縄文人(見習い)の糸魚川発!

ヒスイの故郷、糸魚川のヒスイ職人が、縄文・整体・自然農法をライフワークに情報発信!

奴奈川(ヌナカワ)は今も流れているのデス・・・ヌナカワ姫伝説探偵

2023年12月31日 08時29分34秒 | ぬなかわ姫
「沼名河の 底なる玉 求めて得し玉かも 拾いて得し玉かも・・・」と、元祖ヒスイ拾いを物語ったような万葉集に詠まれたヌなす川、すなわちヒスイを産するヌナカワはどこにあるのか?ヒスイが拾えるのは姫川水系と青海川水系だが、ヌナカワとはそれら河川の昔の名前?
現在は地元の人からも忘れ去られているが、じつは奴奈川(ヌナカワ)は姫川左岸の田海区に、今も用水路として流れている。水源は糸魚川のランドマークといえる黒姫山だ。
 
糸魚川の郷土史家の青木重孝氏は「青海町史」のなかで、奴奈川姫が実在したなら、東西を姫川と奴奈川に挟まれた大角地遺跡(おがくちいせき)に居住した可能性が高いのではないかと推理している。
写真は国道8号線沿いに西を向いて建っている奴奈川姫の銅像。何度でも書くけど、わたしの子供のころは東の市街地に向いていたが、平成の大合併の時に向きを180度かえられて、このころから「奴奈川姫は西の彼方におわす八千鉾神を偲んでおられる」といった類いの宣伝文句がでてきたのですネ。
 
脱線になるが、おそらくこのタイミングあたりで「奴奈川姫と八千鉾神の古代のラブロマンス」が観光資源として本格化したのではないだろうか。また聞きだけど、当時の市議会では「国道8号線を通るドライバーに銅像が尻を向けるのは無礼である」と銅像の向きを180度変えると議決されたらしい。市民に尻を向けて無礼ではないのかw・・・本当の話しかどうかは不明。
ちなみに大角地遺跡は、国内最古級のヒスイが出土した縄文~古墳時代の玉つくり遺跡。もっとも出土品は装身具ではなく、石器つくりのハンマーと考えられる原石だが、位置的には姫川と寺地遺跡の中間くらいにある。今なら産業道路沿いのコンビニ付近ですナ。
糸魚川市長者ヶ原遺跡考古館の展示品。友人のオランダ人考古学者のイローナ博士は、アルプス山麓に硬玉ヒスイ製の長大な磨製石器を威信材にした文化が7,000年前にあったとレポートしている。老婆心ながら威信材や装身具ではなく未加工の道具としての前期初頭の使用例だから「国内最古級のヒスイの使用例」と表記した方が無難かなぁ・・・これも何度も書くけどw
姫川を西に渡った左岸から黒姫山を望む。現在は山頂に多賀明神が祀られているが、口碑には奴奈川姫命・奴奈川彦命・黒姫命の三柱を祀るとあり、黒姫は奴奈川姫の母神とも、黒姫は奴奈川姫ともあるので、奴奈川姫は皇后で黒姫は上皇后のような世襲制の女系家族であったことを伺わせる・・・かなぁ。
 
青木氏の論拠は、大角地遺跡の西に奴奈川が流れる沿岸に黒姫山を遥拝する西向きに奴奈川姫を祀る山添神社が鎮座し、ヒスイ加工遺跡+祭祀場+象徴(黒姫山)の状況証拠が揃っているというもの。
奴奈川左岸の山添神社。多くの神社は南面しているのは「天子南面す」という中国思想の影響によるものらしく、それ以前は祭祀の対象を遥拝する向きに建立されていたと聞く。現在の山添神社は西向きで黒姫山は見えるものの、正確には南南西に黒姫山が見えるのでちょっとだけズレている。建て替えの際に西方浄土思想をうけたものか?今は新幹線の高架が邪魔して見えにくいけどw
ご祀神は奴奈川姫命・菊理媛命・建御名方神とあるが、氏子は黒姫権現と呼び奴奈川姫命と同義としているようだ。菊理媛命は中世の白山信仰の流入以降だろうし、建御名方神は奴奈川姫の息子とされてはいるが、糸魚川地域には建御名方神に関連する伝説は皆無といってよく、これまた中世の諏訪信仰の流入からではないだろうか。
 
残念ながら奴奈川ではヒスイは拾えないし、不思議なことにこの地域には黒姫山にまつわるヌナカワ姫伝説はあっても、イズモに関する伝説が皆無なのだ。つまりはイズモ勢力の侵攻をうける以前の古代ヌナカワ祭祀圏の中心地であったものか?
 
