縄文人(見習い)の糸魚川発!

ヒスイの故郷、糸魚川のヒスイ職人が、縄文・整体・自然農法をライフワークに情報発信!

能登に安寧の日々が訪れんことを 畏み畏み白す・・・浅田次郎著「「神坐す山の物語」

2024年09月23日 08時08分41秒 | ぬなかわ姫
「輪島漆器販売義援金プロジェクト」をはじめて7ヶ月、昼も夜もない日々がつづいていたので、三連休は思い切って完全休養することにして、読書と昼寝を愉しむために「ブックスサカイ」へ。
選書コーナーは以前よりW主任の好みがより強く反映されて本も倍くらいに増えていた。「山田さんが応援してくれたお蔭です」と、お世辞でも嬉しいことを言ってくれる。
浅田次郎著「神坐す山の物語」・・・面白すぎて一気に読了!うなった。ちなみに「神坐す」は「かみいます」と読みますw
 
能登の惨状に心をいためている今、まさに読むべき本に出逢って、こちらこそ佳い本を選んでくれたW主任に感謝。
ドキュメンタリー映画「オオカミの護符」の文庫版も購入・・・映画のチラシは友人のナナちゃんがデザインしたご縁もある
 
著者の母親は「オオカミの護符」でしられる「武蔵御嶽神社」の娘で、登場する人物と数々の不思議なエピソードはすべて実話が元になっていると後書きにあって、浅田作品に幽冥境が混沌とした場面がよくでてくることに得心。
 
大口真神様(おおくちまがみ様)、おいぬ様とよばれる日本狼を祀り、昔の日本人は自然災害や怪異現象と出逢っても、ひたすらに畏み畏み白す(かしこみかしこみもうす)と身をひくくして神々にお願いして暮らしていた。
 
人が亡くなるのも神上がり(かむあがり)の自然現象として受容する、空気感のような自然崇拝と祖霊崇拝。そこには最高神といったヒエラルキーも教義も存在しない。それは「けんか祭り」で実感するところ。
 
今週は富山の小学生グループの縄文遺跡ガイドを頼まれている。噴火する火山を荒ぶる神様として祀り、ひたすら頭を垂れてお鎮まりくださいと畏まっていた昔の日本のお話しもしようとおもう。
 
・・・能登に安寧の日々が訪れんことを 畏み畏み白す・・・。
 
 
 

イズモにより能登で囚われていたヌナカワ姫の伝説を検証する・・・悲劇のヌナカワ姫伝説もまた口承文化

2024年09月07日 08時09分03秒 | ぬなかわ姫
出雲の八千鉾神がヌナカワ姫を能登に連れ去った伝説がある。
旧市役所前のヌナカワ姫の銅像の足元にすがっているのは幼少時代のタケミナカタ神なのだが、この神様の伝説が糸魚川で見当たらないことを俎上にあげずに親子と断定するのは如何なものか?
 
「天津神社並奴奈川神社」によると
①ヌナカワ姫に懸想した出雲の八千鉾神が、夫神のヌナカワ彦を殺して能登に連れ去る
 
②ヌナカワ姫と八千鉾神と仲睦まじからず、ヌナカワ姫はひとりで逃げ帰るが稚児ケ池にお隠れになった(死んだ・殺された)
 
といった内容だが、数あるヌナカワ姫伝説のなかで際立って具体的なこの伝説がなんらかの史実を反映した可能性を検証している。
グーグルアースで出雲系の神社と弥生時代後期のヒスイ加工遺跡がセットになった適地を探したら、羽咋市の気多大社~七尾湾に平野がベルト状にひろがっていて、地形的には珠洲市の珠洲神社より可能性は高いと気付いたのが3年ほど前。
 
