ヌナカワ姫は八千鉾神と仲睦ましからず、または何故か、たったお一人で能登から逃げ帰ってきた・・・と「天津神社伝」にあるが、姫が逃げ帰って来た場所が出雲ではなく能登という所に注目している。
当初は能登の気多大社あたりに、出雲の北陸前線基地があったことを示唆しているのか?と推測していたが、昭和5年に発行された最古のヌナカワ姫の口碑が記述された「西頸城郡誌」を読んだら、どうも七尾市の能登国國玉比古神社(気多本宮)付近あたりが怪しい。
本書には中世に石動山の白山修験衆が糸魚川に与えた影響もあってか、付近の気多本宮に関した記述が幾つかあることと、対岸に新潟方面が望見できる能登半島に北側に位置すること、石川県有数の古墳群がある地域なのだ。本書を読みながらグーグルアースで位置関係や地勢をチェック!
この本は中古本で8万円もする貴重な本なので読むことを諦めていたが、能生町図書館に収蔵されていて歓喜。
著者は明治期の糸魚川小學校校長、後に糸魚川市長となる中川直賢で、清書と補充が鬼舞の廻船問屋であった伊藤助右ヱ門。
編纂期の大正時代には、縄文土器をアイヌ式土器と言っていた鳥居龍三の影響もあってか、「アイヌ・ヤクート・オロチョンなどの蝦夷が居住する北陸地域が、出雲勢力の北陸征服により、集落を意味するアイヌ語のコタンが気多と変化して日本海沿岸に点在している」という壮大な、そして21世紀の私からみたら独善的な見解が書かれている。
また方言集の項目でもアイヌ語と糸魚川地域の方言の類似の項を設けて比較しているが、こちらの解釈にも相当な無理がある。
この本の影響もあってか、能生町の郷土史にも地名の由来をアイヌ語で解説する試みをしている。
この当時は考古学調査も少なく、文献と口碑だけに頼った著作であるので無理からぬ処。
好ましいのは、「伝説と史実を混同してはいけない」と意味のことを中川も自戒を込めてか注意深く書いている姿勢。
忘れられつつある口碑は残したから、考古学的な考察は後世の人たちに任せたよ、というメッセージと受け取った。
現在のように観光客誘致を至上目的として、都合の悪い口碑を黙殺した創作すらも厭わないヌナカワ姫伝説の活用ではなく、純粋に郷土史を探求して後世に伝えようとする姿勢がクール。
ちなみに「西頸城郡誌」は文語体、旧漢字、旧仮名遣いで書かれた難解な本でございます( ´艸`)
何度か読み重ねると、意味が浮き上がってくるのが不思議。
ネット検索でお気軽に情報を仕入れることができる時代だが、根拠が曖昧なガセ情報も多い。
一次資料を読まなきゃ話にならん。
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