ヒスイ加工遺跡+祭祀場+象徴という条件なら、姫川右岸の拙宅周辺の糸魚川市街地も負けてはおらず、むしろ豊富にそろっている。ヌナカワ姫に懸想したイズモの八千鉾神から逃亡して、拙宅南2キロの岡のうえにある稚児ケ池に追い詰められて「お隠れになった」といった生臭い口碑まである。
 
現在の糸魚川市の範囲に数あるヌナカワ姫伝説のなかで、イズモ絡みの伝説は姫川左岸には見当たらず、右岸にのみ語り継がれてきたのは何故だろうか?信州には姫川右岸沿いの県境付近に、ヌナカワ姫がイズモから逃亡してきたといった類いの伝説は残っている。
 
そんなことから、「古代越後・奴奈川姫の謎」の著者の渡辺義一郎氏は、伝説を時系列に並べる試みをして、黒姫山のある青海区がヌナカワ姫伝説の発祥地であり、弥生時代くらいに古代ヌナカワ姫祭祀圏の中心地が姫川右岸の現在の糸魚川市街地に移動したと推理しておられ、この解釈は概ねはわたしも同じ。
ただし神社の由来や伝説は時代によって変容するものだから、伝説そのままを時系列に並べられるとまでは考えてはいない。
 
大正時代までの奴奈川神社が、ヌナカワ姫とヌナカワ彦を祀った柳形神明神と呼ばれてきた史実に加え、柳形とは稚児ケ池の小字ということがわかっている。そこに加えて、明治末に糸魚川町・柳形村・奴奈川村が合併したという文章をみつけたので、この正月は柳形村と奴奈川村の所在地を探そうと思う。全五巻もある「糸魚川市史」のどこかに書かれているかも。
 
*文中に奴奈川とヌナカワが混じっていて読みにくいでしょうが、文献や由来などに書かれている固有名詞は「奴奈川」と漢字表記をして、個人的な想いの部分ではヌナカワとカタカナ表記をしております。
 
なぜなら漢字の奴の由来は「囚われた女奴隷」を意味する象形文字ですので、氏子としてつかうに忍びないからです。
奴の漢字表記は「出雲國風土記」からで、記述者が純粋に発音に当て字しただけなのか、あるいは見下す意識があっての当て字であったのかは不明です。
しかしながら糸魚川に伝わるヌナカワ姫伝説は、イズモ勢力の武力侵攻があったことを伺わせる内容が多いことと、考古学的な物的証拠には山陰方面と友好的な関係を伺わせる資料がまったくなく、むしろ隷属関係であったらしいことが伺えて、悲劇的な伝説と符合がいくのです。
そのことから大正時代くらいの郷土史家たちは、蝦夷のヌナカワに弥生文化のイズモに征服されたのだろうと考えており、昭和に糸魚川市史を編纂した青木重孝氏も同じ見解であったようです。
ヌが玉を意味するなら、瓊瓊杵尊とおなじくヌナカワは瓊奈川とするのが字義通りであると考えております。
 
 
 
 

 


諏訪明神はタケミナカタのみに非ず!?・・・北沢房子著「諏訪の神さまが気になるの」

2023年12月26日 08時08分19秒 | ぬなかわ姫
ネット情報を都合よく切り張りした、我田引水の解釈でモノゴトを語る人はおおく、またトンデモ説ほど拡散しやすい。
 
ヌナカワ姫の子供とされている諏訪明神(タケミナカタ)の伝説が、糸魚川に見当たらないのはなぜだ?
文献を丹念に読み込んで論考した本書に、そのヒントがありそうだ。
 
初期の諏訪大明神は、複数の神様コンプレックスであったのが、鎌倉幕府の中枢にいた諏訪円忠がタケミナカタ推しのキャンペーン活動をした結果、諏訪明神とはタケミナカタ!と知名度を獲得していったのですな。
 