ボランティア帰りに羽咋市歴史民俗資料館に寄って質問したら、気多大社のすぐ近くに弥生中期~後期の能登半島最大のヒスイ加工遺跡、国指定遺跡「吉崎・次場遺跡(よしざき・すばいせき)」があることが判明して色めき立った。
ヒスイのフレーク(薄片)が出土しているのは、二次加工ではなく一次加工していた証し。
この遺跡は弥生時代に半島奥部まで入り込んだ広大な汽水湖だった邑知潟(おうちがた)の左岸に位置して、稲作適地でありヒトの往来のしやすさという点でも伝説にリアリティを感じる。
だたしこの遺跡からは青銅器や山陰系土器が出土していても、山陰系の「四隅突出型墳丘墓」が見つかっておらず、学芸員さんはいつか発掘したいと意気込んでおられた。
 
また付近に柳田(やないだ)という地名があり、大正までヌナカワ姫・ヌナカワ彦を祀っていた「奴奈川神社」が、柳田権現・柳形明神と呼ばれていたことと関係があるのか?
調べたら「吉崎・次場遺跡」の古邑知潟の対岸の丘陵に、古墳時代の「柳田古墳群」があることも判った。羽咋市図書館で柳田の地名由来や口碑を調べたが不明だったことと、ちょっと後の時代であるのでこの件は保留。中能登から富山にかけて柳田という地名が多いのも謎。
グーグルアースのアップ。吉崎・次場遺跡が気多大社に近いことがわかるが、弥生時代なら邑知潟はもっと広大だったので舟をつかえば30分もかからない距離かな。
 
弥生時代は西の玄関口と栄えた能登半島西部の遺跡群も、古墳時代には衰退して東の玄関口の七尾湾周辺が栄えたようだ。支配者が山陰勢力から畿内勢力にとってかわったことと関係しているのだろうか?
 
糸魚川東部の能生地区にはヤマトから派遣された四道将軍の大彦命が、ヌナカワ姫の子孫のヌナカワ長者を退治する伝説がある。
 
これらの伝説が史実の反映だとすると、弥生時代は山陰、古墳時代に畿内と、支配者がかわるたびにご先祖様たちは苦労したことが伺える。
 
ヌナカワ姫を語る場合、「天津神社並奴奈川神社」の記述を抜きにして、古事記や出雲國風土記の断片的な記述だけを都合よく切り張りして創作したモノガタリを史実のように語る人が多い。
 
しかしヌナカワ姫は信仰の対象であることを忘れてはならないし、先祖代々と伝えられてきた口碑も口承文化であるので、安易な創作は文化の捏造・破壊につながるという自覚をもってほしいものだ。
 
 
 

よみがえる女神ヌナカワ姫・・・清水友邦・寿子夫妻が糸魚川を再訪問

2024年09月05日 07時04分41秒 | ぬなかわ姫
長野で開催された「いのちの祭り」の帰りに清水友邦・寿子夫妻がよってくれて7年ぶりに再会。
最初にあったのは清水さんの著作「よみがえる女神」の取材で、ヌナカワ姫がイズモに殺された伝説のある稚児ケ池を案内した時
縄文の女系社会が弥生以降に男系社会に変化していった歴史を女神の神話から読み解いたのが「よみがえる女神」
門前町の無斑晶質安山岩製の勾玉連珠「能登之神」を一目で気に入ってくれた寿子さんが購入してくれた。ヒスイでなくても「これ!」と直感で買ってくれるフラットな感性は流石ですなぁ。
ヒスイ峡などを案内したが、身に着けていてもることを忘れるほど馴染んでいるそうだ。
インドの山奥で修行するたレインボウマン?ヨガと呼吸法の先生でもある清水さんをヒスイ峡に案内した時の写真で、ロケーションがいいので来年は清水さん企画の糸魚川ツアーも実現しそうだ。
 
