た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

小雨(二日酔いの翌朝)

2005年10月04日 | 寄席
 そこからの私の記憶が、無いんですよ。ええ、きれいさっぱり。無いんです。まあ酔いつぶれて記憶が飛ぶってこたぁそれまでも再三ありましたがね。あれだけ見事に、カッターで切り取ったようにきれいに記憶が飛んだのは初めてだ。
 「もうお昼過ぎるよ。いい加減起きないとほんとに離縁するよ」
 って女房に起こされて気がついたら、我が家の布団の上ですよ。私ゃ再度びっくりしましたんでございます。聞きゃ、明け方、泥酔してふらふらになって帰って来たって言うじゃないですか。しかも、びしょ濡れでね。
 「そんな土砂降りでもなかったはずだけどね。どんだけ長い間外をほっつき歩いてたんだい」
 そう女房は言うんですよ。確かにゆうべはずっと霧雨だった。明け方に土砂降りになったって話もついぞ聞きません。それに気持ちの悪いことに、緑色の水草みたいなものがスーツについていたらしいんです。そいつは私ゃ確認してません。女房がすでに洗い落としてたんでね。

 不思議なのは、まあ何もかもすべてが不思議でならないんですが、とりわけ私が不思議に思うのはでございます、夢か幻かはともかく、あのスナックでママさんと話したところまでは鮮明に覚えてまして、それはいっくら時が経っても忘れないんでございます。夢とも幻とも、正直、とても私には思えないんですなあ。
 いいですか。私がふったあと自殺した女なんていないんですよ。いないんです。いないに決まってるんです。二十年前だろうが三十年前だろうが。でも、ああ、俺には確かにそんな女がいた、とあのとき強烈に思い出した、その背筋が凍るような感覚だけは、この五体に、入れ墨のようにしっかりと刻み込まれて残ってるんでさあ。
 そういうことってございますかねえ。
 あの女の最後に放った言葉、待ち人が来たって言葉。あれがどういう意味だったか、確かめたくて、それから何度もあの橋のたもとの辺りをうろうろしてみたんですけどねえ。「小雨」って名前のスナック、いまだに見つけきれないんでございます。
 それが不思議と言やあ、一等不思議でございますが。


(終わり) 
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