糸魚川の碩学、青木重孝氏も、市内の諏訪系神社は尚武の気風が奨励された鎌倉時代の創建なのだと「糸魚川市史」に書いていることと符合がいく。
 
神社の名前や由来書きも、実は明治以降の国家神道の時代以降に書き替えられていることが多く、奴奈川神社もヌナカワ姫命とヌナカワ彦命を祀る「柳形神社」「柳形明神」と呼ばれていた。
 
柳形とはイズモ勢力から逃げてきたヌナカワ姫が「お隠れになった稚児ケ池」の小字であることがわかっていたが、明治末に「糸魚川町、柳形村、奴奈川村が合併した」という文献を発見した。
 
丁寧に時系列で調べていくと迂闊な解釈はできなくなるのが普通だよねw
 
 
 

弥生のイズモがヒスイほしくて縄文のヌナカワを侵略!?・・・梅原猛著「日本の霊性」

2023年10月22日 10時11分06秒 | ぬなかわ姫
哲学者の梅原猛さんは糸魚川探訪記で、ヌナカワ姫の伝説を詳細に調べたていたらしい。
弥生文化のイズモ勢力がヒスイ交易権を欲しいがために、縄文文化を継承するヌナカワの里に侵略戦争をして、ヌナカワ姫はその犠牲者だろうと見解をしておられるが、これは戦前までの糸魚川の郷土史家たちの見解と同じで「西頸城郡誌」でも読んだのだろうか?
 
古い日本の文化をアイヌ語で読み解くなどして言語学者から批判されたこともあったが、梅原さんの文献史学面での公平無私さは評価したい。
 
しかし考古学面ではムムム!という記述が多く、寺地遺跡も探訪して、ウッドサークルとストーンサークルを併せ持つ稀有な遺跡と書いておられますが、あれはサークル状に繋がっておらず、4本の木柱列と不定形の配石遺構なのですぞw
 
ヒスイについては、中国の玉文化を「奇しくも長者ヶ原遺跡と同時代のヒスイ文化」と軟玉ヒスイと硬玉ヒスイを混同して書いておられるが、中沢新一著「アースダイバー神社編」のように妄想だけで書いている訳ではなく、国語辞典ほどの厚みがある「史跡寺地遺跡」を読んだ上で、実際に探訪している点も評価したい。竪穴住居の玄関を這って出る時のエビス顔がキュート。
 
縄文について著作のある詩人の宗左近や岡本太郎なども、「私はそう感じる」と個人的な感想を書いている点は好ましいし、考古学面で多少の勘違いはあってもご愛敬。むしろ異分野からの縄文論は意外性と多様性が得られて面白い。
 
中沢新一のように史実を切り張りしてつくった創作を、あたかも史実のように断言するのとはレベルが違いますな。
 
 
 

 


音が神を連れてくるから「訪れる」説・・・「奴奈川姫と日本一の大ウス祭り」

2023年10月01日 18時43分46秒 | ぬなかわ姫
「奴奈川姫と日本一の大ウス祭り」のヌナカワ姫コスプレコンテストに勇んで応募した友人2名だが、古代風首飾り・三環鈴・銅鐸を持参した本気さに事務局が恐れをなしたのか、行列要員にまわされた模様・・・本当は他に申込がなかったのだそうだw
しかも「気分はヌナカワ姫様💛」の友人たちに貸与された衣装は、美豆良(みずら・上古の男性の髪形)を模したカツラと男性用衣装ではないか!お似合いですけどぉ・・・便所の前にて撮影( ´艸`)
ヌナカワ姫コスプレのつもりで用意した古代風首飾り「ぬなかわ姫」・・・主役より目立ってはいけないw
親し気に古代人から声をかけられたら、昵懇をいただいているKさんだった。美豆良のカツラは、黒いカチューシャの端っこに毛糸を巻いた髷をつけてあり、100均で揃う素材ばかりのグッドジョブだ。
祭りのはじめに神主の祝詞奏上と玉串奉納の儀が厳かに執り行われる本格的な幕開けで、歌劇の様式で式次第が進行。
糸魚川に芸達者な人がいることや、準備に一年かけたという関係者の本気に驚ろく。
翠の羽根をつけたヒスイの精を先頭に、友人が三環鈴と銅鐸を鳴らしながらヌナカワ姫一行の入場。
 