二日目は清水友邦さんの著作「よみがえる女神」の表紙を飾った長者ヶ原遺跡考古館のヌナカワ姫像と再会のあと、市内ガイドを兼ねて縄文ツアーのロケハン。
「よみがえる女神」では、イズモに抹殺されたヌナカワ姫を封印された女神として主役級のあつかいをされているのだけど、フォッサマグナ・ヒスイ・縄文につながっているので、わたしは糸魚川ガイドの中核にすえている。
長者ヶ原遺跡にて。糸魚川は観光地でなくとも、実は歴史や文化面から語れば観光資源は豊富。
つまりはモノガタリの伝え方次第でリピーターになってくれる面白い街なのだ。たとえば新潟県なのに長者ヶ原遺跡の土器は越後系がすくなく北陸系が多いのは何故?などなど
ヒスイをひろって一攫千金お宝ゲット!という唯物的に資源を切売りするような情報発信では、ヒスイの価値をおとし枯渇の原因になってしまう。
 
モノからモノガタリの情報発信の転換を!
 
 
 
 

奴奈川(ヌナカワ)は今も流れているのデス・・・ヌナカワ姫伝説探偵

2023年12月31日 08時29分34秒 | ぬなかわ姫
「沼名河の 底なる玉 求めて得し玉かも 拾いて得し玉かも・・・」と、元祖ヒスイ拾いを物語ったような万葉集に詠まれたヌなす川、すなわちヒスイを産するヌナカワはどこにあるのか?ヒスイが拾えるのは姫川水系と青海川水系だが、ヌナカワとはそれら河川の昔の名前?
現在は地元の人からも忘れ去られているが、じつは奴奈川(ヌナカワ)は姫川左岸の田海区に、今も用水路として流れている。水源は糸魚川のランドマークといえる黒姫山だ。
 
糸魚川の郷土史家の青木重孝氏は「青海町史」のなかで、奴奈川姫が実在したなら、東西を姫川と奴奈川に挟まれた大角地遺跡(おがくちいせき)に居住した可能性が高いのではないかと推理している。
写真は国道8号線沿いに西を向いて建っている奴奈川姫の銅像。何度でも書くけど、わたしの子供のころは東の市街地に向いていたが、平成の大合併の時に向きを180度かえられて、このころから「奴奈川姫は西の彼方におわす八千鉾神を偲んでおられる」といった類いの宣伝文句がでてきたのですネ。
 
脱線になるが、おそらくこのタイミングあたりで「奴奈川姫と八千鉾神の古代のラブロマンス」が観光資源として本格化したのではないだろうか。また聞きだけど、当時の市議会では「国道8号線を通るドライバーに銅像が尻を向けるのは無礼である」と銅像の向きを180度変えると議決されたらしい。市民に尻を向けて無礼ではないのかw・・・本当の話しかどうかは不明。
ちなみに大角地遺跡は、国内最古級のヒスイが出土した縄文~古墳時代の玉つくり遺跡。もっとも出土品は装身具ではなく、石器つくりのハンマーと考えられる原石だが、位置的には姫川と寺地遺跡の中間くらいにある。今なら産業道路沿いのコンビニ付近ですナ。
糸魚川市長者ヶ原遺跡考古館の展示品。友人のオランダ人考古学者のイローナ博士は、アルプス山麓に硬玉ヒスイ製の長大な磨製石器を威信材にした文化が7,000年前にあったとレポートしている。老婆心ながら威信材や装身具ではなく未加工の道具としての前期初頭の使用例だから「国内最古級のヒスイの使用例」と表記した方が無難かなぁ・・・これも何度も書くけどw
姫川を西に渡った左岸から黒姫山を望む。現在は山頂に多賀明神が祀られているが、口碑には奴奈川姫命・奴奈川彦命・黒姫命の三柱を祀るとあり、黒姫は奴奈川姫の母神とも、黒姫は奴奈川姫ともあるので、奴奈川姫は皇后で黒姫は上皇后のような世襲制の女系家族であったことを伺わせる・・・かなぁ。
 
