縄文人(見習い)の糸魚川発!

ヒスイの故郷、糸魚川のヒスイ職人が、縄文・整体・自然農法をライフワークに情報発信!

ヒスイ文化の内実とは?・・・復古調の勾玉首飾り「ヌナカワ姫シリーズ」

2022年11月26日 10時53分51秒 | ぬなかわヒスイ工房
色とりどりのヒスイを連ねた、復古調勾玉首飾り「ヌナカワ姫」シリーズを開発。
お世話になっている大学の先生から、管玉や切子玉をつかうと古物と偽って転売される恐れがあるので注意!とアドバイスを頂いていたが、ウッドビーズなら大丈夫・・・ですよね(笑)
糸魚川ヒスイは地味だから、貴金属とコラボした作品でないと海外に売れないと考える地元経済人に、糸魚川ヒスイをエメラルドの代替品のように捉えるのも、海外の富裕層をターゲットにする発想も再考して欲しいと切に願う。
エメラルドやダイアモンドで作った勾玉に魅力があるのか?内実があるのか?
 
海外に勾玉の類型はあるにしても、日本と同じ意味なのか?
 
魏志倭人伝や古事記より古い、勾玉の記述が海外にありますか?
 
だからこそ糸魚川ヒスイの魅力を発信するなら、勾玉なるものの可能性を探ってはいかが?
 
ヒトとヒスイの物語とは?それは希少鉱物としての物理面のみならず、歴史的なヒスイの価値であり、ヒスイなるものの内実、すなわち文化というもの。
 
だから私は勾玉を深掘りする。まだまだ可能性はあると思う。
 
 
 

北斎に学ぶ「こだわらない」流儀・・・2022年11月時点の古代風の勾玉首飾り

2022年11月20日 22時52分13秒 | ぬなかわヒスイ工房
昨年に商品化した「古代風首飾り」は、ありそうでなかった新しい勾玉の仕立て方との反響はあったが、なにか腑に落ちないところがあった。
8㎜玉の時代
 
最初は勾玉の間に直径10㎜のウッドビーズをはさんでいたので、8㎜、6㎜と小さくしていったらスッキリしてきたが、ここまでに1年かかって変化している。
 
12月に個展が決まったので、さらなる改善をと丸玉の両端に細長いソロバン玉も入れてみたら、かなり具合がいい。
5㎜玉に変えて、管玉かわりにソロバン玉を追加!本当は弥生時代の首飾りのように、青碧玉の管玉や水晶の切子玉をいれればいいのだが、お世話になっている某大学教授から、購入者が古物と偽って転売する恐れがあるから売っちゃダメ!と釘をさされておるのです(笑)
もっとよくなりそうだぞと、最小サイズの5㎜玉を取り寄せ、木綿紐の太さも変えて組み替えたら大正解だった。
勾玉を魅力的に仕立てるのは、音楽でいったらアレンジに相当する仕事。
 
これで一応の完成はみたが、それも現時点ではという意味で、来年は変わっているかも知れない。
 
往年の名曲も時を経て、アレンジを変えて歌い継がれていくのと同じだが、わたしは北斎の浪の描き方の遍歴を思う。
 
30代のころの北斎は、線描だけで「お化けのQ太郎」が並んでいるような躍動感のない浪を描いていて、巧いとは言い難い。
しかし何十年もかけて浪の躍動感を追求し続け、70代にして「神奈川沖浪裏」にたどり着き、躍動感のみならず、浪の透明感や絵画の物語り性を描くことに成功している。
 
つまりは北斎という人は、評価や技法に「こだわり」のない人で、現状に満足せずに高みを目指し続ける求道者であり、これが数ある号のひとつである「画狂人」たる所以だ。
 
北斎が「こだわり」のある人だったのなら、西洋絵画の技法をとりいれたり、「神奈川沖浪裏」の浪の青に、伝統的な「群青」を使わず、当時は輸入品で高価だった、化学合成顔料の「プルシャンブルー」で描いた説明がつかないではないか。
 
「こだわり」とは、現状維持の状態と私は捉える。古武術の用語なら、動けない・固定化しているという意味の「居付いている」状態。
 
成功体験にとらわれず、もっとよくなるのでは?と満足することはないから、ヒスイ加工法は固定的ではなく、毎回のように違う。
 
「古代風首飾り」が、今後どうなっていくのか、わたしにも予測がつかない。だから面白い。
 
 
 
 

同じ失敗を繰り返す日本の組織・・・「大本営参謀の情報戦記」

2022年11月20日 07時08分57秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画
戦前の日本は情報収集と分析を軽視し、必敗の太平洋戦争を自ら開戦してしまった。
 
幸か不幸か、明治期に大国相手の日清・日露の戦争に辛勝した結果、皇国史観にもとづく精神論ばかりが重視され、無敗皇軍神話が喧伝されたのが昭和のはじめ。
 
日露の陸軍もそうだったが、昭和の帝国陸海軍はいちど作戦が成功すると、同じ作戦を何度も繰り返すことを米軍の情報将校らが分析して、裏をかかれてはの失敗を繰り返していたので、米軍も日本軍の硬直性に飽きれたというのは有名な話し。
 
「大本営参謀の情報戦記」の著者の堀中佐は、ミッドウエイ開戦の後に情報参謀に任命されたが、情報課の仕事は欧米の雑誌を翻訳して報告書を作成するだけで、分析されることもなく、作戦に反映されることもない閑職であることに愕然とする。
 
そこで日米両軍の作戦履歴と暗号電文の解読を独自に取組んだ結果、米軍の作戦を次々と的中させるようになり、「マッカーサーの参謀」と称賛されるようになる。
 
そして南方諸島で採用されては玉砕をくりかえしていた「水際作戦」から、「洞穴陣地で持久戦」へと転換させ、山下泰文大将をはじめとした南方軍指揮官から信頼されるようになった。
 
 
ポツダム宣言受諾後に、対独戦に勝利したソ連が兵力を満州に移して侵攻する情報もあったそうだが、堀中佐が「奥の院」と批判する大本営作戦課が情報を握りつぶしたことが、怒りをもって書かれている。
 
同じ大本営陸軍参謀本部といっても、実質は作戦課が唯我独尊で軍隊を動かすエリートで、情報課は軽んじられていたのだ。
 
都合の悪い情報は隠蔽する日本の組織のありようは今も変わらないが、もしソ連の侵攻情報が日本軍を統帥する「大元帥」たる天皇まであげていたら、30万人とも50万人とも推測されている在留邦人がソ連軍の暴力に曝されることもなかったかも知れなし、その後の中国残留孤児問題もおこらなかったかも知れない。
 
天皇と鈴木内閣は、極秘裏に和平交渉の仲介をソ連に依頼するプランを進めていたくらいだから、ソ連軍の満州侵攻は晴天の霹靂だった。
 
天皇は絶対の現人神であり、余の命令は天皇の命令であると将兵を死地に追いやっていた作戦課のエリート軍人たちこそが、最大の不忠者・国賊だったのだ。これが当時からいわれていた「昭和の陸軍の下剋上」
 
そして満州事変からの15年戦争を主導し、国家をミスリードした大本営作戦課の軍人たちは・・・戦後に自民党議員、自衛隊の幕僚、大企業の役員になったりと、それぞれ栄達している。

香典には名前と金額を明記しましょう・・・親父の葬儀

2022年11月17日 07時50分52秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画
香典をだす場合は、内封筒に名前と金額を明記しましょうネ。
香典を作って集計したら、計算が合わないわ、空の香典封筒があるやらで、大変だったのだ。
 
別々だった自宅と斎場の受付記録も、一括管理した名簿を作成。親父との関係、連絡先、金額を記録しておかないと、義理が果たせなくなることがあるし、法事で慌てなくて済む。
 
我が家は親戚が多いので、これまで関係性もよく知らずにオジサン、オバサンとだけ呼んでいた遠戚も多く、連絡先も知らずに代替わりしたからなおのこと。
 
親父の葬儀がきっかけで浮かび上がったファミリーヒストリー。これも故人の贈り物のひとつ。
 
葬儀からこのかた、喪主のつとめとして、これまで読むことのなかった新聞の訃報欄をチェックするようになった。
 
 

燻し焼き・・・縄文オカリナができるまで

2022年11月13日 08時51分17秒 | 縄文
デコモリ風ヘアーや栗っぽいカタチ、大きさと焼き色もバラバラなのは、手づくりの証し。
洗って乾かした後も、ペンダント紐をつけ、パッキングに入れてと色々と面倒なのだ。
開放型ストーブの上で炙り焼きしてあるから、バーベキューコンロで炭をカンカンに熾したらドーナツ状に広げ、真ん中にオカリナを置く。自然に温度が高くなるように炭を足して・・・
炭に着火して40分くらいでオカリナの上に炭を乗せた状態・・・このまま約1時間弱放置
バーベキューコンロを使って焼成した直後は、ハニワと同じ赤っぽい黄土色をしている。
 
熱いうちに燻し焼きをして黒くするが、数が多いから一発で綺麗に黒くなるのもあれば、部分的に色ムラも出てしまうこともあるので、ある程度は均質になるまで繰り返す。燻し焼きしてないオカリナより値段が高いのはそのため。
 
きれいに色ムラがついたオカリナは「この色ムラがかわいい!」と女性客が喜んで買ってくれるが、やはり均質に色が付いているオカリナから売れていくし、実物を観て選べないネット通販や、京都の「民族楽器コイズミ」さんに卸す商品は、色ムラの少ないオカリナを選んで売っている。だから色ムラのオカリナが売れ残ったら、次回の焼成の時に再度の燻し焼きをしている。
利益面を考えると微妙で、ヒスイ加工したほうが儲かるぞとは思うが、面白いからやめられない(笑)
 
 
 
 

縄文オカリナのつくりかた・・・遮光器土偶オカリナ

2022年11月12日 08時06分44秒 | 縄文
オカリナつくり体験会で、参加者の目の前で遮光器土偶オカリナをチャッチャと作ってみせたら、「本当に型抜きじゃなかったんですね!」と驚かれたが、わたしは嘘をつかない(笑)
売り物の場合は数を作るので、目の横線を描いてから、次の個体にとりかかる。
粘土がベタベタしなくなるまで乾いたら、数個まとめて目の輪郭を描く。
 
乾燥具合をみて目の輪郭に縄目を施文して、各部分の成形。
翌日に目の中を磨き仕上げして、粘土が白くなるまで乾燥。
開放型ストーブの上にのせて赤くなるまで「あぶり焼き」をして、快晴・無風の日に本焼きをしている。
 
土器やオカリナ作りをしている人は、それぞれの製作環境にあった工夫をしているので各人各様のやり方があるが、工程に応じた乾燥具合の見極めが重要な訳ですわ。
 
そして今日が絶好の本焼き日和!今年最後のオカリナ作りになるだろう。
 
 

親父の最後の弟子・・・親父のバタフライエフェクト

2022年11月10日 07時45分09秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画

新聞に親父の追悼文を投稿してくれた人がいると、親戚や近所の人が掲載紙を何人も持ってきてくれた。

何度も取材を受けているローカル新聞なので顔馴染みの記者が気を利かせてくれたのか、私宛に掲載紙からも郵送されてきたが、よくも私の親父のことだとよくぞ解ったものだ。ローカル新聞ならではの小回りの良さか。ちなみに掲載紙は「糸魚川タイムズ」
 
葬儀が終わってから、近所の夫妻が弔問に来た。
 
親父はまだ元気なころ、お向かいの小学校でボクシングをボランティアで教えていたことがあり、息子さんも習っていた。その息子さんは引っ込み思案なおとなしい子供だったが、ボクシングが面白いと拙宅で個人レッスンもしていたので、親父の最後の弟子ということになる。
 