「訪れる」とは「音が神を連れてくる」を原義とする説があるから、友人たちはヌナカワ姫命の入場に相応しい重要な役割を与えられたことになるし、ちゃんとアナウンスもしてくれた。
 
糸魚川の「けんか祭り」の行列では、口をパカパカ打ち鳴らす獅子(地元では浄魔と書いてジョウバと呼ぶ)が破邪を担って先駆けして、次いで錫杖を打ち鳴らす露払いが神の到来を告げてあるくのだから、日本の祭りで音と神はセットが伝統。
奈良の天河弁財天の三環鈴をモデルにした複製。作者は勾玉の注文をいただいた考古学者。
 
もっとも三環鈴は古墳時代中期の遺物だし、新潟県内からの銅鐸の出土もないのでヌナカワ姫は知る由もなかったであろうが、おそらく日本での銅鐸の役割は、稲作の予祝儀礼でつかわれた祭器とおもわれまするぞよ。
ぬなかわヒスイ工房の銅鐸は舌(ゼツ)がヒスイ勾玉の特製。
 
そしてヌナカワ姫の母神の名は黒姫で、ヌナカワ姫が黒姫を襲名していたような口碑がある。黒姫の黒とは色にあらず、古語で田の畔(アゼ)をあらわすクロではなかったか?これが山田説。
 
すなわち黒姫ならびにヌナカワ姫は、豊年豊作を祈る巫女であったのである・・・かも知れないようw
 
 

 


ヤマトの大彦命と戦った奴奈川長者の伝説・・・悲劇のヌナカワ姫伝説

2023年07月10日 07時30分03秒 | ぬなかわ姫
ヌナカワ姫研究の市民グループの事務局をしておられるグラフィックデザイナーの野崎さんが来訪。
ヒスイ王国館に飾られていた野崎さんのポスター。下の水面はヌナカワ姫がお隠れになった伝説のある稚児ケ池をイメージしたものであるらしい。
 
野崎さんのグループは口碑を独自に解釈して、出雲の八千鉾神とヌナカワ姫の「古代のラブロマンス」があり、その後から大和勢力に攻められてヌナカワ姫が稚児ケ池で入水自殺したと結論つけているようだ。
説明文のアップ
 
しかしながら・・・ヌナカワ姫の子孫の奴奈川長者と四道将軍(しどうしょうぐん)の大彦命(おおびこのみこと)が能生の鶉石で戦い、破れて首をはねられたのが「鬼の洗濯岩」の由来、という口碑が「能生町史」に書かれているのだが、野崎さんグループは未読なのか、または見落としておられるのか?
 
日本書紀にある四道将軍の東国平定は古墳時代~飛鳥時代に比定されるので、ヌナカワ姫がヤマトに殺されたとするのは時系列的に無理があるのでは?むろん口碑をそのまま史実とすることはできないが、子々孫々と語り継がれてきた物語りを蔑ろにもできない。
 
また「古代のラブロマンス」の泣き所は、地元に真逆の口碑があることと、出雲勢力とヌナカワ勢力が政治的な協力関係にあっったのだとすると、山陰系の四隅突出型墳丘墓や威信材が出土していないことをどう説明するか?である。
現時点では山陰系の土器片は出土してはいても、考古学では山陰地方でつくられた「山陰の土器」と、山陰の影響を受けた山陰以外の土地でつくられた「山陰系の土器」は明確に区分されている。
 
観光目的で「古代のラブロマンス」を宣伝したいなら都合の悪い情報を黙殺するのも厭わないのだろうが、ヌナカワ姫を実在した人物として「神話から歴史へ」と顕彰するなら、考古学的な検証は必須ではないだろうか?
 