青木氏の論拠は、大角地遺跡の西に奴奈川が流れる沿岸に黒姫山を遥拝する西向きに奴奈川姫を祀る山添神社が鎮座し、ヒスイ加工遺跡+祭祀場+象徴(黒姫山)の状況証拠が揃っているというもの。
奴奈川左岸の山添神社。多くの神社は南面しているのは「天子南面す」という中国思想の影響によるものらしく、それ以前は祭祀の対象を遥拝する向きに建立されていたと聞く。現在の山添神社は西向きで黒姫山は見えるものの、正確には南南西に黒姫山が見えるのでちょっとだけズレている。建て替えの際に西方浄土思想をうけたものか?今は新幹線の高架が邪魔して見えにくいけどw
ご祀神は奴奈川姫命・菊理媛命・建御名方神とあるが、氏子は黒姫権現と呼び奴奈川姫命と同義としているようだ。菊理媛命は中世の白山信仰の流入以降だろうし、建御名方神は奴奈川姫の息子とされてはいるが、糸魚川地域には建御名方神に関連する伝説は皆無といってよく、これまた中世の諏訪信仰の流入からではないだろうか。
 
残念ながら奴奈川ではヒスイは拾えないし、不思議なことにこの地域には黒姫山にまつわるヌナカワ姫伝説はあっても、イズモに関する伝説が皆無なのだ。つまりはイズモ勢力の侵攻をうける以前の古代ヌナカワ祭祀圏の中心地であったものか?
 
ヒスイ加工遺跡+祭祀場+象徴という条件なら、姫川右岸の拙宅周辺の糸魚川市街地も負けてはおらず、むしろ豊富にそろっている。ヌナカワ姫に懸想したイズモの八千鉾神から逃亡して、拙宅南2キロの岡のうえにある稚児ケ池に追い詰められて「お隠れになった」といった生臭い口碑まである。
 
現在の糸魚川市の範囲に数あるヌナカワ姫伝説のなかで、イズモ絡みの伝説は姫川左岸には見当たらず、右岸にのみ語り継がれてきたのは何故だろうか?信州には姫川右岸沿いの県境付近に、ヌナカワ姫がイズモから逃亡してきたといった類いの伝説は残っている。
 
そんなことから、「古代越後・奴奈川姫の謎」の著者の渡辺義一郎氏は、伝説を時系列に並べる試みをして、黒姫山のある青海区がヌナカワ姫伝説の発祥地であり、弥生時代くらいに古代ヌナカワ姫祭祀圏の中心地が姫川右岸の現在の糸魚川市街地に移動したと推理しておられ、この解釈は概ねはわたしも同じ。
ただし神社の由来や伝説は時代によって変容するものだから、伝説そのままを時系列に並べられるとまでは考えてはいない。
 
大正時代までの奴奈川神社が、ヌナカワ姫とヌナカワ彦を祀った柳形神明神と呼ばれてきた史実に加え、柳形とは稚児ケ池の小字ということがわかっている。そこに加えて、明治末に糸魚川町・柳形村・奴奈川村が合併したという文章をみつけたので、この正月は柳形村と奴奈川村の所在地を探そうと思う。全五巻もある「糸魚川市史」のどこかに書かれているかも。
 
*文中に奴奈川とヌナカワが混じっていて読みにくいでしょうが、文献や由来などに書かれている固有名詞は「奴奈川」と漢字表記をして、個人的な想いの部分ではヌナカワとカタカナ表記をしております。
 
なぜなら漢字の奴の由来は「囚われた女奴隷」を意味する象形文字ですので、氏子としてつかうに忍びないからです。
奴の漢字表記は「出雲國風土記」からで、記述者が純粋に発音に当て字しただけなのか、あるいは見下す意識があっての当て字であったのかは不明です。
しかしながら糸魚川に伝わるヌナカワ姫伝説は、イズモ勢力の武力侵攻があったことを伺わせる内容が多いことと、考古学的な物的証拠には山陰方面と友好的な関係を伺わせる資料がまったくなく、むしろ隷属関係であったらしいことが伺えて、悲劇的な伝説と符合がいくのです。
そのことから大正時代くらいの郷土史家たちは、蝦夷のヌナカワに弥生文化のイズモに征服されたのだろうと考えており、昭和に糸魚川市史を編纂した青木重孝氏も同じ見解であったようです。
ヌが玉を意味するなら、瓊瓊杵尊とおなじくヌナカワは瓊奈川とするのが字義通りであると考えております。
 
