親父が在宅介護をしていた時期に、車椅子で玄関を出入りするために自作した段差解消スロープを解体した。
度重なる誤飲性肺炎で体力が低下して入院した時点で、恐らく退院する時には必要なくなると解体を考えたし、お袋も解体してもいいと言っていた。
でもねぇ・・・生きてるうちに解体するには偲びなく、邪魔にしながらもとっておいた。葬儀がケジメとなって解体。
私が喪主となる初めての葬儀は、セレモニーホールを利用しながらも、なるべく自宅で弔う時間を多くして、昔ながらの葬式の再現を親族に頼んだことは以前に書いた。
女たちは郷土料理作りと弔問客の接待、男たちは納戸から来客用の座布団や食器類を探し出し、親族への連絡や弔問客受け入れの準備に嬉々として取り組んで、なんだか祭りのようだった。
昔はこうだったよなぁ、と、みんな懐かしがっていたし、セレモニーホールでも「なごやかで温かみのある、いいお葬式ですねぇ・・・」と、スタッフがしみじみと言っていた。
私が子供の頃の葬儀は、親族の若手が年配者から色々と教えてもらいながら、式次第のいろはを継承できていたように思うが、近ごろは若い者が仕事だから、県外居住だからと、葬儀に出てくるのは同じ顔触れの年配者ばかり。
私の親の世代は、出産、結婚、死までの人生の節目は、一族総出で助け合い、自宅で行うのが当たり前で、冠婚葬祭に限らず、盆だ正月だと来客が多く、郷土食の作り方や昔ばなしが自然に継承されていた。
当然ながら、ハレとケの時は民族衣装たる和服を着ることが多く、自分で着付できるのも当り前だった。
さて今日は文化の日だそうだが、民族衣装を自分で着ることのできず、結婚式や葬式を業者にゆだね、郷土料理を作れない日本人が大多数となった今日、日本に文化といえるものは残っているのだろうか?と愚考する。
外国人観光客に日本文化の素晴らしさをアピールしようという声を聴くたびに、ところであなたは死者の着物を左前にする理由を知っていますか?
通夜と葬式の違いを説明できますか?
着物を自分で着ることができますか?と質問をしたくなる。
ひと昔前の日本人なら誰でも知っていたし、できたことばかり。
耳学問(みみがくもん)という言葉がある。
本で得た知識ではなく、人から教えてもらう知識、知恵のことで、聞きかじりの知ったかぶりを自嘲する時にも使うが、昔は生活全般の知識や知恵はマニュアルではなく、耳学問で継承されていた。
冠婚葬祭は昔から受け継がれてきた生活様式の根幹、すなわち知識や知恵といった「日本らしさ」を、年長者から次世代に伝える耳学問の機会ではないだろうか。
4月10日は糸魚川「けんか祭り」・・・写真は糸魚川観光協会からの借り物。背中を見せているのは我が寺町区の漢たちで、すっかり淋しくなった幼馴染たちの後頭部が人生の荒波を乗り越えてきた歴史を物語っている(笑)
幸いなことに、私の生まれ育った地域は男たちが熱狂する「けんか祭り」があり、年長者が若者に故事来歴や祭りのしきたりを伝承できている。若者は百戦錬磨の年長者を尊重し、年長者は元気な若者を頼りにするから、地域の結束は固い。
祭りに出るようになってからは、誰に教えられることもなく自然と墓参りするようになったが、これこそが500年間続いている「けんか祭り」の内実で、ごく自然で無自覚な祖霊崇拝の儀式なのだと実感する。
1964年、親父が30歳の時の「けんか祭り」当日に、天津神社すぐ横の糸魚川小学校講堂にリングを特設して、早稲田大学と明治大学の交流戦を開催。東京の大学のボクシング部の交流戦を田舎に呼べたのは、親父の人脈の広さを物語る証し。親父も出場してKO勝利したそうで、中学時代に担任だった荒木先生から「あの時の山田さんの息子か!俺が中学くらいの時に見たぞ!」と驚かれたことがある。
着物や神社仏閣は、その知識と知恵が昇華したカタチ。
外国人に紹介する日本文化は、カタチだけでなく、個々が生活経験に基づく実感を語ることも大事で、それが文化の内実と言えるのではないか?
葬儀の後、親戚の長老格にそのことを力説したら、次回から自分は後見人として参列し、息子に仕事を休ませて葬儀の手伝いを代替わりさせるよ、と言ってくれた。
葬儀執行の次世代が育っていないと、ちかい将来に檀家制度は崩壊する。そして観光客の賽銭で運営できる古刹はともかく、田舎の寺は維持できず、鎮守の杜の古社、歴史ある寺院が廃屋となっていくのではないか。
我が家の檀家寺の住職は有髪の50代だが、副業を持たない専業の僧侶で、檀家ではない人からも葬儀を頼まれて多忙なようだ。
その評判を聞き及んだお金のない人から、5,000円しか払えないのだがと葬儀を相談され、きちんと葬儀を執り行った有徳の人。
昔ばなしに出てくる山寺の和尚さんのような、立派な僧侶がまだ存在することに驚くが、50年後はどうだろう?
時代が変わった、変わるもの・・・たった一言で済ませるにしては、あまりにも重い内容ではないだろうか。
車で2時間くらいの長岡市に住む甥っ子一家を工房に案内した。
親父のひ孫たちは、サンドバッグ遊びに夢中になった。故人を偲んだボクシングごっこ・・・ヒスイや縄文にも興味をもって、私を先生と呼ぶようになった。
夏になったらカヌーに乗ったり海に潜ったり、ヒスイ加工、土器つくりを教えてください!と嬉しいことを言っている。親父が大好きだった「けんか祭り」も見物に来いよ、縁故者は神輿を担げるからな。
そして法事もな。いつでも遊びに来て、親父に線香をあげてやってくれよな、と伝えた。
核家族化や少子高齢化の時流もあり、わたし如きが葬儀の文化を次世代にバトンタッチができる訳ではないが、少なくとも親父は喜んだ思う。
昭和の男が昔はよかったと遠吠えする。チャールズ・ブロンソン主演の「狼の挽歌」という映画を思い出しましたな。