まず告白しておかねばならないが、私は一連の会話を平静に聞いていたわけではない。それどころか驚愕の極みにあった。犯罪の露見した罪人のように私は激しく動揺した。よろめきさえしたのだ。笛森。色褪せたその名前が私の冷たい胸に突き刺さった。
笛森。学生ではない。そんな名前の学生は金輪際存在しない。その名前は、ああ、三年前私が出会った女の名前である。その女のために私は一年と半年の間美咲を裏切り続けた。家族を欺き続けた。しかし最後は、妻と一人息子を選んだ。理性だったと、そのときの自分の行為を自分に言い聞かせた。
別れの晩に、彼女に手渡した花束を思い起こす。霞草だけの白い花束であった。彼女の一番好きな花。彼女は霞草を受け取り、胸に抱いたまま声も上げずに泣いた。
それから音信は途絶えた。
だが、だが解せないのはここからである。美咲は今、学生と言った。笛森は学生を騙ることすらできない年齢であった。今なら四十を過ぎている。童顔の可愛らしい顔立ちではあったが。
それに、一昨年、彼女は交通事故で死んでいる。
目くるめく思い出が無数の疑問符を放ちながら脳裏に渦巻く中、いつの間にか私は美咲に近づき過ぎていた。知るはずのない名前を口にしたこの女の心中を表情から探ろうとした。あるいはやみくもに妻の口を塞ごうとしたのか。私は完全に動転していた。笛森という学生に会ったのはそれが初めてか、と警部が質問したときには、私は美咲の斜め前手が届くほどの距離にいた。美咲が目を上げた。実際には、彼女は私の背後の大仁田を向いたのかも知れない。奇跡はそのとき起こった。
美咲の表情が凍りついたのだ。
(つづく)
笛森。学生ではない。そんな名前の学生は金輪際存在しない。その名前は、ああ、三年前私が出会った女の名前である。その女のために私は一年と半年の間美咲を裏切り続けた。家族を欺き続けた。しかし最後は、妻と一人息子を選んだ。理性だったと、そのときの自分の行為を自分に言い聞かせた。
別れの晩に、彼女に手渡した花束を思い起こす。霞草だけの白い花束であった。彼女の一番好きな花。彼女は霞草を受け取り、胸に抱いたまま声も上げずに泣いた。
それから音信は途絶えた。
だが、だが解せないのはここからである。美咲は今、学生と言った。笛森は学生を騙ることすらできない年齢であった。今なら四十を過ぎている。童顔の可愛らしい顔立ちではあったが。
それに、一昨年、彼女は交通事故で死んでいる。
目くるめく思い出が無数の疑問符を放ちながら脳裏に渦巻く中、いつの間にか私は美咲に近づき過ぎていた。知るはずのない名前を口にしたこの女の心中を表情から探ろうとした。あるいはやみくもに妻の口を塞ごうとしたのか。私は完全に動転していた。笛森という学生に会ったのはそれが初めてか、と警部が質問したときには、私は美咲の斜め前手が届くほどの距離にいた。美咲が目を上げた。実際には、彼女は私の背後の大仁田を向いたのかも知れない。奇跡はそのとき起こった。
美咲の表情が凍りついたのだ。
(つづく)
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