その子が来年は高校受験で、環境問題を学びたいからと九州の難関校を受験したいと言ってきたそう。
 
ご夫妻は、あの大人しい子が自分の意志を明確にできるようになったのは、親父からボクシングを学んだお陰ですとお礼を言ってくれたので、お袋は泣き崩れた。
親父を師と仰ぎ、敬慕してくれる人がいる。バタフライエフェクト・・・疾走するロッキーの後ろをついてくる子供たちみたいではないか。
 
生きていた時より身近に感じている。

ヌナカワ姫の悲劇の伝説を宿す稚児ケ池をジオサイトに!・・・バタフライエフェクト作戦

2022年11月06日 08時30分54秒 | ぬなかわ姫
コロナ禍前は毎年、何組もの団体ツアーガイドをしていたのが夢のようだ。
 
天津神社参拝の後に「ぬなかわヒスイ工房」で拙宅出土の勾玉見学、稚児ケ池でヌナカワ姫の慰霊、長者ヶ原遺跡でライブと焚火の縄文キャンプ、翌日はヒスイ峡でゆっくり過ごすのが定番のガイドコース。
八千鉾神に能登に連れ去られたヌナカワ姫が逃げ帰り、(茅芦原にお隠れになった・隠れているところを火を放たれて以後はお姿が見えなくなった)伝説のあるのが稚児ケ池。古代のラブロマンスとは真逆の伝説を持つ稚児ケ池に案内すると、祝詞をあげたり演奏したり、舞いを奉納したりと、各自の方法でヌナカワ姫の慰霊をしてくれる。
長者ヶ原遺跡の1号建物前で演奏するKnobさん。
同じく雲龍さん。友人にプロで活躍するミュージシャンが多いと面白い。
 
時間があればヒスイ拾いのオプション。今年の「ひすいこたろうツアー」では、海に沈む夕日を観るオプションも加わえたら評判がよかった。
ライブの後は焚火で食事をつくり、あとは大人の語らいの時間。
 
来年こそは・・・以前のように観光バスを雇った30人規模のツアーとはいかないまでも、世阿弥の女時(めどき)の過ごし方に学んで、ギャラリーを増築したので、10人規模なら発火法や土器作りなどの縄文体験がしてもらえるので、次の波の迎い入れ準備はできている。
左から滝沢泰平夫妻、Knobさん。
 
また3年前までは「縄文キャンプ」という言葉を使うと、教育委員会から「長者ヶ原遺跡はキャンプ場ではありません!」と、遺跡の使用許可願いの再提出を求められたこともあったが、今では行政が「縄文キャンプ」を行うようになっている。
 
私がUターン帰郷した11年前は、長者ヶ原遺跡とB&Gの艇庫は地元の人も知らない休眠施設だったが、昨年くらいからはどちらも行政絡みのイベントが行われるようになり、もしかしたら私の活動がバタフライエフェクトになったのかも?と感じている。
ヒスイ峡を望む高台で石笛を演奏するKnobさん。
 
次なるバタフライエフェクトはですねぇ・・・ヌナカワ姫の伝説が最も濃密でリアルな稚児ケ池をジオサイトとして認定してもらうことか。
 
西に長者ヶ原遺跡があり、「塩の道」にも連なる、「地質年代に姫川が作った高地段丘」の京ヶ峰エリアに位置し、「ヌナカワ姫の口碑が豊富な歴史的地区」である土地なのに、ジオサイトに認定されていないのが不思議な場所。一応は「旧奴奈川神社跡」として史跡登録もされているのだ。
 
ただ稚児ケ池をジオサイトに登録すると、行政が旗振りしている「古代のラブロマンス」と真逆の口碑が表に出てしまうので、どうなることか?もっとも表に出ていなくとも「古代のラブロマンス」は眉唾でしょ?という市民も多いし、観光案内を信じて糸魚川に来てから私のガイドに参加して「女として許せない!」と怒る女性客も多いので、観光施策としては逆効果という面も実際にはある。
 
