夜が終わった。追憶の夢は途切れた。空のないアーケード街にも朝の光が訪れた。その光でようやっと力を得ているかのように、背中を丸めた老人が自転車をふらふらと漕いでいく。よろめきついでに、野良猫に向けて痰を吐く。野良猫は避けもしないで、ニャアと鳴く。
まったく、薄汚いところで夜を明かしたものだと今更ながら驚く。化粧の剥げた寝起きの娼婦のような通りである。生ゴミや嘔吐物の臭いまで辺りを漂っているか知らん、それは霊たるこの身にはわかりようがない。全体なぜこんなうらぶれた場所で一夜を明かしたのか。一睡もできない境遇ならばせめて生命活動というものをわずかなりと感じられる場所で夜を過ごそうと目論んだのである。それでアーケード街である。しかるに夜に活動する街は即ち朝が来て死ぬ街である。寝ることを許されないまま死んだような表情で起き続ける街。まるで今の私である。そう思うと俄然居たたまれなくなった。私は立ち上がり、地を離れ、アーケードを突き抜けて空に飛び出した。
曙光が走る。純白の地平線が彼方に伸びる。Mehr Licht!
卒然として清冽なる朝焼けに私の体は貫かれた。昨日までの雨で大気は埃を落とし、東京は珍しくも澄み渡っている。早朝の恩恵である。あと半時もすれば東京中の人間共が活動を始め、街は再び煤煙の中に埋もれるであろう。「この世で美しい場所と言えば、どれだけ人間がいないかにかかっている」というラ・ロシェフコーか誰かの言葉を思い起こした。裏返せば、人の消えた瞬間、どんな場所であれ美しい。
私は空に立ち、燦々たる東に向かって大きく四肢を伸ばし、胸を張った。吸えない息を大きく吸い込む真似をする。つくづく思うに、私は生ある時、何を求めて日々を過ごしていたか。あらゆる悦楽を保証する富。あらゆる美を審判しうる才能。名声。地位。云々。そんなところか。では自問する、日々求めるものが、単に翌日の美しい夜明けであってはどうして不満足だったのか。自答は即座である。生きることそのものの意味よりも、生きて何かしらなすことの意味の方が、大きく見えたからだ。動物は本能に束縛され、人間は意味に束縛される。私は小さく首を振った。
そろそろ我が家へ戻らなければならない。何しろ今日は私の葬儀である。
(まだつづく)
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