た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

居るべき場所

2005年04月11日 | essay
 「もしあなたが半径百メートル四方の孤島に生まれ育ち、大海原の向こうのいかなる大陸や島々の存在も知らなければ、あなたが悩まなくて済む問題はたくさんある」
 こんな話をどこかで読んだ。まったくもっともだと思う。「あなた」は核戦争を怖れなくて済むし、おそらく経済競争の慌しさの中で自分を見失うこともないであろう。方向オンチになる心配も無いし、そうだ、新婚旅行でどこに行こうか迷うこともない。色々と連想できる。

 自分が居るべき場所がわからない。そういう悩みを、最近友人から聞いた。どこに居ても、そこが本来自分の居るべき場所ではないような気がしてイライラするという。私にも共感できる苛立ちである。かつて、長い旅行から故郷に帰ってきたとき、大都会に出たとき、何かに不満を感じるとき、そういう焦燥が私を捉え、風船の上に座っているように落ち着かなくした。私は暗い面持ちになり、一室に閉じこもり、閉塞感に喘いだ。自分はここに居るべきではないのではないか? もっと別な場所に、本当の自分の居場所があるのではないか? どうしてそれが見つからないのか? 

 この種の葛藤こそが、絶海の孤島に生まれ育てば起こりえない悩みの、最たるものだということに、私は気づいた。詰まらない気づきではある。私は絶海の孤島に生まれ育ちなんかしなかったのだし、世界の広さを学校やメディアを通じて知り尽くしてしまったのだし、そうした現在、自分の居る場所以外の世界を忘れろと言われても無理がある。

 それにしても、この仮想には何らかの有用な示唆が含まれている気がしてならない。「ピアノの鍵盤は有限だからこそ曲を奏でることができる」。映画『海の上のピアニスト』の主人公はそう言って、無限に広がるかに見えた大都市ニューヨークに降り立つのを止め、船の上で一生を終える道を選んだ。居るべき場所とは何か? それは、居ることのできる場所がほとんど無数に増えた瞬間に、解決できない悩みへと転化する代物である。我々は可能性に頭を悩ませ心を苛立たせているのだ。孤島に住む人にとっては限りなくゼロに近い可能性であり、電車や飛行機を持つ現代人の我々にとっては明日にでも実現する可能性であるが、しかし可能性であることに変わりはない。裏返せばそれは程度の差でしかない。我々は結局、どこにでも住めるわけではない。我々の生きる時代に限定があるのと同様、生きる地域にも限定がある。

 我々はそんなに自由ではない。そんなに自由であっても、結局のところ不自由にしか感じられない。
 私に、悩みを打ち明けた友人のように。

 それでも、自由な現代人としての我々は、自分のより良き居場所を求めて苦悩せざるをえない。それこそが自由の証と信じているから。
 私は友人の相談にメールで返事を書き送った後、家の外に出てみた。小雨の後、美しい山々が遥か遠くに雲を棚引かせていた。私は半分あの山々に惚れて、この地を次なる居場所に選んだ。しかしここが私の居るべき場所かどうかはわからない。ただ、私は何となく、そろそろ自分の鍵盤を限りたいと思っている。
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河原

2005年04月11日 | essay
 東京から友人が二人やってきた。一人は故郷の焼酎を片手に、一人は「サザエさん」というケーキ菓子を手に。私の家に灰皿がなければ空き缶を解体して灰皿代わりに勝手にすぱすぱやる、というくらいの気の置けない友人たちである。
 二日目くらいに行く所がなくなったので、市街地の外れの河原に降りた。水が澄んで、叢の間にタンポポが黄色い顔を覗かせている。空には飛行機雲しかない。
 焼酎の友人が薄平べったい小石を投げて水切りをした。「サザエさん」の友人はきれいな小石を選別し始めた。我々は二十年前の自分たちのように他愛もなく時間を潰した。もちろん、二十年前、我々はまだ知り合っていなかった。しかし二十年前の子どもたちは皆大体似たようなことをしていたのだ。

 「変わった石を探そうぜ」
 「サザエさん」が提案して、焼酎も私もそれに従った。

    *    *    *

 石を触ってざらざらになった手を払い、私は叢の上に腰を下ろした。透明な風が吹き抜け、日差しが思ったよりも傾いたことを知った。対岸を自転車で行く人を見つけた。座っている場所から、青草の日に焼けた匂いがした。

 我々がこの感情を卒業するのはいつだろうか?────川面を反射する光に目を細めながら、私は自分に尋ねた。この、子ども心を捨てる日は来るのだろうか。こういった他愛もない時間の遣い方、他愛もない自然物への憧憬、他愛もない遊び心が、小さくなったパジャマを着たいとも思わなくなるように、我々の関心から顧みられなくなるときが来るとすれば、それはいつであろうか。

 我々はこの感情を卒業すべきなのだろうか?────私は自分に問い直した。我々は大人である。大人という部類に属している。属したいと思っているし、属さなければいけないとも思っている。
 「この感情」は、大人としての我々にとっての何なのか。憩いの場なのか。逃げ場所なのか。もはや取り戻せないものをバーチャルに体験しているのか。それとも、決して振り捨てられない核としての人間味なのか。
 我々の乳臭さなのか。我々の老いなのか。

    *    *    *

 「何か楽しい遊びねえかなあ」
 散々小石で遊んだ焼酎が、比較的大きな石を持ち上げながら鼻歌を歌うように独りごちた。「この石割ってみよっと」
 彼が手にした石を落とすと、きれいなネイビーブルーの割れ口が開いた。
 「そろそろ行くか」
 私は立ち上がった。
 ちょっと待ってくれと、小石を並べていた「サザエさん」が言ったが、時刻も夕闇を告げつつあったので、我々は手や尻を払ってその河原を後にした。
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