バタフライエフェクト方式で、ゆっくりとじっくり取り組んでいきたい課題。同じような意味でも、以前はバタフライエフェクトという言葉より、ライオネル・ワトソンさんの「百一匹目の猿」という言葉が使われていたのに、最近は死語になったネ( ´艸`)
 
 
 
 

親父の七回忌に聴く加山雄三 の オヤジの背中・・・親父の葬儀

2022年11月05日 07時28分56秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画

加山雄三 Kayama Yuzo / オヤジの背中

 

オヤジの死から1週間目の朝、加山雄三さんの「オヤジの背中」を聴く。CDには1番までしか収録されてい名曲のフルバージョン。
でも歌詞は1番がいい。
 
オヤジの 背中を 見つめて生きてきた
 
時には 厳しくて 離れてみていた
 
ある日は 喜びに 揺れてた 背中よ
 
いま見えるよ 目を閉じれば ただ ひたすらに 生きてた姿が
 
男たちは その人生を語っているよ 背中で
 
短い言葉、加山さんの声と歌い方、アレンジが見事にマッチした、世のオヤジたちの哀愁と賛辞を歌いあげたバラード。
 
葬儀の翌日からお袋が寝込んだ。嫁入りしてから65年間の苦労の連続から、解放されたのだから無理もない。
 
寝起きが大変そうなのでベッドを買ってやり、親戚や姉貴たちが面倒をみに来てくれて、やっと昨日から動けるようになった。
 
オヤジは教えてくれたねぇ・・・親を大事にするなら生きているうち。
 
 

文化の日に、日本の文化とは何かを愚行する・・・親父の葬儀

2022年11月04日 07時03分58秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画
親父が在宅介護をしていた時期に、車椅子で玄関を出入りするために自作した段差解消スロープを解体した。
度重なる誤飲性肺炎で体力が低下して入院した時点で、恐らく退院する時には必要なくなると解体を考えたし、お袋も解体してもいいと言っていた。
でもねぇ・・・生きてるうちに解体するには偲びなく、邪魔にしながらもとっておいた。葬儀がケジメとなって解体。
 
私が喪主となる初めての葬儀は、セレモニーホールを利用しながらも、なるべく自宅で弔う時間を多くして、昔ながらの葬式の再現を親族に頼んだことは以前に書いた。
 
女たちは郷土料理作りと弔問客の接待、男たちは納戸から来客用の座布団や食器類を探し出し、親族への連絡や弔問客受け入れの準備に嬉々として取り組んで、なんだか祭りのようだった。
 
昔はこうだったよなぁ、と、みんな懐かしがっていたし、セレモニーホールでも「なごやかで温かみのある、いいお葬式ですねぇ・・・」と、スタッフがしみじみと言っていた。
 
私が子供の頃の葬儀は、親族の若手が年配者から色々と教えてもらいながら、式次第のいろはを継承できていたように思うが、近ごろは若い者が仕事だから、県外居住だからと、葬儀に出てくるのは同じ顔触れの年配者ばかり。
 
私の親の世代は、出産、結婚、死までの人生の節目は、一族総出で助け合い、自宅で行うのが当たり前で、冠婚葬祭に限らず、盆だ正月だと来客が多く、郷土食の作り方や昔ばなしが自然に継承されていた。
 
当然ながら、ハレとケの時は民族衣装たる和服を着ることが多く、自分で着付できるのも当り前だった。
 
さて今日は文化の日だそうだが、民族衣装を自分で着ることのできず、結婚式や葬式を業者にゆだね、郷土料理を作れない日本人が大多数となった今日、日本に文化といえるものは残っているのだろうか?と愚考する。
 
外国人観光客に日本文化の素晴らしさをアピールしようという声を聴くたびに、ところであなたは死者の着物を左前にする理由を知っていますか?
通夜と葬式の違いを説明できますか?
着物を自分で着ることができますか?と質問をしたくなる。
ひと昔前の日本人なら誰でも知っていたし、できたことばかり。
 
