た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

古寺にて

2005年05月10日 | 写真とことば
夏はひそかな破壊者でもある。
豊穣は必ず土台を食い尽くすのだ。
それはまことに
まことに明るい搾取である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鹿

2005年05月10日 | essay
 鹿が増えて困っている、と新聞に出ていた。暖冬で生存率が高くなったとか。農作物を食い荒らしたり、森の木々を駄目にして土砂崩れまで引き起こす段になって、農作物と生態系の保護のため頭数制限に乗り出すことになった。鹿肉をもっと食べようとキャンペーンもはるらしい。

 そうか、鹿は増えすぎると殺されるんだ、と今更ながら心に思った。人間は増えすぎても頭数制限で始末されることはないが、鹿は人間の食糧確保のためにも消されていくわけだ。少ないうちはあれほど愛玩されながら。

 ふと心中に生じたこの疑問を、私の年齢なら首を横に振り、嘆息して終わりにするが、もし子どもたちが心に抱いたらどうなるか。どうして? どうして人間は増えすぎても責任を取らないのに、鹿などの野生動物が増えすぎると殺されるの、と。どうして人間は減らなくていいの。どうして人間は自然を破壊していいの。どうして人間だけ食糧を独占していいの。

 だったらお前は何も食べるな、という使い古された言い回しは、当然ながら意味を成さない。生きている以上食べたいのは生物としての本性であり、それを捻じ曲げよ、と言っている話ではないのだ。われわれは生きなければならない。当然生きるためのことはしなければならない。それにしても、このような生き方でいいのか、という実に微妙な問題である。

 直情的な子どもたちであれば、そこを誤解し、生きていることすら罪に感じるかもしれない。そこが心配である。だったら自分は食べない、と決意するほどの剛毅な子どもはまさかいないと思うが、それでも昨今の子どもの自棄的な行動の増加を見るにつけ、あの繊細で小さなハートに、大人の身勝手な言動がどれだけの動揺と絶望と無気力感をもたらすか、低年齢層の凶悪犯罪の多発もひょっとしてその辺りが原因なのではないか、と勘繰りたくなる。

 われわれ大人には、われわれ自身のことを語るとき、仕方ない、人間なんだから、で、何事も片付ける悪癖がある。鹿はそれでは納得してくれまい。子どもは納得するかもしれない。が、同時に少し傷つくかもしれない、そこのところに注意深くありたいと思うのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする