美咲の顔は蒼白である。細い脚はくる病のように萎えている。歯が音を鳴らす。こいつは心臓麻痺で死ぬのではないかと思った。傍らの二人も同感だったろう。警部と大仁田は共に美咲を支えながら、革張りのソファに横たえた。大仁田は汗をかいている。警部は眉根をしかめている。誰も、何も説明できなかった。
勢いを失った雨音が壁に滲み入る。
大仁田が決然とした面持ちで警部を見上げた。
「警部さん。あの、これ以上の尋問は駄目です。駄目です。止めてください。あなたがいろいろ根掘り葉掘り聞こうとするから、もう、奥様錯乱しておられるじゃないですか」
「根掘り葉掘り訊いてはいない。しかし、その・・・幻覚は以前からあったのかね」
「だから尋問は止めてください」
大仁田は頑として受け付けない。美咲に対する質問も自分に対するそれも一絡げにして突き放す魂胆である。この辺があざとい女である。
「笛森という学生のことだが」
「警部さん」
だが、大仁田に言われるまでもなく、さすがの警部も口を閉ざさなければならない羽目になった。複数の足音が廊下をこちらに近づいてきたのだ。大裕叔父や唐島、たっちゃんなどの声も認められる。美咲の悲鳴は通夜席まで聞こえたと見える。
どこだ。居間の方だ。美咲さんの声か。美咲さんに違いねえ。おい、誰のか数珠が落ちたぞ。踏むなよこら。野次馬と化した者どもの怒鳴り声は足音より高い。通夜よりよっぽど楽しそうだと踏んでいるのだろう。どの声も浮き浮きしている。それらの声も足音もドアの前でぴたりと止んだ。先ほどまでの喧騒とは対照的に、慎重にノブが回り、ドアが開いた。
咄嗟に、警部は民間人を装うとした。手帳をポケットに仕舞い、数珠を取り出して腕に掛けた。無駄な小細工である。だいたい、変死を遂げた死人の葬式に見も知らぬ男が現れ、変死の現場に佇んで、不思議がられないはずがない。五分も経たないうちに「私服警官が他殺の疑いで現場検証にやってきた」という噂は家中の全弔問客の耳に伝わった。美咲は寝室に引っ込んだが、彼女が私の幽霊を見て卒倒したという噂がその前置きに使われた。実際には美咲は気を失ってはいない。しかしそんな厳密性は野次馬たちにとってはどうでもいいのだ。それよりも幽霊談義である。
「いるかいないか知らんがさ」と大裕叔父。「死んでもろくなもんにゃなりゃしねえ」
「美咲さんの見たのは、多分美咲さんの心の中ね」と由紀子。
「どういうことだい」
「さあね」
叔父は周りを憚って咳払いをする。
「ちょっと由紀子ちゃん、美咲さんはそんなこたあしねえよ」
煙草の煙を吐き出すまで由紀子は黙っていた。顔を俯け、眼鏡の縁の上から目を見開いて叔父を見つめる。
「誰もそんなこと言ってないでしょ。叔父さんが疑ってるんじゃなくって」
二人から少し離れた平机では、唐島が両肘を突いて神妙な顔で宙を見つめている。
おせっかい焼きのたっちゃんが隣に座り込んだ。
「お宅さん、ちょいと小耳に挟んだんですが」
「はあ」
「例の、問題のウィスキーをですな、故人と一緒に空けて飲まれたってほんとですかい」
唐島は両手で顔を擦った。「はあ、はい」
たっちゃんはいよいよ身を乗り出す。
「そんときは何ともなかったんで」
両手から上げた顔は、泣いたあとのように紅潮していた。
「え? いや、何ともなかったですが。たぶん。ちょっとお手洗いへ行かせて下さい」
もう一名の様子を描写して、この呪われた家を後にしよう。我が息子の博史である。自室に籠もって何をしているのか訝しく思ったので、霊的存在の特権で潜入してみたのだ。
汚い部屋である。普段帰ってこないのに汚い。くしゃくしゃのズボンがベッドの上で雑誌を尻に敷いており、棚から崩れ落ちたCDケースがそのまま厚い埃を被っている。博史は自分の部屋を家政婦にも誰にも絶対掃除させない。そうかと言って自分で掃除するわけではない。詰らん頑固は誰に似たのか。不肖不遜不謹慎の三不のついたこのどら息子は、ベッドの台に背を凭れて携帯電話を掛けていた。
