ち遠しい年はないが、はやく春が来て欲しい。

 

 


忘れ去られた宝玉・・ネフライト製超小型勾玉

2017年01月24日 08時24分50秒 | ぬなかわヒスイ工房

お得意様からネフライトで超小型勾玉を作って欲しいとのご注文。

意中の女性に誕生日プレゼントしたいのだそうだが、ネフライトという処が有難い。

どうだ参ったか!という5円玉に5個は楽に乗せられるサイズ。(注文品とは別)

 

 

超小型でも紐孔の面取り研磨は拘りどころで、審美眼の鋭いお客様は、この部分に当たる「光が優しい」と嬉しい事を言ってくれる。

 

ネフライトは軟玉ヒスイの事で、一般的に糸魚川ヒスイとして知られる硬玉ヒスイとは別な岩石。

軟玉という名前から柔らかい石だと思われるのだけど、それは「石の傷つき難さ」を表す硬度が硬玉ヒスイより低いという意味で、岩石としての壊れ難さである「堅さ」は硬玉ヒスイの上をいく、と思う。

だから実際にカットしてみると硬玉ヒスイより堅く感じ、あるコツを掴まなければ加工は難しい・・・コツは企業秘密だ(笑)。

微妙なカーブが自然に連続していく、という点も拘りどころ。

滑らかに、滑るように・・・光が流れていくように作り込む。

これだけ小さいとワイヤーワークも大変だが、柔らかいアルミや真鍮、銀、普通の針金ではなく、堅くても耐食性に優れるステンレス製に拘っている。

 

非常に頑丈な岩石ので、近年までパプアニューギニア高地人達はネフライト製の石斧を使っていたくらいで、切れ味と耐久性、それと美しい姿と相まって石斧素材としては最上級ともいえる。

完成した勾玉をヒスイ関係者に見せると「凄いヒスイ!これなら超小型でも5万円でも売れるんじゃない!」と驚かれるのだけど、ネフライトだと正体を明かすと「なんだネフライトか!5,000円がいいとこだなぁ・・・」とガッカリする事を言われる。

硬玉ヒスイより市場価値が低い、というか貴石としての価値は無いという事なのだが「凄い・綺麗」という観た時の感覚より、既存の価値基準で判断されてはかなわん。

素材はなんであれ、「超小型でも・・・」という言い方も面白くないぞ(笑)

実物を観た人はビックリするくらい本当に小さい。

 

5円玉に5個が乗るサイズの超小型勾玉をちゃんとしたカタチのまま鏡面仕上げする技術、完成度を真似できる人、一歩前に出よ!

誰も出てきませんっ!(先輩諸氏、冗談ですよぅ)

しかし「ここまで超小型に作れるのだから、普通のヒスイで作ったほうがお金になるんじゃないの?」という忠告もあって、それは至極ごもっとも。

観よ、この透光性!上質なネフライトは下手な硬玉ヒスイよりよほど綺麗で緻密なのだよ。

 

もちろん普通のヒスイでも作っているが、私はネフライトの美しさを世に出したいのだ。

糸魚川の縄文人はその事を知っていて、ネフライトで大珠や玉斧を作って各地に運んでいたので、威信財扱いしていた事は間違いない。

遺跡からも小さなネフライトが出土してくるので、愛眼用かお守りにでもしていたのじゃないか?

現代に忘れ去られた宝玉ネフライト・・・「なんだネフライトか!」という評価を覆したい。

価値基準を開拓するのはヒスイ職人の醍醐味でもあるし、奴奈川族直系の末裔として取り組みたいのでR!

 

 

 

 


糸魚川の凄い人々・・・高橋竹山さんご夫妻と大工のNさん

2017年01月19日 22時52分40秒 | 糸魚川自慢

糸魚川市の根知区に住むイギリス人女性、エマさんから古民家をDIYリフォームしたいと相談を受けた。

私は何を隠そう、元リフォーム店店長・・・別に隠してないけど。

四の五のと説明するより、古民家のリフォーム例を観てイメージを掴んで貰う事にした。

そこでエマさんと折よくイギリスから遊びに来ていたご両親をご案内したのが、能生地区在住で著名な登山家である青田浩さんの自宅。

左端が竹山さん。右端が青田さん。

 

青田さんは登山家の間では有名な人らしい・・・私は登山に詳しくないのだ(笑)

そして青田さんの奥さんは世界的に有名な津軽三味線の「二代・高橋竹山」さん!

因みに二代目・高橋竹山さんと紹介される事が多いのだけど、古典芸能や演芸の世界では、何代目と代の後ろに目を付けるのは故人に対してであって、現役の場合は目なしで何代、というのが昔からの習わし。

縁起商売だし、私は古典芸能・演芸が大好きなので、「二代・高橋竹山」さんと紹介させて頂いております。

 知る人ぞ知る有名人カップルが糸魚川に住んでいるのはお国自慢の一つ!

