た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

極短編 橋の下 (3)

2005年07月12日 | 連続物語
 息もできないほどの太い雨脚。寒気。すぐ近くに感じる増水した川の轟き。彼は朗読するときのように本を両手に持って掲げた。

 (朗読は彼の理想教育の一環だった。彼はクラスのホームルームの時間にそれを実施した。名作を読んで聞かせれば、子どもたちでも必ず共鳴し、ひいては彼らの情操教育につながる。それが彼の信念であった。34名との最後の駆け引きだった。毎日約五分間の朗読は、彼らの野次と、欠伸と、全く関係のない私語による下卑た笑いを教室に蔓延させただけに終わった。それでも彼は、たとえ34名が誰一人聞いてなくても、最後の勤務日まで、つまり入院する前日まで朗読を続けた。教室で取り上げた題材は、『山月記』。次に『幸福の王子』。三つ目の『人にはどれだけの土地が必要か』は未完に終わった。)

 今彼が手にしている本は、そのいずれでもない。
 「この世に英雄精神は」
 彼は土砂降りの中、掠れる声を上げた。
 「この世に英雄精神はただ一つしかない。それは、この世をあるがままに眺め──そしてそれを愛することである」
 しばしの沈黙。
 「『私を苦しませるものほど私を喜ばす』。『私の喜び、それは憂愁である』」
 「彼の天才はみずからを裏切る魂と結びついていた」
 さらにしばしの沈黙。 
 「『なんと私は不幸なことか。なんと不幸なことか。すべての私の過去のうち、一日として私のものであった日がないとは』」
 
 水かさを増した濁流が堤防のあちこちから水を滲み出させるように、彼の口からはとつとつと言葉のかけらがつづり出てきた。開いた本の活字を追っているわけではない。何も見えはしない。 彼の眼鏡は曇って目隠しにしかならず、それを外したところで、叩きつける雨とへばりつく前髪に、目を開くことさえできなかった。彼はこれらのくだりをすべて暗唱していたのだ。目には見えなくても、彼の心には、何度もめくったページと追憶の苦い日々が鮮やかによみがえっていたはずである。そしてその本の主人公であるミケランジェロ───それはまさにロマン・ロラン著『ミケランジェロの生涯』であった───の、天才でありながらその才能の発揮を妨げた数々の不運と、自身の精神的弱さと、彼を理解しない周囲の人々とに翻弄された人生を、深い共感をもって思い描いていたにちがいない。
 
 「『ああ。ああ。私は過ぎた月日に裏切られた。・・・私は待つことがあまりにも長すぎた』」
 「『あまりにも待つことが長すぎた私に禍あれ。自分の望んだことに到り着くことが遅すぎた私に禍あれ』」
 長い沈黙。
 「今や死は彼にとって生活でのただ一つの幸福のように思われた」
 「『もう時の移り変わらぬ魂は幸いであることよ』」

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