我慢できる限界値は、我慢して得られる快楽に相関する。
(よって、人は合理的な理由がなければ我慢できないのだ。
後にこれだけのものが得られるから、今これは我慢する、と。
とすると、それは我慢と言えるのだろうか? むしろ作戦だ。
後に相応の見返りを得るための。純粋な意味での我慢なんて、
誰にも──どんな意志の強い聖人にも、できっこないのだ。)
・・・これは表題の通り、我慢についての邪視的考察である。
自分が些細なことで我慢できなかったがゆえに、これを書いた。
(よって、人は合理的な理由がなければ我慢できないのだ。
後にこれだけのものが得られるから、今これは我慢する、と。
とすると、それは我慢と言えるのだろうか? むしろ作戦だ。
後に相応の見返りを得るための。純粋な意味での我慢なんて、
誰にも──どんな意志の強い聖人にも、できっこないのだ。)
・・・これは表題の通り、我慢についての邪視的考察である。
自分が些細なことで我慢できなかったがゆえに、これを書いた。
たしかに、何が得か理解しておく方が、忍耐の徳も生まれるのかもしれません。
ただ、怒りというのはほぼ例外なく不利益をもたらすことを考えれば、建設的な結果をもたらすためには忍耐の方が得だと一般的に言えるのではないかと思います。
ゆえに、忍耐には大抵合理的な理由があり、怒りには非合理な理由しかないと言えるのではないかと思います。
言い返さなくていいと言われるかも知れませんが、それでは、たとえば、戦争という怒りの表現形は、国益の名の下に止められなくなるのではないか、という恐れを漠然と抱くのです。