 

さて、古民家のリフォームは古い部分と新しい部分がミスマッチになったりし勝ちで、建築用語で言う処の「収まり」が非常に難しい。

収まりとは、新旧部材の取合い部分(接合部分)の事で、この部分に違和感があったり目立っては駄目なのだ。

建築のプロが最もこだわるのは「収まり」で、家を訪問する時に自然に観てしまう部分でもある。

初めて青田・竹山さんの自宅を訪れたのは六年前。

築百五十年の古民家を見事に現代風に蘇らせた出来栄えに感心して、てっきり有名な建築家の設計管理なのかと思って聞いてみたら、なんと竹山さんのイメージを地元の大工さんに伝えただけ、との事で驚いた。

ステンドグラスがいい・・・能生地区のステンドグラス工房製!

土間はタイル張り。さりげなく置かれた調度は、青田さんが海外遠征の時に買い求めてきたものが多い。

 

センスの良さ、収まりの良さ、施工精度、どれを取っても文句が付けようもないリフォーム。

こんな凄腕の大工さんが糸魚川市にいるなんて!と名前を聞いて再び驚いた。

糸魚川でサーフィンしている人なら知らない人はいないという、有名なサーフレジェントのNさん!

まだ50代半ばのイケメン大工さんである・・・大工さんとしても凄い人だったのだ。

凄い人がいるもんだ。

 

 

 

 


奴奈川神社の火越こし神事

2017年01月17日 08時11分37秒 | ぬなかわ姫

糸魚川市梶屋敷に鎮座する奴奈川神社は、奴奈川姫を祀る。

延喜式に記述されている奴奈川神社は、山崎という地にあったとされるが、この山崎という地名は現在の糸魚川市にはなく、梶屋敷の奴奈川神社なのか、現在は天津神社と併祀されている奴奈川神社、通称「一の宮」なのかは不明。

神社の規模と氏子の数、祭礼の多さからいって、一の宮の方が可能性は高いのではないか?

年末年始のボランティアで正月は慌ただしく、奴奈川神社にかなり遅い初詣。ヒスイ職人としては奴奈川姫を祀る奴奈川神社と一の宮への新年の挨拶は欠かせない年中行事。

 

さて、梶屋敷の奴奈川神社だが、宮司さんが凄い経歴の持ち主なのだ。

火越こし神事の発火具を前に、とつとつと伊勢神宮の事をお話しして下さる宮司さん。

 

宮司さんは若い頃から能登の気多大社や伊勢神宮でご神職をされた経歴を持ち、お伊勢さんの遷宮を3度も経験されているので、聴かせて頂くお話は貴重なものばかり。

宮司さんがUターン帰郷して奴奈川神社の後を継いでから伊勢神宮の火越こし神事に倣い、小正月の「賽の神・お札のお焚き上げ」をするようになったとか。

発火具は伊勢神宮で使用しているものと同じだそうで、火きり臼は檜、火きり杵はソケット式になった山桑を使用した「舞ぎり式発火具」。火きり臼が動かないように切り込みがある。

 

私の恩師の一人、原始技術研究家の関根秀樹先生の研究によれば、江戸時代中ごろまでの伊勢神宮の火越こし神事は、一本の棒を両手で回転させるシンプルな「きりもみ式」であり、江戸時代後期になって伊勢算盤の孔開けに使う「舞いきり」を発火具に改良し火越こし神事に使うようになったと推測されるとの事。

私の愛用する発火具はソケット式の「弓きり」だが、これは関根先生の師匠である岩城教授が開発した、火きり杵の先端に孔を開けて竹やウツギなどの中空木材を咲き込むだけのシンプルな構造。伊勢神宮式は同じソケット式でも火きり杵の先端を4つ割りにして錘を下げる事で固定する手の込んだ方式。

 

ソケット式は、使用するたびに摩擦で短くなり使い難くなっていく火きり杵を常に同じ長さで使うための工夫で、驚くなかれ三千年前の古代エジプトですでに使われていた技術。

火口はおが屑を使用して、火吹き竹で息を吹き込みつつ焚火に炎を移すのだそう。

記録しておきたい貴重なご神事。


春よ来い・・・糸魚川駅北火災復興支援ボランティア

2017年01月14日 17時21分57秒 | 糸魚川自慢

連休が終わって、糸魚川駅北火災の支援ボランティアに一つの節目が来た。

県外市外のボランティアが少なくなり、今後は地元企業が社員をボランティア派遣するそうだ。

私も2週間近くボランティアに携わっており、随分と仕事から離れていたので連休明けから仕事に復帰。

同時に我が家に居候していた山さんも、次の被災地に旅立っていった・・・熊本だそうだ。

2週間も苦楽と寝食を共にした戦友だから、感慨ひとしお。

世話になったお礼だと言って、最後の晩ご飯は山さんが営業再開した料亭「鶴来家」の仕出し弁当を買って来てくれて、家族全員で食卓を囲む。

 