「うん。やってらんねえよ。うん。警察はもう帰ったけどさ。わかんないんだよ。え? 俺?俺にもわかるわけないだろう。全然家に寄り付いてなかったんだから、ここんとこ。・・・うん。畜生。やってらんねえよまったく。勝手に死にやがってと思ってたら、はた迷惑にも変な死に方しやがって。え? いいんだよ。構わねえよ。いいんだって。え? ほっといてくれ。俺の親父なんだから。俺の親父なんだよ。殺されたのは。わかるか? ほっといてくれ。・・・え? 別に怒ってねえよ。怒ってねえって・・・畜生・・・あのさ、聞いてくれるか。うん、聞いてくれ。何て言うか・・・いくら憎くてもさ、死んじまったらさ、もう色んなことが手遅れになるんだって、やっとわかったよ。すっごい迷惑なんだよ。残されたほうとしちゃあ。しかも浮かばれない死に方してさ。わかる? 堪んないんだよ。どうしていいかわかんないんだよ、これから」
我がどら息子は、何としたことか。赤い目をしていた。幼い頃、私にぶたれて、突っ立ったまま下唇を噛んで泣いていたときの目である。髭を剃る年頃になってからはついぞ見たことのない目である。成長する過程で、博史はいつの間にか激情を冷淡に変える術を身につけた。目から感情が消えた。それが今、かつてのように兎の目をして天井を睨んでいる。私は呆然とその場に立ちすくんだことを告白する。
携帯を耳に押し当て、息子は老人のように背中を丸めた。
窓の外は、早い宵闇に紛れて、止みつつある雨。
「犯人?」
博史は空いた手で前髪を乱暴に掻き上げた。
「犯人なんてどうでもいいんだよ。多分。殺されたってことだよ。あいつは」
それは私にずしりと迫る言葉であった。
博史が携帯電話を切るのを待って、私は彼の部屋を出、そのまま夜の街へ去った。もし誰かが再び奇跡的に私の姿を目に留めても、亡霊ではなく、ただの酔っ払いと誤認してもらえるほど遠くの見知らぬ歓楽街に行き、閉じられたシャッターの前で、私は眠ることのない夜を過ごした。私の心は重かった。
(第三章へつづく)
勢いを失った雨音が壁に滲み入る。
大仁田が決然とした面持ちで警部を見上げた。
「警部さん。あの、これ以上の尋問は駄目です。駄目です。止めてください。あなたがいろいろ根掘り葉掘り聞こうとするから、もう、奥様錯乱しておられるじゃないですか」
「根掘り葉掘り訊いてはいない。しかし、その・・・幻覚は以前からあったのかね」
「だから尋問は止めてください」
大仁田は頑として受け付けない。美咲に対する質問も自分に対するそれも一絡げにして突き放す魂胆である。この辺があざとい女である。
「笛森という学生のことだが」
「警部さん」
だが、大仁田に言われるまでもなく、さすがの警部も口を閉ざさなければならない羽目になった。複数の足音が廊下をこちらに近づいてきたのだ。大裕叔父や唐島、たっちゃんなどの声も認められる。美咲の悲鳴は通夜席まで聞こえたと見える。
どこだ。居間の方だ。美咲さんの声か。美咲さんに違いねえ。おい、誰のか数珠が落ちたぞ。踏むなよこら。野次馬と化した者どもの怒鳴り声は足音より高い。通夜よりよっぽど楽しそうだと踏んでいるのだろう。どの声も浮き浮きしている。それらの声も足音もドアの前でぴたりと止んだ。先ほどまでの喧騒とは対照的に、慎重にノブが回り、ドアが開いた。
咄嗟に、警部は民間人を装うとした。手帳をポケットに仕舞い、数珠を取り出して腕に掛けた。無駄な小細工である。だいたい、変死を遂げた死人の葬式に見も知らぬ男が現れ、変死の現場に佇んで、不思議がられないはずがない。五分も経たないうちに「私服警官が他殺の疑いで現場検証にやってきた」という噂は家中の全弔問客の耳に伝わった。美咲は寝室に引っ込んだが、彼女が私の幽霊を見て卒倒したという噂がその前置きに使われた。実際には美咲は気を失ってはいない。しかしそんな厳密性は野次馬たちにとってはどうでもいいのだ。それよりも幽霊談義である。
