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無計画な死をめぐる冒険 53

2007年01月07日 | 連続物語
 哲学に糞を食らわされたら、私のみならず唐島だって本意ではない。彼は論筋の修正を試みようとした。大風呂敷を広げるときの彼のいつもの癖で、右手で左の二の腕を執拗にさする。先ほどは自分が長広舌を振るうつもりが由紀子にお株を取られたので、今度こそ話の主導権を握るつもりである。
 「それは、あるいは、現代社会と個人主義というもっと大きな問題に行き当たるかもしれませんな」
 「ほう、資本主義の次は個人主義と出たか」と叔父。
 「個人主義です。個人主義は資本主義の土壌にしか育ち得ないのです」
 新しく来た近所の弔問客が、目をしばたたかせて肩をすくめながら脇を通っていく。五軒先の酒屋の旦那とかみさん。八十一歳になる町内会長。藤本内科の奥さん。みな頭の中では必死に、私の死と小耳に挟んだ主義とやらとを関連付けようとしているのだろう。
チーン、とお鈴が鳴る。
 「先ほど私はパラダイムということを申しましたが、まあ一種の知識の檻のようなものですな。哲学は檻の外から、つまり資本主義社会とか経済とか自由とかいった現代のパラダイムの外から内に対して批判を加えようとする。しかし檻の外に出ることは当然ながらとても難しいことでして、骨の髄まで染み渡っている今日の常識をいったん度外視することなんざそう簡単にはいかんのです。我々がふだん気づきもしない精神の奥底のレベルで、我々の行動を支配している、そういう今日的常識というものがある。その際たるものが個人主義です」
 「夏目漱石も個人主義のことを書いてましたな」
 そう口を挟んだのは、近所でも指折りの暇人として知られている地主のたっちゃんである。まだ四十代だが、親譲りの土地にマンションを建ててその一軒の家賃収入だけで一家三人を養っている。
 「あんた夏目漱石を読んでなさるか」と叔父。
 「いえ、『新潮流』で特集してましたんで」
 「けっ、雑誌の解説で通人ぶるのは止してもらいてえな。旅行雑誌を読んでその土地に行ったかのように自慢してるのと一緒だ」
 「そういうあんたは読みなさったのか」
 「わしか。わしは『坊ちゃん』も『先生』も読んだ」
 「そら教科書で読んだんだ」

(つづく)
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