実のところ、口碑は経年で変容するし、ヌナカワ姫伝説には江戸時代以降に追加された形跡のある口碑もある。
記紀や出雲国風土記といった古文献も奈良時代に書かれているので、四百年前後ものタイムラグのある弥生時代後半の物語を史実として検証するには心もとなく、あくまでも参考資料程度にとどめておくべきではないだろうか?
こんな話を二時間ほどして気を悪くされるかと思ったら、面白いと喜んでいただけたようだ。古代風首飾り「ヌナカワ姫」を身につけて記念撮影した野崎さん。
 
史実を星に例えるなら歴史観とは星座のようなもので、文化によって星々の物語は多用なのと同じく、色んな歴史観があっていいと思う。
 
しかし話を聞いた限りは私と野崎さんグループとでは検証手法と歴史認識がちがいすぎ今後の交流は望めなさそうだ。しかし個人的に話を聞きたいというなら誰でもウエルカム!
 
 
 
 

冬至の朝日が昇ってくるライン・・・論文「ヌナカワ祭祀圏のランドマーク」の検証

2023年04月30日 09時14分42秒 | ぬなかわ姫
史実と歴史観は次元が違うのだが、公表された個人の歴史観を史実と思い込んでいる人は多い。
 
わたしは様々な言説にであうとホントなの?と一定の距離をおいて保留しておくが、興味がわけば自分で調べる。
 
そのひとつが内容的に考古学の範疇のグレーゾーンっぽい「ヌナカワ祭祀圏のランドマーク」という論文で、京ヶ峰主峰から冬至の朝日が昇っているのが笛吹田遺跡から見える、すなわち京ヶ峰主峰は古墳中期のランドマークである、といった内容だ。
 
そこで京ヶ峰主峰に登って緯度経度・標高を調べて、「eマップ糸魚川」の遺跡範囲地図にプロットしてみたら、面白いことがわかった。
論文では京ヶ峰主峰と笛吹田遺跡の位置関係だけを問題にしているが、冬至の朝日が昇ってくる予想ラインをピンクの線(A)でひいてみたら、笛吹田遺跡の北にある姫御前遺跡も朝日が観測できる範囲に入っていた。
 
また主峰の南にある稚児ケ池(奴奈川神社跡)~主峰の隣りの最高峰~笛吹田遺跡~姫御前遺跡まで紫の線(B)を引いたら、まっすぐに並んでいることが確認できたのだ。
 
二つの遺跡は弥生後期~古墳中期の玉作遺跡で、ここまでは疑いのない史実である。稚児ケ池との位置関係は偶然の一致にしても、主峰から朝日が昇ってくるのが目視できるのなら、その位置を選んで住居域にしていた可能性もある。
 
また寺町区の人々は、江戸か明治のころまで稚児ケ池で稚児の舞いを奉納していたそうだから、点が線につながり物語りが浮かび上がってきそうだが、ここから先は個人の仮説であり歴史観。もちろん偶然の一致という可能性もあるし、史実を切り張りした仮説や歴史観を史実のように語ることは自戒するところ。
 
よくニューアカデミーなおじさんが、どこかの神社や遺跡が一直線に並んでいる!冬至の朝日が昇ってくる!といった類いのトンデモ説もどきを聞くが、目視できようもない距離を伊能忠敬みたいに平板測量をしながら位置確認してたの?それとも謎の超古代文明があったのか?それとも宇宙人が知恵を貸したのか?と冷ややかに聞いてしまう。
 
紫の直線(B)くらいなら長い竹竿をもった人を何人も並べて見通し測量すれば、古墳時代であろうと直線距離の2キロ程度の真っ直ぐなラインを出すことは可能だ。わたしは測量士と一級土木施工技師なのよ。
 
冬至の朝日問題を検証するには時期的に晴天であることは稀なので、肝心の冬至の朝日が確認することが難しいことが問題。冬至の時に観察してはいるが、いつも曇天なのです( ´艸`)
 
とりあえず成果を書いて、論文の著者に書簡を出してみる。
 
 
 
 