瓦礫撤去を公的資金で賄うことになったが、私が被災地で出会った人々には、年金暮らしの独り暮らしのお年寄りも多かった。

自己負担ゼロで更地にして貰っても、住宅再建は難しい人達・・・地域コミュイニティが崩壊していくだろう。

我々が現場を離れてから急激に天候が悪化して、被災地に雪が積もった。

被災者には厳しい季節。

春が待ち遠しい。

童謡「春よ来い」は、明治から昭和にかけて活躍した糸魚川出身の歌人・随筆家・良寛研究家の相馬御風(ソウマギョフウ)の作詞。

御風の自宅は現存しており、奇しくも今回の火災でギリギリ被災を免れている。

子供時代を雪国で過ごした経験のある人なら、この唄の歌詞にリアリティーを感じるだろう。

今年ほど、この唄が身に沁みる年はない。

 

 

 


諦めてはいけない・・・糸魚川駅北火災復興支援ボランティア

2017年01月11日 22時42分30秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画

糸魚川駅北火災の瓦礫撤去作業が始まった。

年度末3月に終了予定と発表されたが、これは予測していた事。

来年度予算で整備計画という処か。

全焼した幼馴染の実家では、家族だけで貴重品探しをして何も見つからず諦めていたらしい。ダメモトで支援ボランティアに頼んだら、奇遇にも高校卒業以来の30年振りに会う私の班が担当。探していた古銭やヒスイ製品、アルバムなどが掘り出されて安堵のポーズ。子供の頃から別嬪だった彼女は昔のまま・・・髪形も・・・だったので、私もある意味ホッとした(笑)

 

さて、焼け跡の瓦礫撤去直前に、ボランティア達が幾つかの「思い出の品」を掘り出した別のお宅。

残念ながら人力では到底動かす事の出来ないボリュームの瓦礫の下に、未発掘の「思い出の品」が埋蔵されていると推測された。

被災者のおばあちゃんから聞き出した間取りと、2階建ての木造家屋が倒壊した分を考慮して怪しい箇所をピンポイントで特定。

瓦礫撤去の重機オペレーターにその旨伝えて、お手柔らかにと頼んでおいた。

そして瓦礫撤去の4日後、再度ボランティアが乗り込み、ピンポイントで発掘したら・・・形見のダイアモンドや結婚指輪などがザクザク出土して、持ち主のおばあちゃんに大変喜ばれた。

こんな事も、日々メンバーが入れ替わるボランティアの中に、連続参加できる地元の人間がいる事の意義があるのだ。

お姉さんの形見の指輪との事で、今度は無くさないように指にはめたまま大事にすると破顔一笑・・・ボランティア冥利に尽きるというもの。

 

被災地の多くは古い木造家屋が立ち並ぶ地帯で、この時も瓦屋根と土壁だった事が幸いして、崩落した瓦と土砂が火災の高熱から貴金属を守ってくれたらしい。

だから瓦礫撤去が終了しても諦めてはいけない。

 

こんな事をブログで公開すると、いたずらに火事場泥棒を助長しかねないのか?とお叱りを受けるかも知れないが、既に全国放送のニュースで流れてしまった事だし、一度でも被災地にボランティアをした経験のある人なら、そんな心配は杞憂だと理解できるだろう。

暮れにニュースになった火事場泥棒は、焼け跡に露出していた物品を持ち去ったのではないか?

それに現在は常に警官が巡回している。

また今回の場合は、多くのボランティアが膨大な手間暇をかけた上で、瓦礫の中から掘り出した結果であって、かなり事情が違うのだ。

もしこのブログを読んだ泥棒が盗掘を目論んでも、広大な焼け跡の何所をどれだけ掘れば貴金属が出てくるのかと、途方に暮れるに違いない。

 

我々ボランティアは、被災者から詳細な間取りと探し物を保管していた位置を聴き取った上で、ピンポイントで掘り出している。

そしてその作業内容は、大きな瓦礫を手で移動した後に、園芸用の移植ゴテで丁寧に土砂を削り取って小さな貴金属を探し出しているのだ。強風で横殴りの雨や雪が降っても、こんな作業を黙々としてやっている。寒さと腰痛、立眩みとの戦い・・・7割のボランティアが県外市外から駆けつけてくれている・・・せめて糸魚川の重鎮は労いや感謝の言葉もかけてやって欲しいのだが・・・。