「いるかいないか知らんがさ」と大裕叔父。「死んでもろくなもんにゃなりゃしねえ」
「美咲さんの見たのは、多分美咲さんの心の中ね」と由紀子。
「どういうことだい」
「さあね」
叔父は周りを憚って咳払いをする。
「ちょっと由紀子ちゃん、美咲さんはそんなこたあしねえよ」
煙草の煙を吐き出すまで由紀子は黙っていた。顔を俯け、眼鏡の縁の上から目を見開いて叔父を見つめる。
「誰もそんなこと言ってないでしょ。叔父さんが疑ってるんじゃなくって」
二人から少し離れた平机では、唐島が両肘を突いて神妙な顔で宙を見つめている。
おせっかい焼きのたっちゃんが隣に座り込んだ。
「お宅さん、ちょいと小耳に挟んだんですが」
「はあ」
「例の、問題のウィスキーをですな、故人と一緒に空けて飲まれたってほんとですかい」
唐島は両手で顔を擦った。「はあ、はい」
たっちゃんはいよいよ身を乗り出す。
「そんときは何ともなかったんで」
両手から上げた顔は、泣いたあとのように紅潮していた。
「え? いや、何ともなかったですが。たぶん。ちょっとお手洗いへ行かせて下さい」
もう一名の様子を描写して、この呪われた家を後にしよう。我が息子の博史である。自室に籠もって何をしているのか訝しく思ったので、霊的存在の特権で潜入してみたのだ。
汚い部屋である。普段帰ってこないのに汚い。くしゃくしゃのズボンがベッドの上で雑誌を尻に敷いており、棚から崩れ落ちたCDケースがそのまま厚い埃を被っている。博史は自分の部屋を家政婦にも誰にも絶対掃除させない。そうかと言って自分で掃除するわけではない。詰らん頑固は誰に似たのか。不肖不遜不謹慎の三不のついたこのどら息子は、ベッドの台に背を凭れて携帯電話を掛けていた。
「うん。やってらんねえよ。うん。警察はもう帰ったけどさ。わかんないんだよ。え? 俺?俺にもわかるわけないだろう。全然家に寄り付いてなかったんだから、ここんとこ。・・・うん。畜生。やってらんねえよまったく。勝手に死にやがってと思ってたら、はた迷惑にも変な死に方しやがって。え? いいんだよ。構わねえよ。いいんだって。え? ほっといてくれ。俺の親父なんだから。俺の親父なんだよ。殺されたのは。わかるか? ほっといてくれ。・・・え? 別に怒ってねえよ。怒ってねえって・・・畜生・・・あのさ、聞いてくれるか。うん、聞いてくれ。何て言うか・・・いくら憎くてもさ、死んじまったらさ、もう色んなことが手遅れになるんだって、やっとわかったよ。すっごい迷惑なんだよ。残されたほうとしちゃあ。しかも浮かばれない死に方してさ。わかる? 堪んないんだよ。どうしていいかわかんないんだよ、これから」
我がどら息子は、何としたことか。赤い目をしていた。幼い頃、私にぶたれて、突っ立ったまま下唇を噛んで泣いていたときの目である。髭を剃る年頃になってからはついぞ見たことのない目である。成長する過程で、博史はいつの間にか激情を冷淡に変える術を身につけた。目から感情が消えた。それが今、かつてのように兎の目をして天井を睨んでいる。私は呆然とその場に立ちすくんだことを告白する。
携帯を耳に押し当て、息子は老人のように背中を丸めた。
窓の外は、早い宵闇に紛れて、止みつつある雨。
「犯人?」
博史は空いた手で前髪を乱暴に掻き上げた。
「犯人なんてどうでもいいんだよ。多分。殺されたってことだよ。あいつは」
それは私にずしりと迫る言葉であった。
博史が携帯電話を切るのを待って、私は彼の部屋を出、そのまま夜の街へ去った。もし誰かが再び奇跡的に私の姿を目に留めても、亡霊ではなく、ただの酔っ払いと誤認してもらえるほど遠くの見知らぬ歓楽街に行き、閉じられたシャッターの前で、私は眠ることのない夜を過ごした。私の心は重かった。
(第三章へつづく)
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