ヌナカワ姫はヒスイの女神にあらず水の神だった!?・・・柳形神社と呼ばれた稚児ケ池

2023年04月29日 08時21分02秒 | ぬなかわ姫
ヌナカワ姫は水の神・田の神として、稚児ケ池の小字の柳形神と呼ばれて崇敬されたという仮説をたて、文献を読み込みこんでは稚児ケ池周辺を歩きまわっている。
大正時代に編纂された「西頸城郡誌」によると稚児ケ池の昔の所在地は、西頸城郡平牛村山崎柳形であったらしい。現在の奴奈川神社は明治のころまで柳形神社と呼ばれていたともあるが、柳形は稚児ケ池の小字だったのだ。
 
国土地理院の地形図アプリで確認しながら踏査したら、京ヶ峰主峰のピークは標高158m、稚児ケ池は標高126mで、緯度経度もばっちりおさえることができた。
見通しのわるい主峰西側の木立から黒姫山も目視できた。ヌナカワ彦・ヌナカワ姫・黒姫の三座が鎮座する信仰の対象が、稚児ケ池に遷宮した旨の口碑があるので、これは大事。
おおむね標高80mくらいからブナ林が点在していた。杉林は暗いがブナ林は明るいので気持ちがいい。
植物図鑑アプリがおもうように起動してくれなかったけど、ブナですよね?W
 
今回の成果は、海側の糸魚川市街地から、稚児ケ池に至る古道を見つけたことだ。
これは寺町区の人々が、稚児ケ池で稚児の舞いを奉納していたという口碑を元に、正装した幼児や大人が徒歩で稚児ケ池に到達できる地形をグーグルアースで探した結果である。
 
この古道だと拙宅のある笛吹田遺跡から、ゆるやかな登りの山道を徒歩20~30分で稚児ケ池に到達できる。それと「山崎三十三塚」が点在するルートらしく、こちらは50年前の発掘報告書を確認中。
 
京ヶ峰の主峰越えルートもあったようだが、ながらく人が通らない踏み分け道なので、倒木や土砂崩れでルートがはっきりせず、登山レベルの登坂道だから正装した集団が越えられる道ではなく、私も歩くたびに迷子になっている。これが愉しいのだけどネ。
 
それと今回の踏査の目的のひとつ、論文「ヌナカワ祭祀圏のランドマーク」の検証に関する成果もあった。これは次回
 
 
 

京ヶ峰の頂上から海をみた!・・・ヌナカワ姫伝説と長者ヶ原遺跡のあるエリアは糸魚川の水ガメ

2023年04月28日 07時51分40秒 | ぬなかわ姫
海にひらけた糸魚川市街の後背地が京ヶ峰の丘陵で、ここは長者ヶ原遺跡や稚児ケ池などヌナカワ姫伝説がおおく残る史跡エリアでもある。
拙宅のある「笛吹田遺跡」から、標高120mほどの主峰ピークから冬至の朝日が昇ってくるのが見える京ヶ峰は神備山であるとする主旨の論文「ヌナカワ祭祀圏のランドマーク」をみつけたので、稚児ケ池から主峰に登ってみた。
郷土史家によるものか稚児ケ池の東に、柳田権現(奴奈川神社)とする手書き看板をみつけた。
植林した杉林ばかりだと思っていた京ヶ峰は、頂上にコナラ?らしき広葉樹の疎林が残っていて、その北側から姫川河口付近の日本海が見え、たいへんな感動を覚えた。
見通しのわるい林から突然海がみえると感動しますな!
沿岸部の糸魚川駅からたった2キロの山中に広葉樹の林があることも、そこから日本海が見えることも知らなかった。
 
この丘陵は糸魚川市街地の水ガメなのだ。海岸部にも大量の水が必要な酒蔵が3つもあることに納得できた。
西からみた稚児ケ池。八千鉾神に夫神のヌナカワ彦を殺され、能登に拉致されたヌナカワ姫は逃げ帰り稚児ケ池の茅芦原にお隠れになった。そこをイズモの追っ手が火を放った・・・むごいことをするもんだ。
 
ということは明治まで柳田権現、柳形様とも呼ばれたプロト奴奈川神社たる稚児ケ池は、水の神を祀ったご神域?
 