 
 
 

 


諏訪明神はタケミナカタのみに非ず!?・・・北沢房子著「諏訪の神さまが気になるの」

2023年12月26日 08時08分19秒 | ぬなかわ姫
ネット情報を都合よく切り張りした、我田引水の解釈でモノゴトを語る人はおおく、またトンデモ説ほど拡散しやすい。
 
ヌナカワ姫の子供とされている諏訪明神(タケミナカタ)の伝説が、糸魚川に見当たらないのはなぜだ?
文献を丹念に読み込んで論考した本書に、そのヒントがありそうだ。
 
初期の諏訪大明神は、複数の神様コンプレックスであったのが、鎌倉幕府の中枢にいた諏訪円忠がタケミナカタ推しのキャンペーン活動をした結果、諏訪明神とはタケミナカタ!と知名度を獲得していったのですな。
 
糸魚川の碩学、青木重孝氏も、市内の諏訪系神社は尚武の気風が奨励された鎌倉時代の創建なのだと「糸魚川市史」に書いていることと符合がいく。
 
神社の名前や由来書きも、実は明治以降の国家神道の時代以降に書き替えられていることが多く、奴奈川神社もヌナカワ姫命とヌナカワ彦命を祀る「柳形神社」「柳形明神」と呼ばれていた。
 
柳形とはイズモ勢力から逃げてきたヌナカワ姫が「お隠れになった稚児ケ池」の小字であることがわかっていたが、明治末に「糸魚川町、柳形村、奴奈川村が合併した」という文献を発見した。
 
丁寧に時系列で調べていくと迂闊な解釈はできなくなるのが普通だよねw
 
 
 

弥生のイズモがヒスイほしくて縄文のヌナカワを侵略!?・・・梅原猛著「日本の霊性」

2023年10月22日 10時11分06秒 | ぬなかわ姫
哲学者の梅原猛さんは糸魚川探訪記で、ヌナカワ姫の伝説を詳細に調べたていたらしい。
弥生文化のイズモ勢力がヒスイ交易権を欲しいがために、縄文文化を継承するヌナカワの里に侵略戦争をして、ヌナカワ姫はその犠牲者だろうと見解をしておられるが、これは戦前までの糸魚川の郷土史家たちの見解と同じで「西頸城郡誌」でも読んだのだろうか?
 
古い日本の文化をアイヌ語で読み解くなどして言語学者から批判されたこともあったが、梅原さんの文献史学面での公平無私さは評価したい。
 
しかし考古学面ではムムム!という記述が多く、寺地遺跡も探訪して、ウッドサークルとストーンサークルを併せ持つ稀有な遺跡と書いておられますが、あれはサークル状に繋がっておらず、4本の木柱列と不定形の配石遺構なのですぞw
 
ヒスイについては、中国の玉文化を「奇しくも長者ヶ原遺跡と同時代のヒスイ文化」と軟玉ヒスイと硬玉ヒスイを混同して書いておられるが、中沢新一著「アースダイバー神社編」のように妄想だけで書いている訳ではなく、国語辞典ほどの厚みがある「史跡寺地遺跡」を読んだ上で、実際に探訪している点も評価したい。竪穴住居の玄関を這って出る時のエビス顔がキュート。
 
縄文について著作のある詩人の宗左近や岡本太郎なども、「私はそう感じる」と個人的な感想を書いている点は好ましいし、考古学面で多少の勘違いはあってもご愛敬。むしろ異分野からの縄文論は意外性と多様性が得られて面白い。
 
