Mars&Jupiter

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ヴァンデルノートのグスタフ・マーラーの「亡き子をしのぶ歌」を聴きながら三枚町から西谷まで歩く

2010-06-10 05:17:28 | グスタフ・マーラーとアルマ・マーラー
昨日は三枚町から西谷駅まで歩きました。
途中聴いたのはグスタフ・マーラーの作品で、
1901年から1904年に作曲された「亡き子をしのぶ歌」である。
今回聴いたCDは、クリスタ・ルードヴィッヒのメゾ・ソプラノ、
アンドレ・ヴァンデルノート指揮、
フィルハーモニア管弦楽団の演奏による。
フリードリッヒ・リュッケルトの詩に基づくこの作品は、
マーラーが結婚する前に作曲した作品である。
リュッケルトは1836年に二人の我が子を失い、
その失望感から、この詩を書き、マーラーはこの詩に共感したのだが、
結婚後マーラーも愛する娘マリアを失うことになる。

第一曲「いま大陽は明るく昇る」は、
愛する子どもを失った父親の嘆きが歌われる。
自分に降りかかった不幸に苦悩しながらも、
一方太陽はいつもと変わりなく輝いていることを書いている。
オーボエとホルンがお互い絡みあう前奏に続き、
弦楽器とハープの伴奏に乗って歌われるこの歌は、
絶望感を表現した抑制のとれた音楽で示される。
第二曲「いま私にはわかるのだ」は、
父親の不安定な心情が歌われる。
子どもたちは今や星としてまたたいている。
弦楽器により悲しみの情感と空虚感が示され、
ハープが浄化された気持ちを示しているようでもある。
ワグナーの「トリスタンとイゾルデ」の音楽を思わせる曲である。

第三曲「お前のおかあさんが」は、
母親と一緒にくっついて歩く子どもの姿を回想し、
その時最初に見るのは母さんではなくておまえ(子ども)なんだと、
歌うのだが、その自分の喜びであった光が失われたことを嘆く。
イングリッシュホルンとファゴットの掛け合いで始まるこの曲は、
歌とそれに絡まるオーボエなど管楽器によって、
愛する子どもを失った悲しさ・心細さが表現されている感じでもある。
愛する子どもへの気持ちは後半情熱的な歌で示される。
第四曲「よく私は考える」では、子どもたちは、
ただちょっと外にでかけただけだということばが繰り返され、
そう思いこんで、死という現実を忘れようとする親の心情が歌われる。
長調と短調と交互に現れることで父親の不安な心情が表現される。

第五曲「こんなひどい嵐の日には」は、
嵐の日に子どもを外に出してしまったことの後悔が、
繰り返し歌われ、その結果帰らぬ人となった子どもたちの
冥福を祈るように最後は穏やかな音楽となる。
前曲までのルードヴィッヒの歌唱と管弦楽の伴奏は、
まあまあいいのだがこの曲では冒頭の嵐の音楽のところで
管楽器の音が外れたりし、少し残念な部分を感じさせる。
ヴァンデルノート盤のテンポは悪くないのだが、
ここでの管弦楽の表現は物足りない印象を受ける。
最後は子守歌のようにやすらかな音楽になり、
ホルンが鳴り響き、チェレスタとハープにより
彼岸の世界を思わせる音楽となり、静かに終わる。
コメント
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