主峰の日本海側の市街地には笛吹田遺跡のみならず、姫御前遺跡、南押上遺跡、後生山遺跡と弥生~古墳の玉作遺跡が密集している。
 
ヌナカワ姫は水の神として尊崇された?ヌナカワ姫は黒姫であり、黒姫はヌナカワ姫の母神とする口碑もあるが、もしや黒とは畔(田の畔の古語でクロと読む)であり、古墳時代においてはヌナカワ姫は水の神、田の神ではなかったか?そんな推理を愉しんでいる昨今。これは50年ほど前に「糸魚川市史」を編纂した青木重孝氏の論考に、黒姫の語源の考察を取り入れて発展させたもの。
 
拙宅裏に下るつもりが迷子になり、大幅に西にそれて翡翠園にでてしまったので、次はGPSをもって登ってみる。
 
稚児ケ池の周りにある「山崎三十三塚」の一部を40年前に発掘した報告書もみつけたので、読み込んでいるところだ。
 
 
 

長者ヶ原遺跡のクルミに花が咲いた・・・善意のネットワークで観光客をおもてなし

2023年04月17日 08時21分18秒 | ぬなかわ姫
二日前にガイドした時には咲いていなかった、長者ヶ原遺跡のクルミの樹に花穂(雄花)がたわわに実っていた。
例年より半月ほど早いようだが、あと数日で赤い雌花が咲いてクルミの実がつくかな。
この時期の葉は小さいので桜の葉に似ていて、ガイドした首都圏の医師夫妻も「これがクルミの花ですか!」と興味深々。
 
工房に訪ねてきた方のランチは、安く地魚が食える車で5分の「漁場 傳兵」を紹介している。
 
食事のあとにヒスイ海岸で遊んでもらっている間に注文品を要望通りにカスタマイズして引渡しできるから、時間に無駄がなくお互いに助かる。
長者ヶ原遺跡の1号住居
 
「漁場 傳兵」さんからは能生区のカニ屋「海冨丸」を紹介してもらって、帰り道の土産を買えたと喜んでおられたが、沢山のカニ屋が軒を連ねているので、地元の、しかも同業者の紹介があれば観光客も安心だよねぇ。
「ぬなかわヒスイ工房」の売上は個人のものだけど、「漁場 傳兵」→「海富丸」と点から線となると地域におちる金額もそれなりになるし、お客さんの旅の思い出もヒスイ・縄文・ヌナカワ姫・海産物とエリアの観光特性は立体的になる。
 
行政主導のシステムによるものではなく、迎え入れる地元民の善意のネットワークで繋がっていくことが気持ちいい。
 
 
 

石の保存容器としてのレイン・ステイック・・・ぬなかわヒスイ工房ギャラリーこけら落とし講座

2023年04月15日 06時24分11秒 | ぬなかわ姫
ぬなかわヒスイ工房ギャラリーのこけら落とし講座で、竹製レイン・ステイックつくり。
シャラシャラと水が流れるような音がする南米の楽器で、本来は枯れて倒れたサボテン内部に砂が入り込んだもので、雨乞いや魔除けに使われてきた祭器。
長野から参加した青木夫妻。ご主人は画家、奥さんは元イラストレーターで横尾忠則と北斎が好きという点で意気投合して話が尽きず、別れ際になって「楽し過ぎて写真を撮り忘れた!」と仰っていた。
 
友人宅の竹をバーナーで炙って「油抜き」をして竹串を差し込み、ヒスイ海岸の砂利を適量入れて自分好みの音を調整。
砂利に加えて、ヒスイや赤メノウの端材、水晶やサファイアのサザレ石(砂利サイズに加工してある石)なども混ぜた、「石のまち糸魚川」ならではのワークショップ。
工程はシンプルでも、刃物の扱いやロープワークを駆使すると、市販品よりぐっといいモノができる。
 
ぬなかわヒスイ工房式は、後から音の調整ができる工夫として、砂利を入れる開口部を布を縛って蓋をしている。旅先でひろった記念の小石、街で一目ぼれして買ったパワーストーンなど後から追加できるから、耳で聴く石の保存容器でもある。
ヒトと石の物語、ヒトと楽器の物語、ヒトとヒスイの物語