中沢新一のように史実を切り張りしてつくった創作を、あたかも史実のように断言するのとはレベルが違いますな。
 
 
 

 


音が神を連れてくるから「訪れる」説・・・「奴奈川姫と日本一の大ウス祭り」

2023年10月01日 18時43分46秒 | ぬなかわ姫
「奴奈川姫と日本一の大ウス祭り」のヌナカワ姫コスプレコンテストに勇んで応募した友人2名だが、古代風首飾り・三環鈴・銅鐸を持参した本気さに事務局が恐れをなしたのか、行列要員にまわされた模様・・・本当は他に申込がなかったのだそうだw
しかも「気分はヌナカワ姫様💛」の友人たちに貸与された衣装は、美豆良(みずら・上古の男性の髪形)を模したカツラと男性用衣装ではないか!お似合いですけどぉ・・・便所の前にて撮影( ´艸`)
ヌナカワ姫コスプレのつもりで用意した古代風首飾り「ぬなかわ姫」・・・主役より目立ってはいけないw
親し気に古代人から声をかけられたら、昵懇をいただいているKさんだった。美豆良のカツラは、黒いカチューシャの端っこに毛糸を巻いた髷をつけてあり、100均で揃う素材ばかりのグッドジョブだ。
祭りのはじめに神主の祝詞奏上と玉串奉納の儀が厳かに執り行われる本格的な幕開けで、歌劇の様式で式次第が進行。
糸魚川に芸達者な人がいることや、準備に一年かけたという関係者の本気に驚ろく。
翠の羽根をつけたヒスイの精を先頭に、友人が三環鈴と銅鐸を鳴らしながらヌナカワ姫一行の入場。
 
「訪れる」とは「音が神を連れてくる」を原義とする説があるから、友人たちはヌナカワ姫命の入場に相応しい重要な役割を与えられたことになるし、ちゃんとアナウンスもしてくれた。
 
糸魚川の「けんか祭り」の行列では、口をパカパカ打ち鳴らす獅子(地元では浄魔と書いてジョウバと呼ぶ)が破邪を担って先駆けして、次いで錫杖を打ち鳴らす露払いが神の到来を告げてあるくのだから、日本の祭りで音と神はセットが伝統。
奈良の天河弁財天の三環鈴をモデルにした複製。作者は勾玉の注文をいただいた考古学者。
 
もっとも三環鈴は古墳時代中期の遺物だし、新潟県内からの銅鐸の出土もないのでヌナカワ姫は知る由もなかったであろうが、おそらく日本での銅鐸の役割は、稲作の予祝儀礼でつかわれた祭器とおもわれまするぞよ。
ぬなかわヒスイ工房の銅鐸は舌(ゼツ)がヒスイ勾玉の特製。
 
そしてヌナカワ姫の母神の名は黒姫で、ヌナカワ姫が黒姫を襲名していたような口碑がある。黒姫の黒とは色にあらず、古語で田の畔(アゼ)をあらわすクロではなかったか?これが山田説。
 
すなわち黒姫ならびにヌナカワ姫は、豊年豊作を祈る巫女であったのである・・・かも知れないようw
 
 

 


ヤマトの大彦命と戦った奴奈川長者の伝説・・・悲劇のヌナカワ姫伝説

2023年07月10日 07時30分03秒 | ぬなかわ姫
ヌナカワ姫研究の市民グループの事務局をしておられるグラフィックデザイナーの野崎さんが来訪。
ヒスイ王国館に飾られていた野崎さんのポスター。下の水面はヌナカワ姫がお隠れになった伝説のある稚児ケ池をイメージしたものであるらしい。
 
野崎さんのグループは口碑を独自に解釈して、出雲の八千鉾神とヌナカワ姫の「古代のラブロマンス」があり、その後から大和勢力に攻められてヌナカワ姫が稚児ケ池で入水自殺したと結論つけているようだ。
説明文のアップ
 
しかしながら・・・ヌナカワ姫の子孫の奴奈川長者と四道将軍(しどうしょうぐん)の大彦命(おおびこのみこと)が能生の鶉石で戦い、破れて首をはねられたのが「鬼の洗濯岩」の由来、という口碑が「能生町史」に書かれているのだが、野崎さんグループは未読なのか、または見落としておられるのか?
 