耳学問(みみがくもん)という言葉がある。
 
本で得た知識ではなく、人から教えてもらう知識、知恵のことで、聞きかじりの知ったかぶりを自嘲する時にも使うが、昔は生活全般の知識や知恵はマニュアルではなく、耳学問で継承されていた。
 
冠婚葬祭は昔から受け継がれてきた生活様式の根幹、すなわち知識や知恵といった「日本らしさ」を、年長者から次世代に伝える耳学問の機会ではないだろうか。
4月10日は糸魚川「けんか祭り」・・・写真は糸魚川観光協会からの借り物。背中を見せているのは我が寺町区の漢たちで、すっかり淋しくなった幼馴染たちの後頭部が人生の荒波を乗り越えてきた歴史を物語っている(笑)
 
幸いなことに、私の生まれ育った地域は男たちが熱狂する「けんか祭り」があり、年長者が若者に故事来歴や祭りのしきたりを伝承できている。若者は百戦錬磨の年長者を尊重し、年長者は元気な若者を頼りにするから、地域の結束は固い。
 
祭りに出るようになってからは、誰に教えられることもなく自然と墓参りするようになったが、これこそが500年間続いている「けんか祭り」の内実で、ごく自然で無自覚な祖霊崇拝の儀式なのだと実感する。
1964年、親父が30歳の時の「けんか祭り」当日に、天津神社すぐ横の糸魚川小学校講堂にリングを特設して、早稲田大学と明治大学の交流戦を開催。東京の大学のボクシング部の交流戦を田舎に呼べたのは、親父の人脈の広さを物語る証し。親父も出場してKO勝利したそうで、中学時代に担任だった荒木先生から「あの時の山田さんの息子か!俺が中学くらいの時に見たぞ!」と驚かれたことがある。
 
着物や神社仏閣は、その知識と知恵が昇華したカタチ。
 
外国人に紹介する日本文化は、カタチだけでなく、個々が生活経験に基づく実感を語ることも大事で、それが文化の内実と言えるのではないか?
 
葬儀の後、親戚の長老格にそのことを力説したら、次回から自分は後見人として参列し、息子に仕事を休ませて葬儀の手伝いを代替わりさせるよ、と言ってくれた。
 
葬儀執行の次世代が育っていないと、ちかい将来に檀家制度は崩壊する。そして観光客の賽銭で運営できる古刹はともかく、田舎の寺は維持できず、鎮守の杜の古社、歴史ある寺院が廃屋となっていくのではないか。
 
我が家の檀家寺の住職は有髪の50代だが、副業を持たない専業の僧侶で、檀家ではない人からも葬儀を頼まれて多忙なようだ。
 
その評判を聞き及んだお金のない人から、5,000円しか払えないのだがと葬儀を相談され、きちんと葬儀を執り行った有徳の人。
 
昔ばなしに出てくる山寺の和尚さんのような、立派な僧侶がまだ存在することに驚くが、50年後はどうだろう?
 
時代が変わった、変わるもの・・・たった一言で済ませるにしては、あまりにも重い内容ではないだろうか。
 
車で2時間くらいの長岡市に住む甥っ子一家を工房に案内した。
親父のひ孫たちは、サンドバッグ遊びに夢中になった。故人を偲んだボクシングごっこ・・・ヒスイや縄文にも興味をもって、私を先生と呼ぶようになった。
 
夏になったらカヌーに乗ったり海に潜ったり、ヒスイ加工、土器つくりを教えてください!と嬉しいことを言っている。親父が大好きだった「けんか祭り」も見物に来いよ、縁故者は神輿を担げるからな。
 
そして法事もな。いつでも遊びに来て、親父に線香をあげてやってくれよな、と伝えた。
 
核家族化や少子高齢化の時流もあり、わたし如きが葬儀の文化を次世代にバトンタッチができる訳ではないが、少なくとも親父は喜んだ思う。
 
昭和の男が昔はよかったと遠吠えする。チャールズ・ブロンソン主演の「狼の挽歌」という映画を思い出しましたな。