織部は立ちすくんだ。彼の目に涙が浮かんだ。それくらい彼女の変わりようは激しかった。
落ち窪んだ目のふちとげっそりと痩せた頬。単に痩せたのではなく、精神の異常が顕わである。病的に見開いた虚ろな目。小刻みに震える指先。彼女は生きながらにして廃人と化していた。
その姿はまるで、砂漠に根付くことなく枯れ朽ちてしまった一輪の花のようであった。それも、満開を知らないまま、まだうら若い蕾のままで。
それでもヒロコは、完全に心の病に侵されているわけではなかった。彼女は闖入者に気づいた。焦点の合わない視線は彼を捉え、しばらく経ってからはっきりと焦点を取り戻した。表情に驚きが広がった。
「け・・・刑事さん?」
織部は膝を突いた。
「ああ、ああ、そうだよ。覚えているかい?」
「私を取り調べた刑事さん」
「そうだ。刑事だ。覚えているかい? 今は休職中だがね。でも確かにあのころは刑事だったよ。そうだ。君を取り調べた織部だよ」
言いながら、織部はやるせない悲しみでいっぱいであった。彼女をこんな姿にさせた何かに対する激しい怒りがあった。その何かは、特定の個人なのか、それともほとんど社会全体と言っていいほどのものなのか定かでなかった。しかし明らかに、この子にはまったく別な道もありえたはずだ。そういう思いがあった。
彼はふと自分の両脇に兵士がいることに気づいた。英語で吐き捨てるように言った。
『出てってくれ。彼女と二人だけにさせてくれ』
『それはできない。命令だ』
『それでは彼女の心を開かせることができない。無理だ。出てってくれ』
監禁されて以来初めて発した強い口調であった。二人の兵士は互いに見交わしていたが、織部を残して立ち去った。
二人きりになり、織部は改めてヒロコを見つめた。激しい当惑と喜びと不安のないまぜになった彼女の目に、自分の目の高さを保ったまま、にじり寄った。
「織部だ。日本の織部だ。君が小学生の時から事件を担当してきた。わかるか?」
泣きそうな笑顔が頷いた。
「なんてことだ。がりがりに痩せ細って・・・どうして、こんなになるまで・・・今も・・・苦しいのか?」
頬を震わせながら、彼女は頷いた。
「私を捕まえに来たの?」
「違う。そうじゃない。今は、日本の刑事じゃないんだ。俺は────昔からの知り合いとして、君に会いに来た。君の知人として。君のことが心配で来たんだ」
彼は周囲に視線を走らせた。唾を呑み込み、意を決した顔で、ぐっと声を低めて言った。
「ヒロコ。逃げよう。ここから逃げよう」
ヒロコは目をまじまじと見開いて織部を見つめた。当惑する黒い瞳に、一瞬間、期待が掠め、消えていった。
力なくヒロコは首を横に振った。
「逃げよう。俺と一緒に。ここは地獄だ。死の世界だよ。さっき、首長みたいな男が、君の心に悪魔が宿っていると言った。だが違う。本当はここ全体が悪魔で、君は悪魔に囚われているんだ。君はまだ正気だ。大丈夫だ。逃げよう。多国籍軍の攻撃が始まる。これ以上・・・もう、何もしなくていいんだ。もう君は何もしなくていいんだよ、ヒロコ。だから、逃げよう」
ヒロコは首を横に振った。涙が散った。
「どうしてなんだ? 奴らをうまくだましてジープに乗り込もう。何とかなる。ここにいると君は狂ってしまう。全てが手遅れになる前に・・・どうしてだ? なあ、どうしてなんだ? ここから逃げたくないのか?」
「駄目」
「どうしてなんだヒロコ」
「私は殺人鬼よ。逃げたって、行くところがないの」
「ある。日本があるじゃないか。日本に帰ろう。日本が、日本が駄目なら、一時的にどこか別の国へ身を隠せばいい。とにかくどこでもいい。ここにいて人を殺し続けるよりはましだ」
「しっ、来るわ」
「ヒロコ」
(つづく)
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