日本書紀にある四道将軍の東国平定は古墳時代~飛鳥時代に比定されるので、ヌナカワ姫がヤマトに殺されたとするのは時系列的に無理があるのでは?むろん口碑をそのまま史実とすることはできないが、子々孫々と語り継がれてきた物語りを蔑ろにもできない。
 
また「古代のラブロマンス」の泣き所は、地元に真逆の口碑があることと、出雲勢力とヌナカワ勢力が政治的な協力関係にあっったのだとすると、山陰系の四隅突出型墳丘墓や威信材が出土していないことをどう説明するか?である。
現時点では山陰系の土器片は出土してはいても、考古学では山陰地方でつくられた「山陰の土器」と、山陰の影響を受けた山陰以外の土地でつくられた「山陰系の土器」は明確に区分されている。
 
観光目的で「古代のラブロマンス」を宣伝したいなら都合の悪い情報を黙殺するのも厭わないのだろうが、ヌナカワ姫を実在した人物として「神話から歴史へ」と顕彰するなら、考古学的な検証は必須ではないだろうか?
 
実のところ、口碑は経年で変容するし、ヌナカワ姫伝説には江戸時代以降に追加された形跡のある口碑もある。
記紀や出雲国風土記といった古文献も奈良時代に書かれているので、四百年前後ものタイムラグのある弥生時代後半の物語を史実として検証するには心もとなく、あくまでも参考資料程度にとどめておくべきではないだろうか?
こんな話を二時間ほどして気を悪くされるかと思ったら、面白いと喜んでいただけたようだ。古代風首飾り「ヌナカワ姫」を身につけて記念撮影した野崎さん。
 
史実を星に例えるなら歴史観とは星座のようなもので、文化によって星々の物語は多用なのと同じく、色んな歴史観があっていいと思う。
 
しかし話を聞いた限りは私と野崎さんグループとでは検証手法と歴史認識がちがいすぎ今後の交流は望めなさそうだ。しかし個人的に話を聞きたいというなら誰でもウエルカム!
 
 
 
 

冬至の朝日が昇ってくるライン・・・論文「ヌナカワ祭祀圏のランドマーク」の検証

2023年04月30日 09時14分42秒 | ぬなかわ姫
史実と歴史観は次元が違うのだが、公表された個人の歴史観を史実と思い込んでいる人は多い。
 
わたしは様々な言説にであうとホントなの?と一定の距離をおいて保留しておくが、興味がわけば自分で調べる。
 
そのひとつが内容的に考古学の範疇のグレーゾーンっぽい「ヌナカワ祭祀圏のランドマーク」という論文で、京ヶ峰主峰から冬至の朝日が昇っているのが笛吹田遺跡から見える、すなわち京ヶ峰主峰は古墳中期のランドマークである、といった内容だ。
 
そこで京ヶ峰主峰に登って緯度経度・標高を調べて、「eマップ糸魚川」の遺跡範囲地図にプロットしてみたら、面白いことがわかった。
論文では京ヶ峰主峰と笛吹田遺跡の位置関係だけを問題にしているが、冬至の朝日が昇ってくる予想ラインをピンクの線(A)でひいてみたら、笛吹田遺跡の北にある姫御前遺跡も朝日が観測できる範囲に入っていた。
 
また主峰の南にある稚児ケ池(奴奈川神社跡)~主峰の隣りの最高峰~笛吹田遺跡~姫御前遺跡まで紫の線(B)を引いたら、まっすぐに並んでいることが確認できたのだ。
 
二つの遺跡は弥生後期~古墳中期の玉作遺跡で、ここまでは疑いのない史実である。稚児ケ池との位置関係は偶然の一致にしても、主峰から朝日が昇ってくるのが目視できるのなら、その位置を選んで住居域にしていた可能性もある。
 