 

もっともボランティア初日は貸し出された普通サイズと小型スコップで土砂を掘っていたが、私は遺跡の発掘と同じ作業だと思い、翌日からは発掘作業に倣って移植ゴテを使ってみたら、作業効率が良くなり、成果も挙がった。

その旨をボランティアセンターに報告したら、翌日から全員分の移植ゴテを揃えてもらい、「思い出の品」を移植ゴテで丁寧に掘り出すという糸魚川スタイルが確立したのだ。

貸し出し用の道具類は、社会福祉協議会のネットワークで集めた各地の被災地で活躍してきた歴戦の道具だが、そこに糸魚川で使った移植ゴテが加わって、次の被災地でも活躍してくれるのだろう。

過酷な環境下での、これほどまでに根気がいる作業・・・盗掘されるという事は絶対ないと断言してやる。

 


モノ言わぬモノのモノ語り・・・糸魚川駅北火災支援ボランティア六日目

2017年01月05日 22時35分51秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画

糸魚川駅北火災の支援ボランティアに入って六日目。

元旦に年賀状が届いて、まだ年賀状を書いていない事に気が付くほど慌ただしい正月だったが、すでに1月5日。

今日も風が強く霙がバラバラと降る天気のなか、30名近いボランティアが集まる。

県外市外から泊りがけで馳せ参じたボランティアが半数以上か・・・地元ボランティアの方が少なくて申し訳ない。

何所にいる?有志の糸魚川市民ボランティア。

 

焼け跡から何個かのヒスイ原石を掘り出す。

ヒスイを観た事の無い県外市外のボランティアが多いから、石が掘り出される度に「ヤマダさ~ん!」と私が呼ばれてその場で鑑定している。

ヒスイ職人が役立てる被災地なんて、ヒスイの故郷糸魚川らしい・・・。

火災の高熱で砕けた大きな庭石はヒスイによく似たアルビタイトで、これまで被災現場で観た石の大半がアルビタイトだった。

割れ方がザクロのようにザクザクしており、ガラスっぽい光沢、そしてヒスイにしてはちょっと軽いから直ぐに分かるのだけど、糸魚川市民でもヒスイだと思って庭石にしている家が多いようだ。

光沢がない乾いた感じならロディン岩・・・。

その中でひときわ緑が強く発色するヒスイ発見!

真っ二つに割れているが、割れ方が鋭く、チカチカと輝く粒状結晶も観えるし、結晶も緻密。

持ち主のおばあちゃんに見せたら、亡き夫が拾って大事にしていた形見のヒスイだそうで、すごく喜んでくれた。

 

ヒスイじゃなくても被災者にとってはそれぞれ想い出のある石。

持ち帰るか、そのまま焼け跡に置いておくのかは、持ち主が決める事だし、鑑定依頼されなければ余計な解説は無し。

誰が何時何所で拾って持ち帰った石なのか?

それは持ち主にしか分からない物語り。

モノ言わぬモノは実に多弁にモノ語りする。

 

 

 


気持ちの区切り・・・新年ボランティア初め

2017年01月04日 07時50分34秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画

氷雨降る正月3日から、糸魚川駅北火災復興支援ボランティア再開。

公式には4日が初仕事なのだけど、大晦日にボランティアセンターに3日指定で被災者からの支援要望が入り、急遽、私のフェイスブックでボランティア人員を募集した。

市の内外から12名が集まってくれて安堵。

作業内容は瓦礫の中からの貴重品探し。

正月休みで帰省した同級生夫婦、上越市の友人などもボランティアに駆けつけてくれた。

今回も婚約指輪と結婚指輪、仏具などが掘り出された。

心配顔で立ち会っていた被災者のご婦人も、思わず恵比須顔になった50年位前(?)の婚約指輪と結婚指輪。

娘時代の思い出、人生の節目を物語った「お宝」である。


思わぬ発見に「良かったぁ!」と被災者とボランティアが共に喜び、被災者は気持ちの整理が一つ付けられる瞬間。

焼失した時間で止まった壁掛け時計の文字盤。


どんなに黒焦げになっていても、被災者にとっては家の歴史や人生の記憶を刻む想い出の品々。

 

災害復旧支援ボランティアといっても、津波・地震・土砂崩れ・洪水・そして今回のような大規模火災など、現場によって求められる支援ボランティアの作業内容は違うのだと、身を持って知った。


現時点で糸魚川のボランティアの存在意義は、物品の捜索活動を通じた、被災者の気持ちの整理のお手伝いなのではないだろうか?と実感している。


瓦礫撤去が国と糸魚川市による全額負担が決定したが、工事の着工前に被災者の「心残り」.を少しでも払拭して、次に展開していくサポートができれば、と切に願う。