竜飛岬を越えて、気が抜けてしまった。
旅が終わった感じがする。
平舘からは静かな陸奥湾。
これまでの二ヶ月間は、向い風や追い風でも白波が立つような荒れた海ばかりで、緊張の連続だった。
しかし竜飛からは下げ潮、つまり対馬海流と同じく私の進行方向へ流れる潮が続き、波も立たず、風も弱くなり、旅の最後に神様がご褒美をくれた感じ。
静かな陸奥湾には、私の少年時代の糸魚川では使われなくなりつつあったガラスの浮き球がまだ使われていて感動した。帆立貝養殖の定置網とのこと。
改めて数十年ぶりに見るガラスの浮き球は、青一色ではなく、緑や茶色、それらが混ざった色もあったことを知った。再生ガラスが使われているのだ。
少年時代にやったように、ガラスの浮き球を透かして辺りを見回したら、やっぱり昔と同じく青く歪んだ世界が観えて、この青い世界に入り込んでみたいと思った。
青森港の近くでも、陸奥湾には馬糞ウニがウジャウジャといた。
豊穣の海が縄文王国を支えたのがよく分かる。
いよいよ沖舘川が近づいてきた。
事前に、青森県土木事務所河川砂防課に問合せたら、沖舘川から三内丸山遺跡遺跡近くの上流4キロくらいまでは堰堤もなく、流速も緩やかであるが、水深計は設置していないので不明とのことだった。
そこで最後のキャンプ地、油川から歩いて沖舘川を遡り、三内丸山遺跡まで偵察。
最後のキャンプ地の油川海水浴場は、すぐ近くに油川駅があり、青森駅まで電車で20分ほどの距離。
沖舘川河口。五千年前には、地球温暖化で三内丸山遺跡手前まで陸奥湾が広がっていた。沖舘川は、その時代の名残りとのこと。
最後の1キロくらいはシーカヤックから降りて引いて歩けば、三内丸山遺跡に隣接する遊水地であるリバーランドから上陸できそうなことを確認した。
上陸地点を三内沢部橋と決め、ゴール当日の取材申し込みがあった朝日新聞社と陸奥新報、受入れをしてくれる三内丸山遺跡の縄文自遊館、それに糸魚川市から650キロも車を飛ばして出迎えてくれるという友人の赤野さん一家に連絡をする。
ゴール日時は、赤野家の都合に合わせて7月19日午前中と決めた。
青森最後の朝、出発準備をしていたら、早朝の犬の散歩で顔見知りになったオバチャンがコンビニ弁当の差し入れを持ってきてくれた。
当日の天候は、天気予報に反して、風も弱く雨も降っていない。
最後の難所は、青函連絡船のフェリーターミナルだ。
沖の離岸堤まで大迂回・・・予想通り、北東のウネリが離岸堤に反射して、1mほどの掘れたウネリがグチャグチャになって待っていた・・・初心者には生きた心地がしないレベル。
そしてついに沖舘川に入った。風もウネリもない水域を快漕!
二つ目の橋の上から、横断幕を持って手を振っている親子がいた。
横断幕には、「山田さん がんばれ!」と書いてある。
初対面だったけど、青森市在住のフェイスブック仲間のTさん親子だった。
私の通過を、橋の上で2時間も待っていたくれたとのこと・・・これには痛み入った。
事前の下見通り、河口から3キロくらいでジャングルっぽくなって、水深が浅くなってきた。
こんな場所ではシーカヤックを降りて引っ張るしかない。探検みたいでワクワクした。
上陸地点まで500mほどの所で、糸魚川から駆けつけてきた赤野さんが手を振っていた。二ヵ月ぶりの再会。写真は赤野さん撮影。
上陸地点の三内沢部橋で、赤野ファミリー、縄文自遊館の三浦事務局長、朝日新聞の鵜沼記者、陸奥新報の石橋記者が待っていてくれた・・・沖舘川遡上は4.8キロ。ただ感無量。
上陸した後は、赤野キッズと三内丸山遺跡まで歩く。
到着!出発地点の上越市から三内丸山遺跡までのGPS測定距離は、780キロだった。
熱い日だった。
三内丸山遺跡出土のヒスイに再会。
20年前に三内丸山遺跡を訪れた時に、このヒスイが五千年前に糸魚川から丸木舟で三内丸山遺跡まで運び込まれたのだと学芸員さんから聞いたことが、日本海縄文カヌープロジェクトを始めるきっかけになったのだ。
私の愛艇、「縄文人(見習い)号」・・・二ヶ月間も陽に炙られ、潮風に曝され、時化の海を乗り越えて、780キロを共に漕ぎ渡ってきた頼もしい戦友。
今はエアコン完備の三内丸山遺跡縄文自遊館のバックヤードで休憩中だ。
私はひとまず赤野さんの車で糸魚川に帰った。
7月24日に県立海洋高校の授業の一環で、丸木舟でミニ航海が予定されているのだ。
7月27日には、火起こし体験会の講師も頼まれている。
8月になったら軽トラで青森に帰って、シーカヤックの引取りに行く。
折しもねぶた祭りの頃。
それまでゆっくり眠ってくれい・・・縄文人(見習い)号よ・・・。