一路海岸へ。次に目指すは東尋坊。
高さ二十メートルを超える断崖絶壁。打ち寄せる日本海の荒波。東洋随一の奇観。国定公園に指定されながら、同時に自殺の名所としてもその名をはせる。その壮絶壮大な景色を前にすれば、永平寺で得られなかった悟りの境地に、ひょっとすると近づけるやも知れない。
あるいは死というものが見えるかも。
越前平野は予想以上にだだっ広かった。果てしなく田畑と電信柱が続く。私はひたすら車を走らせた。
四十を過ぎて旅をして、自分は果たして何を得ようとしているのか───ハンドルを握っていても、思考は自然とそこに行きつく。私は何を悟りたいのか。どう自分を変えたいのか。若いときも、よく旅をした。あの頃なら電車や徒歩で半日かけた距離を、今は車で数時間である。若い頃なら寝袋を担いでとぼとぼ歩きながら日暮れを迎えていたのに、今はしっかりと宿を予約し、車を走らせ、『まっぷる』まで携帯している。しかも『まっぷる』は図書館で借りたものだ。旅が終われば返却するという魂胆だ。こんなちゃっかりした旅で、いったいどんな神秘的体験が望めるというのだ。
私の呻吟(しんぎん)を他所に、助手席に座る、やたら調子のいいこの旅の同伴者は、『まっぷる』を広げ、海の幸としてエビ天を食べるべきか、カニはまだ早いか、などとどうでもよい話題をふっかけてくる。どこに店があるんだと訊くと、東尋坊タワーにあるから大丈夫だと言う。
東尋坊タワー?
東尋坊にはタワーがあるのか。私はハンドルを握る手に汗を感じた。断崖絶壁に打ち寄せる日本海の荒波、その荘厳な景勝地には、タワーが建っているのか。
急速に押し寄せる不安を振り払いながら、私はさらに車を走らせた。
不安は的中した。東尋坊も、立派な一大観光地だった。
考えてみれば当然のことである。風光明媚で名の知れた場所である。観光産業が目をつけないはずがないではないか。噂の東尋坊タワーに隣接したやたら高い有料駐車場に始まり、ここは京都か浅草か、と思わせる土産物屋が通りの左右に列を成す。店先では、長年の人ごみと砂ぼこりのせいか目の座った店員が、誰に向かってともなく呼び込みをしている。店頭に並ぶのはなぜか南国の貝殻や、『がけっぷち』などと書かれたTシャツ。ソフトクリームを手にし、買ったばかりの編み笠を被った観光客などが、群れとなって行き交う。ひと時代前はもっと賑わっていたのだろう。シャッターを降ろしたままの店もちらほら見かけた。
高度経済成長の落とし子のようなその通りを抜けると、ようやく柱状節理でできた岸壁が現れる。
評判に違わず壮観である。何者かの怨念のようにそそり立つ岩石のはるか下方で、海が白波を立てている。
しっかりと抹茶ソフトを右手に握りしめた私は、崖の先端からこわごわ下を覗き込んだが、足がすくんで十秒と立っていられない。ともに高所恐怖症であることを思い出した私と同伴者は、速やかに数十メートル手前の安全な地点まで引き返し、そこに腰を下ろした。
しばし呆然と日本海を眺める。
悟りを開くのはまたにしようと思った。
日没を待たずして、東尋坊を脱出。その日の最終予定地は山中温泉。
いよいよ夜の部が幕を開ける。
(つづく)
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