また寺町区の人々は、江戸か明治のころまで稚児ケ池で稚児の舞いを奉納していたそうだから、点が線につながり物語りが浮かび上がってきそうだが、ここから先は個人の仮説であり歴史観。もちろん偶然の一致という可能性もあるし、史実を切り張りした仮説や歴史観を史実のように語ることは自戒するところ。
 
よくニューアカデミーなおじさんが、どこかの神社や遺跡が一直線に並んでいる!冬至の朝日が昇ってくる!といった類いのトンデモ説もどきを聞くが、目視できようもない距離を伊能忠敬みたいに平板測量をしながら位置確認してたの?それとも謎の超古代文明があったのか?それとも宇宙人が知恵を貸したのか?と冷ややかに聞いてしまう。
 
紫の直線(B)くらいなら長い竹竿をもった人を何人も並べて見通し測量すれば、古墳時代であろうと直線距離の2キロ程度の真っ直ぐなラインを出すことは可能だ。わたしは測量士と一級土木施工技師なのよ。
 
冬至の朝日問題を検証するには時期的に晴天であることは稀なので、肝心の冬至の朝日が確認することが難しいことが問題。冬至の時に観察してはいるが、いつも曇天なのです( ´艸`)
 
とりあえず成果を書いて、論文の著者に書簡を出してみる。
 
 
 
 

ヌナカワ姫はヒスイの女神にあらず水の神だった!?・・・柳形神社と呼ばれた稚児ケ池

2023年04月29日 08時21分02秒 | ぬなかわ姫
ヌナカワ姫は水の神・田の神として、稚児ケ池の小字の柳形神と呼ばれて崇敬されたという仮説をたて、文献を読み込みこんでは稚児ケ池周辺を歩きまわっている。
大正時代に編纂された「西頸城郡誌」によると稚児ケ池の昔の所在地は、西頸城郡平牛村山崎柳形であったらしい。現在の奴奈川神社は明治のころまで柳形神社と呼ばれていたともあるが、柳形は稚児ケ池の小字だったのだ。
 
国土地理院の地形図アプリで確認しながら踏査したら、京ヶ峰主峰のピークは標高158m、稚児ケ池は標高126mで、緯度経度もばっちりおさえることができた。
見通しのわるい主峰西側の木立から黒姫山も目視できた。ヌナカワ彦・ヌナカワ姫・黒姫の三座が鎮座する信仰の対象が、稚児ケ池に遷宮した旨の口碑があるので、これは大事。
おおむね標高80mくらいからブナ林が点在していた。杉林は暗いがブナ林は明るいので気持ちがいい。
植物図鑑アプリがおもうように起動してくれなかったけど、ブナですよね?W
 
今回の成果は、海側の糸魚川市街地から、稚児ケ池に至る古道を見つけたことだ。
これは寺町区の人々が、稚児ケ池で稚児の舞いを奉納していたという口碑を元に、正装した幼児や大人が徒歩で稚児ケ池に到達できる地形をグーグルアースで探した結果である。
 
この古道だと拙宅のある笛吹田遺跡から、ゆるやかな登りの山道を徒歩20~30分で稚児ケ池に到達できる。それと「山崎三十三塚」が点在するルートらしく、こちらは50年前の発掘報告書を確認中。
 
京ヶ峰の主峰越えルートもあったようだが、ながらく人が通らない踏み分け道なので、倒木や土砂崩れでルートがはっきりせず、登山レベルの登坂道だから正装した集団が越えられる道ではなく、私も歩くたびに迷子になっている。これが愉しいのだけどネ。
 
それと今回の踏査の目的のひとつ、論文「ヌナカワ祭祀圏のランドマーク」の検証に関する成果もあった。これは次回